お茶漬けの湯気

紅蛇

お茶漬けの湯気


 夜中だっていうのに、ジメっとしていて暑いな。


 男は上着を肩にかけ、背中に汗が染み込んだシャツをはためかせた。左手には妻から出世祝いに貰った鞄。そして中には妻、ミカに渡すお土産が入っている。

 久しぶりに、早く帰れた。早くあいつに会いたいな。男はしかめていた表情をほころばせ、家族の元へ足を早める。


 頬を流れる汗をハンカチで拭き、息を整える。窓から覗くリビングには、明かりが灯っていなかった。きっと寝てしまったんだろう。男はがっかりとした気持ちになりながら、ゆっくりと鍵を差し込んだ。


「まぁ、おかえりなさい」


 鍵を回すと同時に、驚いた顔をした妻が現れる。男は悲しい気持ちを忘れ、「ああ、ただいま」と返事をし、笑みをこぼした。やっと、会えた。


 暗かった家に、明かりが灯り始める。娘を起こさないように、静かに喋る二人は、自然と夫婦の憩いの場、リビングへと向かっていた。


「今日は早いのね、お疲れさま。アキオさん、何か食べてきた?」

「食べてない。暑すぎて、参ったよ」

「あら、それでも何かは食べないと。何か作るよ」


 各自、自由に行動し始める。妻はエプロンをつけながら、キッチンへ向かう。男は入って早々、上着をソファーに投げ出し、重く感じる体を椅子に腰掛ける。荷を下ろす気持ちになり、ネクタイを軽く緩ませる。そうして、テーブルに置いてあったリモコンで、エアコンの電源をつけた。


「ピピッ」


 短い音を鳴らし、風を送る入口が開かれるのをみて、返事をする。

「それじゃあ、手軽なもので頼む」

 冷蔵庫を覗いていた妻に向かって言いながら、今度はテレビの電源をつける。数秒かかり、液晶に映像が流れ始める。どうやらバラエティ番組のようだ。男は騒ぐ芸人の音量を下げた。


「もう少し、小さくしてくれる?」

「あぁ、もう切る」

 男は必要なくなったリモコンを静かに戻し、妻を待った。

 そういえば、と男は何かを思い出したかのように、鞄を取り出す。

「これ、お土産」

 電気ケトルを電源につけた妻がやって来て、袋を開ける。額に滲み出た汗をエプロンで拭き、嬉しそうにした。よし、このチョイスで良かったようだ。

「今作ろうとしたものにピッタリよ、これ」

 ふふ、と小さく笑ってから、キッチンへ戻っていった。


 一人椅子に座る男は、電気ケトルが出す「ぷくぷく」と、妻が動き回る「ゴソパカットントントン」と言う軽快な音を聞いていた。未だ緊張していた胸をそっと撫で下ろし、眠気が襲ってきそうなまま、お湯を湧き終わった音で目を覚ます。


「ゴトッ」


 数秒経ち、眠気と戦っていた男の元に、お茶碗をテーブルに置く妻がやって来た。湯気に揺らいだ妻の顔に、眠そうな顔が垣間見える。


「はい、できたよ」

「お茶漬けか。こんな夜に、ちょうどいい」

 淡い若草色の覆われたお米が、つややかに光り、食欲を呼び起こした。男はゴクリとつばを飲み込み、中央に置かれた真っ赤な梅干しを崩した。


「これ、お土産のやつか?」

 男の向かいに座った妻は、いつの間にエプロンを外していた。緩く束ねた髪を整える姿、あくびをしたのか目元が赤く染まっていて、男はもう一度唾を飲み込む。


「ええ、そうよ。それ、ひとつ食べたけど、とっても美味しかった」

「そうか、良かった。じゃあいただきます」

 たまにはジメッとした夏もいいかな。男はそう思いながら、お茶漬けに箸を走らせた。

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お茶漬けの湯気 紅蛇 @sleep_kurenaii

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