夏夜の果て 二

お松が出て行くと、男は左手に携えた刀の鯉口を切った。そのまま音を立てぬように、そして襖の溝を踏まぬように、畳の縁を避けて部屋の中へ進む。

そして押入れや窓を開け、素早く一つひとつ敵の有無を確かめた。いざという時の逃げ道も探していると見える。

(ここから屋根伝いに行けるか……)

それから室内を振り返り、火鉢や灯籠の位置を見てしばし沈黙する。どうしておくのがいざという時都合が良いか考えているのだ。

しかしそこへ階段を上がってくるお松の足音が聞こえて、男は慌てて刀を脇に戻し、部屋の中心にあぐらをかいた。

それからふすまの前に、お松が座った気配がする。

「和田はん? 入りますえ?」

「ああ」

男はあぐらをかいて答えた。腕も組んでいる。

お松は傍らに湯のみを乗せた盆を置くと、そのまま少し男ににじり寄ってきた。

「さっき玄関で、新選組の人らを見ましたん。みなはん怖い顔して、なんや捕物とちゃいますかいなあ」

少し声を潜めているのは、何かの遠慮のせいだろうか。

「新選組とは、うわさで聞いたことがありますが、どういう人達なのですか」

男は何食わぬ顔でそう聞いてやった。

しかし、十分あのだんだら羽織の連中のことは知り尽くしている。

「私も、実はよう知りまへん。なんや将軍さまのご上洛のためにのぼってきた云うてますけど、いまは町をうろつく長州土州の浪士を斬ってますのやて。長州土州の人らはわてらにようしてくれたから、町の人らはみんな壬生狼壬生狼いうて忌み嫌てるようやけど……」

お松が囁いてくる。男はそのまま話を続けるために、次の問いを頭の中で用意した。何度か問答を繰り替えさなければこの女がどちらの味方か分からぬからだ。本当ならば、早く見極めたい。

「壬生狼とは?」

「あの人らの陣が壬生村ちゅうとこにあるんどす」

「なぜその人達は長州土州の浪士ばかりを狙うんです?」

「なんや、和田はん、あの人らのこと気になりますのん?」

「いや、まあ……」

そう返ってくるとは思っていなかった男は、内心狼狽した。しかしすぐに取り繕って、その場をとりなす。

「京にいる間、なにか物騒なことがあったらと思うと気が気ではなくて。あなたの知ってることを聞きたかったのです」

「そういうことやったんどすな。けど、……私もよう知らんので、この程度で勘弁しとくれやす」

「それはすまない」

「これ以上京の町のこと知りたいんやったら、和田はんにもどちら側のお人か示してもらう必要がありますし」

男は察した。このお松という女が、実のところ長州寄りの思想であることを。幕府側の人間には、尊王攘夷派を取り締まる任がある。それを匿う必要があるために、こうして一つ線を引いているのだろう。幕府側の人間であればこうは言うまい。

「お松はん、お店の人が来はりましたで」

店番の声に、お松は立ち上がった。

「はーい、今行きます」

「お店?」

「ええ……」

男はお松がこの瞬間に自分に対して秘密を持ったのがわかった。必要以上のことを言わないこと、そして相手の立場を見極めてからそれにあった話をすること、この二つは宿の女将として生きるための術だろう。

「……ほんなら夕飯は、暮六つに持って上がります」

「ああ、宜しく頼みます」

「ええ。ごゆっくり」

男は何かを悟られまいとして急ぎ部屋を退出するお松の背中を見送った。それから少しの間、部屋の窓から外を眺める。京の町は変わった。目に見える景色ではない、それを取り巻く環境、歩く人、空気がである。

男はしばらく町並みを眺めてから、意を決して立ち上がった。刀を佩いて部屋を出、階下へ下る。

そこで廊下に雑巾をかけていたお松と出くわした。

「和田はん?どこいかはるんですか」

お松はわざわざ襷を取って尋ねてきた。

「古い友人に会いに行ってきます」

「くれぐれも暮れ六つには遅れんように」

「ええ。せっかくの料理が冷めてしまいますからね」

「わかってらっしゃるんならよろしいです」

そう言って笑うお松の笑顔に、つられて男も笑顔になる。

「では、いってきます」

「ええ、気いつけて」

男は下駄を履いて、ゆっくりと暖簾をくぐり宿を出た。向かう先は、古くからの同志から聞いた宿であった。


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