夏夜の果て 三

この季節の闇は色が薄い。どんなに遅くなっても、どこか遠くが見える様である。二人は黙って道を歩き、そのままあたりに目配せをしてから、桂のいた旅籠、寿やへ戻った。

玄関には誰もいない。桂は久坂に目で合図すると二人は音も立てずに二階へ上がって桂の部屋へ駆け込んだ。ここでも同じく用心する。

「ここで待っていてくれ」

疑わしいものがないとわかると、久坂は部屋の真ん中に腰を下ろした。そして桂の言葉に黙って頷く。

桂はそのまま階下へ降りた。そしてわざと大きな声で、台所へ声をかける。

「お松どの、いるか」

「あら、和田はんどすか?帰ってきはったんやな。少しお待ちになって、今行きます」

台所から声を張り上げるお松に、桂は自然と唇の端が上がるのを感じた。それからお松がいつ出てきても良い様に少しだけ身なりを整える。

「わざわざ来てもうて。どうされましたん?」

お松はその言葉と共に暖簾をくぐって笑顔を向けてくる。

「少し私の部屋に来てくれるか」

「……ええ」

きっと訳も分からないだろうに、それでもついてきてくれる。桂は早くその心の内を打ち明けたいと思った。こういう健気さには打たれ弱い。

ふすまを開けると、久坂が胡座をかいているのが見えた。お松の顔がぱっと明るくなるのがわかる。

「あら?久坂はん?」

「お久しぶりです」

久坂は胡座のまま頭を下げ、無言でお松に挨拶をした。

その間に桂は周囲を見渡し、音を立てずに襖を閉める。それから振り返って、お松に座る様促した。

桂もお松も畳に座ると、桂が口を開く。

「君を騙していて悪かったと思う。この通り、私は長州側の人間だ」

瞼を閉じていても、お松がふんわりと笑うのがわかった。

「……なんやそんな気はしてましたけど、まさか久坂はんとお知り合いやったとは」

その一言で、そんな些細なことは許すと、言われている様な気がした。桂はお松に感謝のため頭を下げてから、久坂に向き直る。

「久坂君。君にはこのために来てもらった。無理を言って悪かったね」

「ここに来た時から察していましたよ、"和田先生"」

久坂は階上から、二人の会話を聞いていたらしい。桂は腹の内で感心した。

「あの、和田はん?これは……私がさっき、どちらの人か示してて言うたから?」

少しだけ困惑した様に、そして申し訳なさそうに眉を寄せる。

「ああ。君にはこちら側の人間だと信じてもらいたかった」

「なんでそんに……」

お松はさっきから、ずっと指先をきつく握っている。自分の一言で、他人を動かしてしまったことに罪悪感を感じているとみた。それを和らげてやりたくて、桂はお松に出来る限りの笑顔を向ける。

「少しね、君に話しておきたいことがあるんだ」

そう言うと、久坂が雰囲気を察したのかすくっと立ち上がった。

「俺はもう、お役御免ですね」

桂の返事を聞かないうちに、久坂は襖に手をかける。

「”和田先生”。今は帰りますが、あなたとは今後の時勢について語らなくてはならないことが山積みですから、またすぐ来ます」

「……ああ」

桂の言葉を背中で受けて、久坂はそのまま去ってしまった。二人きりの場に、妙な沈黙が流れる。

はたから見てわかるほどにお松がそわそわとし始めて、そのうち何か話し始めるだろうと分かる。しかし、桂はそれを止める気でいた。

「あの、お茶でもいれましょか……?」

「いや、このままでいい」

言葉と同時に立ち上がろうとするお松の手首を掴み、そのまま座らせた。それから手首を掴んだまま、その瞳をじっと見つめる。

「実は……君を驚かすのはこれだけではない」

「……なんですのん?」

口ぶりから、少し怯えが聞き取れる。

「私の本当の名を明かすと、桂小五郎だ」

「桂……小五郎……?」

桂は言い切ってから、そのお松の表情が変わりゆく様を見た。最初は伝えられた事実にはっとして、そのあと思い出が懐かしまれたのか表情が歪んだ。しかし、泣くかと思ったところで留まる。

「……やっぱり、……桂はんやったんどすな……」

絞り出されたその声に、桂は打ち明けてよかったと心の底から思われてならなかった。それから桂の方にも、湧き上がる思い出があってつい目頭が熱くなり、口元からは笑いに似た息がこぼれた。

「ああ。昔、君とも会ったことがあったね。君の母君と親しくさせて頂いていたよ。もう十ニ年も前になるか」

「はじめ、顔見ておぼろげながらそうちゃうかと思いましたけれど、……やっぱりそうやったんどすな」

「ああ。また会えて嬉しいよ。大きくなったね、お松」

その言葉に、お松が口元を覆う。彼女の胸中にある何かを、桂の言葉が突いたらしかった。

「桂はん、……母は、もう……」

二人の間にあるのは、偉大なお松の母親の存在だった。二人が思い出を語るには、なくてはならない人、そして二人を結びつけた人。桂はわかっていながらも信じたくなかった事実を、無理やり飲み込んだ。この状態のお松の前で、自分が崩れてしまうのだけは避けるべきであった。

「ああ、そうだろうね。……松、一人でここまで、よく頑張ったな」

「ああ……桂はん……!」

お松は桂の言葉に泣き崩れた。そんなお松を、桂は自分の胸元に引き寄せる。

あの頃十も下の可愛い妹の様な存在だった。そのお松が泣いてしまえば、桂にはこうするくらいしか方法がないのだった。

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