雪道をゆく

その日、屯所はいつもより静まり返っていた。いつもは庭で稽古をしている平隊士たちの姿も見えない。

市中巡察から戻った沖田総司は、その様子を見て首を傾げた。雲の隙間から射している弱い光が、背中を温めている。

沖田は連れていた平隊士を解散させると、ちょうど廊下を渡っていた沢村という中肉中背の男に、声をかけることにした。

「沢村君。土方さんはいますか」

「沖田先生……お早いお帰りですね」

沢村はその瞳の奥を、狼狽で染めている。隠してはいるが、元はと言えば土方が「この男は嘘をつけない」というので、小姓につけた男だ。

「ええ。今日はいやに落ち着いていたな、そういえば」

「それは……見回りの甲斐が出てきたというものでしょう」

沢村の唇が震えている。京の寒さからではない、何か本人にとって重大なものが沢村の心を占めているものと沖田は見た。おそらくまた土方が、何か起こしそうな予感をさせているのだろう。

「土方さんが在室なら、私の方から出向きますから結構ですよ」

ことが土方に関連していると悟った沖田は、そのまま庭先をぐるりと回って土方の居室へ向かった。

沢村は何も言わず、追っても来ない。

きっと今頃、土方は恐ろしい形相で文机に向かっているのだろう。そう考えて沖田はひとりでにおかしくなった。

いつも仏頂面で不機嫌そうに口元を引き結んでいる土方は、他人からすると融通がきかず、自分の頭が怜悧なのを盾にした鬼のように見えるらしい。

沖田は十になる前から起居を共にしている間柄であるために、土方のそういう気質には十分慣らされてしまった。土方の振る舞いがちっとも恐怖として立ち上がってこないのはそのせいだろう。


土方のいる副長室は、日差しも遠慮してか影になる時間が多いようである。隣に置かれている沖田の居室とは大違いだ。

「土方さん、沖田です」

襖越しに声をかける。耳を近づけてみたが物音一つしない。

「いらっしゃいませんか」

沖田は言うなり襖を引いた。がらりとした室内に、いつもの姿はない。

「総司」

沖田が踵を返すときを図ったように、その数歩先の廊下には土方が腕を組んで立っていた。

「なんだ、そこにいたんですか。本当に人が悪いなあ、土方さんは。声くらい掛けてくれてもいいのに」

「お前に打ち明けねばならない話がある。来い」

腰を落としてゆったりと歩くのがこの男の癖であるのに、なぜか今日ばかりは腰に落ち着きがない気がする。

いつものような憮然とした物言いだったが、よく見れば土方にも焦燥に似た何かがこみ上げているようだ。

(なんだ?)

沖田は眉をひそめた。土方もこうなるほどの何かが、起きている。

黙って追った土方の背が、山南のいる総長の部屋の前で止まった。

「総司」

「はい」

「このことはまだ近藤さんと沢村しか知らないし、他に教えるつもりはない。どういう意味かわかるな」

(え?)と聞き返す暇を与えずに、土方が山南の部屋の襖を少し引いた。

中は先ほどの土方の部屋を見た時と同様、がらりとしていて人気がない。

「山南さん、どこかへ出ていらっしゃるんでしょうか」

土方は部屋の奥においてある文机まで、そのまま大股で入っていった。

沖田はそれを追う。

土方が腰を折って文机の上に置いてある一枚の文を手に取り、それを沖田に手渡した。

「江戸だよ」

「えっ?」

「でかけ先さ。あの人は新選組を抜けて、江戸へ逃げたんだよ」

この部屋が土方の部屋のようにがらりとしていたのは、その山南の荷物の一切がないからであった。思い返してみれば、山南の部屋にはたくさんの荷物があったはずである。それに今この時まで気が付かぬほどに、いつからか自分はこの部屋から遠ざかっていたのだということに気が付いて、沖田は茫然とした。


――「沖田君、あまり子どもと真剣に張り合ってはいかん、君は大人なんだから」

山南の声は耳障りがよく、その温和で利口な人格がにじみ出ている。

近所の人々からも好かれ、子どもが好きなところは沖田とよく似ていた。そのためか二人で町を歩くと、必ず子どもたちが寄ってくる。

沖田はそれと大いに遊び、山南は字を教えたり話し相手になってやったりしていた。

「しかし、本気を出せと子どもたちが言うので」

「……大人気ないと言えばそれまでだけど、君が言うとどうも憎めないな」

子どもと別れて屯営へ戻るとき、山南はそう言って朗らかに笑った。沖田は山南のこの顔が好きだ。近藤が父親代わりだとすれば、山南は兄の代わりであった。

「それでも隠れたり狭いところを逃げたりするのは、子どもたちの方がよほどうまいんです」

「それは身体の大きさの問題があるからね」

「だから私だって、ただ一方的に有利というわけじゃあないんですよ」

「そうですか。……まったく、君にはかなわないな」

「私だって山南さんにはかなわないと思っていますから、おあいこですね」

二人は川沿いを歩いた。秋も半ばの頃である。

沖田は遊びで汗をかいたがそれが冷え出して、ぶるっと身を震わせた。

「そうだ、君にひとつ聞いておかねばならないことがある」

「なんです?」

「君は、いまの新選組をどう思う」

「どう、とは」

山南は眉間を寄せた。口元に笑みをたたえたままだから困ってはいるが、それはおそらくこのことを何と言葉にすれば、沖田に屈折なく届くか考えているのだろう。

「……率直に言うとね、私は伊東先生に同じ志を感じている。しかし土方君や近藤さんは、……いや、近藤さんは伊東先生を慕っているようだけども、同じ色の獣じゃないようだから」

三者とも、ある意味では思想や人間に食ってかかる獣である。山南の巧みな言葉に沖田は三者の有り様を思い出してみた。土方は刀が、伊東は学が、そして近藤には土方が、それぞれの牙となる。

「そういう話をされると、困ってしまいます。私はあまり、そういう話で弁がたつような柄ではないですから」

沖田は山南の表情を真似たような笑みを浮かべてみた。沖田自身、心からそう思っていた。それは山南にも伝わっているようであった。

だが山南としては何としてもここで沖田の意見を聞いておきたいらしい。今後の身の振り方を考えるためではなく、弟とも言える存在の言葉だからだと、沖田は心の何処かで確信していた。山南が自分を無碍にできないことは、よく分かっている。

「私は、近藤先生と土方さんの行く方へ行くだけです。私にとっては、行く先を決める手がかりなんてのは、そこにしかないから」

「それも結構だが、思うところはあるのではないかな」

「そういうのは土方さんの領分です」

沖田は鼻をかいた。丸っきり思惑などない。

「……そんな風に思える君が眩しいよ。全く、どんな悪人でも君を騙そうとは思うまい」

清きを持って濁りを澄ます、沖田のそういう性分を、山南もよく分かっていた。だからすぐにそう引き下がったのだろう。

「だから土方君も近藤さんも、君には本心を明かすのだな」

沖田には、それが自嘲に聞こえた。沖田は自分よりやや背丈の低い山南の横顔を見た。陰っている。

(この人は、近藤さんの人柄にひかれて試衛館に来た。これでこんな仕打ちになったら、悔しくないはずがない。)

沖田はこの頃から山南が自分の居場所をなくしていることに気づいていた。いつか新選組を去るのではないかという不安も、この頃からよく感じるようになっている。

「私は、山南さんが好きです。私があなたを兄のように慕っているのは、十分ご存知でしょう」

「ああ、嬉しく思っているよ」

「だから……、そういうのは……、少し違うんじゃないかなあ」

山南は目を見開いた。沖田は自身の少ない語彙で、どうにかこの思いを伝えようとした。それが正しく伝わったのか、山南は頰を緩めてくれる。それを見ると、沖田も自然と、自分の口角が上がるのがわかった。

「ありがとう。君は本当にいいな、人の心を洗ってやれるんだね」

「いえそんなことは……」

沖田は自分の顔を撫でて目を何度か瞬いた。顔を触るのが、沖田の照れた時のくせだった。――


「……山南さんは、なぜ逃げたのでしょう」

沖田は、自分に自答するつもりでそう問うた。

「ふん、知るか。近藤さんにでも聞いてくれ」

「近藤さんへ?」

いつの間にか畳の上に落ちていた視線を、沖田はすくい上げて土方を見た。

「ああ。置いてあった手紙の一通は近藤さん宛だった。江戸へ行くらしいというのも、近藤さんから聞いたよ」

「……そうですか」

(山南さんはおそらく、この人が憎いほど嫌いだった。)

沖田は山南の心情を思った。あのとき、近藤を慕えば慕うほど、そのそばにいて誰よりも近藤に信頼されている土方を憎み嫌いになっていく自分を笑ったのだ。そして土方には、自分という腹心もいる。その土方を、どうして好きになれるような人間に生まれてこなかったのかと後悔するような自嘲だった。確かに山南が土方を好くような心を少しでも持っていれば、新選組の中でもずっと暮らしやすかっただろう。こうなることも、なかったのかもしれない。

「そしてこれは、お前宛だとよ」

「私……?」

土方に押し付けられた文を受け取る。それでもこの場では、それを開こうとは思わなかった。

「……あの、土方さん」

「なんだ」

「山南さんは、どうなるのでしょう」

無論、結末は知れている。隊を抜けたら切腹だ。隊をまとめる強靭な法は、相手が誰であっても例外を許さない。

土方は何も答えなかった。ただ黙って眉間にしわを寄せ、腕を組んだまま俯いている。

それを見て沖田は唇をかんだ。

山南を思えば思うほど、土方が憎くなる。山南の暗い思い込みや土方という存在によって追い詰められていく様を、その本人が隊規を盾にみぬふりをしていることにこの上なく腹を立てた。

「総司」

問いかけられても、すぐに返事ができなかった。。

「お前、山南の追っ手役をやれ」

「えっ」

沖田は唇が震えた。顔から血の気が引いていく。それと同時に、自分自身が自我を失っていくのがわかった。

「土方さんは、……山南さんをお嫌いでしたね」

「……そうかもしれん」

「私は、山南さんが好きでした。いい人でしたから」

「お前があの人を慕っていたのは、よおく知ってるさ」

それでも決まりは決まりだと言わんばかりにこちらを見据える土方を、沖田は睨みつけた。

「……土方さんには、あの人がどうして近藤さんや私に、しかも近藤さんにはわざわざ行き先を告げて文を書いたかなんてわからないんだ。あの人がどうしてこんなことを決めたかなんて、どうせ死ぬ人間のことだからと考えもしないで」

これほど自分から大きな声が出るとも思っていなかった。沖田はそれでも口を塞がない。

「この隊の中で、あなたを慕う人間なんて近藤さんくらいだ。みな仲の良かった隊士が腹を詰めさせられるたびに、隊規を憎むようになる。それを作ったあなたなんてそれ以上に憎いんだ」

「それでいいんだよ」

「あなたが良くても良くない人がいる。そうやってなんでも自分一人で決めて藪の中を進んで行くから、振り返る道もない」

「……総司、お前何が言いたい」

喧しそうに眉間にしわを寄せ、土方がぴしゃりと言った。

「私だってわからなくなってきましたよ。……でも、山南さんみたいにあなたのせいで死に急ぐ人がいる。そうやって知らずに誰かを冥土の道まで引っ張っていることも、心に留めておかれてもいいんじゃないかなあ、私はあなたが――」

「言いたいことはそれだけか、総司」

沖田の言葉を遮ったのは、土方の鋭利な声だった。

「まだまだ言いたいことなんて本当はいくらでもあありますよ、なんでそんなことまで言わせて……」

その先が、言葉になってくれない。沖田はもどかしさに唇をかんだ。その沖田を、土方は涼しい視線で一瞥する。

「なら聞き方を変える。それがお前の答えか」

(答え。)

沖田は黙った。考える暇を与えることなく土方が続ける。

「さっき、お前が追っ手だと言ったな。異論はないかと聞いている」

沖田は言葉をなくした。言葉をかぶせてその心を動かそうとしたのに失策した。この男の心には、自分の言葉さえ届かぬのだということを思い知らされてしまったのだ。

「……少し、考えさせてください」

沖田はそういうなり、部屋を出た。


沖田は自室の煎餅布団に袴のまま寝転がった。

夕暮れまでまだしばらく時間がある。沖田は明るい太陽が恨めしい気持ちになった。

しばらく布団をかぶって、辺りが闇になるのを待ちたかった。日が高いうちに沈んだ気持ちになるのが気にくわない。

(……山南さんは、今どの辺りにいるだろう。)

自分が追っ手となり、その背中を見つけて声をかける瞬間のことばかり考えた。

驚いた顔をして笑ってくれるか、もしくは悲しげな顔で刀を抜くか。あの人ならば自刃を遂げさせてくれというかもしれない。

沖田はやりきれなくなって身を丸めた。涙がこみ上げてくる。そのときに胸元で紙が折れ曲がる音がした。

沖田は土方に渡された文のことをあっと思い出し、布団から顔と手だけを出してそれを読み始めた……。


「土方さん」

部屋の前に立ちそう声をかけてみても、室内からはなんの音もしない。

そろそろ日が落ちていて、どの部屋からも灯りが漏れている。この副長室も例外ではないから、土方は中にいるのだろう。

「総司か」

ややあってから、低い声が聞こえた。

「入ってもいいですか」

「ああ」

襖を開けると、土方が文机の前で腕を組んで座っているのが見えた。その前に置いてある懐紙には何も書かれておらず、硯も乾いてしまっている。

「どうした。今日はもう寝ちまったんじゃなかったのか」

布団に飛び込んだのを知られているということは、あのとき襖に耳をつけるようにして部屋の前に立っていたのかもしれない。

「もう、追っ手をやってしまいましたか」

「……いや。もう少し遅くても間に合うだろうと思っていた。山崎に、用が済んだらここへ来いと言ってある」

「監察に行かせるおつもりですか」

「そうしかないだろう」

土方はこの男らしからぬ渋い声音で返答した。監察方は腕のたつ者が多い。それが複数名でかかったとしたら、あの山南でも命はないだろう。

「……私に、行かせてください」

沖田の声が凛と響いた。土方は下から沖田を見上げて、目を見開いている。

「……決めたのか」

「はい」

沖田は口元を引き結んだ。決意は堅い。土方が否と言っても、監察の後を追っていくつもりであった。

土方はゆっくりと腰を上げ立ち上がった。そして沖田の目を見つめる。

「山南さんは江戸へ向かった。道はわかるな」

「ええ」

「門の外に馬を一頭繋いである。そいつで行け」

そう土方が言うなり、沖田は身を翻した。そして慌てて自室へ戻り出立の手配を始める。

部屋で支度をしていると廊下に人影がたった。土方である。

「お前なら、取逃すこともあるまい」

「ええ。山南さんには、竹刀で負けたことはありませんからね。真剣ならわかりませんが」

「お前なら一人で十分だろうな。監察は不要か」

まるで自分に言い聞かせるような口ぶりである。

「……ええ」

土方は腕を組んだまま、どこか物憂げな表情で遠くを見ている。その横顔が月明かりに照らされ始めて、ようやく沖田は土方の心の中が読めるようになってきた気がした。

(この人はもしや。)

土方は山南が嫌いなのだと、ずっと思っていた。

しかし嫌いな者に討ち手を寄越す人間が、こんな表情はするまい。


馬乗り提灯を手にした時、途中の山道で雪に降られるだろうかと隣に置いてあった笠を見た。

懸念はしたが、結局笠を置いて馬乗り提灯を片手に土方の前を通り過ぎる。そして縁側からそのまま脚絆の紐を締めて立ち上がった。土方が沖田の部屋のふすまにもたれなが、らこちらを見下ろしている。

「行って参ります」

「……ああ」

土方が頷くのをみると、沖田はすぐに背を向けて門へ向けかけ出した。


少し離れたところから見ても、馬の吐く息が白く見える。今夜は冬の空もからりと晴れている。月が明るいから、明かりは必要ないだろう。

沖田は馬に走り寄って鞍に手をかけると、そのまま馬の背に乗り込んだ。

そこへ入れ替わるようにして監察の山崎が戻ってきたのが見える。

「山崎君」

「これは沖田先生。これから何処かへ行かれるのですか」

「土方さんの部屋へは、もう行かなくて良いですよ」

直接答える代わりに、沖田はそういって手綱を持ち上げた。私が君の代わりに行く、と言いたい。

「……はて、私は呼ばれてはおりませんでしたが」

「いえ、さっき確かに用が済んだら部屋に来るようにと……」

そこまで言って沖田は言葉を引き取った。これはあの仏頂面の男が差し向けた嘘だったと気付いたのだ。

あの場ではああ言うしかなくて、なりゆきに任せただけのことだったらしい。

「……そうでしたか。ならもう今日はゆっくり休んでください」

「ありがとうございます。沖田先生も夜道お気をつけて」

「総司」

遠くから自分を呼ぶ硬い声がする。土方だ。

「なんです」

大股でこちらへ寄って来る土方を、沖田は馬上で待った。

土方は近づいてきてからそこにいたのが山崎だと気付いて、ばつの悪そうな目をした。

「山崎、ご苦労」

「遅くなりました」

「構わん」

山崎に簡単に答えると、土方はそのまま沖田へ視線を向けた。月明かりに照らされたその表情には、沖田にだけわかる気遣いの色が見えた。

「お前はいつも一番隊の組長としてよくやってくれているから、そのまま三日間の非番を許す」

「非番、ですか?」

「ああ」

そういって馬の蹴り足を避けるため土方は馬から離れた。

「それなら仕方がないですね」

「気をつけて行け」

「はい」

沖田は笑顔でそう答え、馬の腹を蹴った。沖田には、土方の頭のなかがすべてようやく見えたからだ。

月明かりが馬を誘うようである。蹄の音は静まり返った冬の夜の空気を割いていった。



「私は後ほど、土方さんの部屋へ呼ばれているらしいですね」

「……聞き間違いだろう」

「では行かずともよいのですか」

山崎は口元に小さなからかいの笑みを浮かべた。

土方と沖田のやり取りで、この聡い男には事のあらましがすべて伝わってしまったらしい。

「来たら茶くらいは出してやるよ」

それだけいうと土方は、月と山崎に背を向けて歩き出した。

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