夏夜の果て 五

(お末からの手紙か……)

桂はじっと手に持ったお猪口を見つめる。その手紙には何が書かれているのだろうかということを考えてみると、自然と昔のこの寿やのことが思い出された。あの頃はまだ自分も若くて、お松の母親であるお末に本当によく世話を焼いてもらったと思う。剣を極めることに夢中で、西洋の軍事や勉学にも必要以上に興味を持ってあたった。

どうして懐かしく思われないだろうか。桂の心に感傷が生まれてきた頃。

「あれから時間が経ったんで、陽に焼けてもうたけど」

そう声がして、お松が戻ってきた。

桂は沈みそうな気持ちを持ち上げて、笑って見せた。

「ありがとう。みっともないところを見せてしまうかもしれないからね、一人になってから読もう」

「……ええ」

しかし、お松は何かを察したらしい。声音を落として、桂の気持ちに寄り添おうとしてくれる。

桂はそれがどうも申し訳なく感じて、うんと背伸びをして見せた。

「……少し酔ったみたいだ。そこを開けてくれるかな」

お松は頷いて立ち上がり、肘掛窓を開けた。初夏の風がふんわりと空気をかき混ぜるように入ってくる。綺麗な月がぼんやりと浮かんでいた。

「……君たちのように、時勢がどうなろうと味方すると言ってくれる人がいるなんて、本当に長州の奴らは幸せだな」

「いいえ。私も母も、桂はんから頂いた恩を返してるだけです」

「……それでも、手放しで味方をしてくれる人がいるのはありがたいよ」

お松は風に吹かれながら、黙って桂の言葉を聞いている。

月が雲に隠れ、町の灯だけになると、部屋の中はひどく頼りなくなった。

「私はね、今長州が立たされている立場というのが、よくわかっているつもりだ。だからこそ、久坂君たちには少し自重して欲しいと思っている。私と同じ志を持った高杉という男が若いものたちの英雄だったんだが、そいつが世に呆れたから隠遁するといってね、山奥に引きこもってしまったんだ。それもあってただの烏合の衆だった長州の若い者たちは暴走を始めた。このままいけば、長州藩主の雪辱のためといって御公儀に楯突くやもしれん」

長州の加熱は、いまや桂の手にさえ余るものになってしまった。うかうかしていては自分の命こそ危ないかもしれない。桂には、そんな未来がうっすらと見えるような気がした。

「……だがね。私には御公儀に盾突き、闇雲に争うのが賢い選択だとは思えんのだ。それでも、そのことに私らが異を唱えれば、若い衆たちは攘夷決行を文句に沸きかえる。彼らはもう誰にも止められない。……周りからは私が久坂君はじめ、若い者たちを抑えているのだと思われているが、実はそうではない。勢いを持って反乱を企てている彼らにとって私や高杉は、いまや害になる可能性のある存在なのだ」

言い終えるとともに、胸に苦いものがこみ上げた。どうしてこうなったのかと問いかけてみても、それはすべて時代のせいとしか誰も言えまい。

「……それは、長州の人らを匿うと、桂はんがおりづらなるっちゅうことどすか?」

「……今はまだそうではないだろうがね。まぁ、いつかそういう日が来るかもしれんというだけだ」

思いの外、その言葉尻に自嘲の笑みが混じってしまった。桂はそれをかき消そうと笑おうとしてすぐ失敗に気づいた。お松の見せた表情が、あまりに真剣味を帯びていたからだ。

「そんなん、桂はんは長州の人らのこと思て動いてはるんやろ? それやのに?」

お松のこの言葉が、現実として桂の胸にのしかかる。

「……世の中にはね、うまくゆかないことがあるものだ。特にこの時勢では、正も悪も一日で翻る」

「……それでは桂はんがかわいそうや」

お松のその真っ直ぐな言葉に、桂は一瞬息を忘れた。

これまでこうなってしまった現実に密かに憤りを感じたことはあれど、自分のことを可哀想だと思ったことはない。

「桂はんみたいに頭がよろしゅうて、剣もお強くて、心優しい人こそ偉い立場になるべきやのに、疎まれるなんて可哀想や。きっと桂はんを昔から知ってはるこの近所の方々に聞いたら、みんなが桂はんを偉い人にしたいて言うはずやのに」

お松の言葉が、目が、訴えてくる。

必死に桂を励まそうとしている。

桂はその心が沁み入り、思わず息を漏らした。

「……君のような理解者がいてくれて、助かるよ。心が安らいだ。ありがとう」

「……私はなんもできしまへんけど、そう言ってくれるんなら、いつでもここで桂はんをお待ちしとります」

「ああ、それだけでいい。ありがとう」

桂の心を読み取ったように、雲から月が抜け出して二人の表情を克明に照らし出した。思わず照れた桂は、わざとお松から目をそらして空を仰ぐ。

「月が出てきたね。飲み直して、月見酒にでもしよう」

「ええ。ほんなら冷酒持ってきます」

「頼むよ」

お松はさっと立ち上がって部屋を出た。桂は町の灯に視線を投げたが、その横顔は余韻を引きずっているのか、ただただ澄んで穏やかなままであった。

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幕末末梢録 寿美琴(ことぶき みこと) @ris_1043

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