第八十三話 父と娘

 ――ぐす……私ね……おとうちゃんの仇、取ったよ……。ちゃんと取ったんだよぉ……。うえぇぇぇん。


 祠の奥深くから、慟哭が漏れ聞こえてきた。

 それは、菊のむせび泣く声だった。


 温泉騒動の翌朝――。

 天野宗歩が柾目四兄弟とともに駒道具を探す一方で、市川太郎松は菊を連れて山の中腹にある祠を訪れていた。

 虎斑の社——。

 その最奥に据えられた祠のさらに奥へと続く洞窟には、この世とあの世を繋ぐ場所があるという。

 村でその噂を耳にした菊は、亡くなった父との再会を強く望み、はるばるこうしてここまでやってきたのだ。


 彼女が、そうまでして父に会いたい理由。

 太郎松は、根掘り葉掘り聞くような野暮なことはしなかった。

 だが、察するに彼女の父は賭け将棋のいざこざで命を落としてしまったらしい。

 その昔江戸で「印」を生業としていた太郎松。

 彼にとって、それは決して他人事ではなかったのだ。

 運が悪ければ、自分だって――。

 そう思えば、菊の境遇には同情をせざるを得ない。


 そんな菊が、将棋を指す本当の理由。


 それは――大好きだった父が生前に欲しがっていた段位免状を取得すること。

 伊藤宗看名人の花押の入ったその免状を、なんとか父に一目見せてやりたい。

 それが、菊の願いだったのだ。

 当初は死者との再会に渋る表情を見せていた安清も、菊の切実な思いが届いたのか最後には「協力する」と言ってくれた。


 安清の説明によると、死者を呼び起こすには強い思いが募った形見が必要となるそうだ。

 菊にとってやはりそれは、将棋の駒であった。


 彼女が大事そうに取り出した駒は、使い古されて所々欠けてしまっていた。

 駒木地も柘植など高級な木材ではなく、どこにでもありふれた書き駒だった。

 だがそんな安駒でも彼女にとっては、亡き父を思い出させるたった一つの品に違いない。

 実際、彼女は江戸から出た後、後生大事に肌身離さずそれを持ち続けていたのだから。


 太郎松はその駒を見た瞬間、一目ですぐに分かった。

 生前に菊の父が愛娘と数え切れないくらいに将棋を指したであろうことが。

 駒の表面に無数についた傷跡。

 それが、なによりもはっきりとそれを物語っていたのだ。

 「思い出が詰まった形見」という注文であれは、これはもう十分過ぎるくらいの品物であろう。


「なぁ、安清さん。本当にこれでよかったのかな?」


 祠の入り口で手持ち無沙汰な太郎松が、神官姿の安清に向かってそう尋ねた。

 安清は村の駒師の棟梁でありながら、この社の守を司っているらしい。

 緋色に染まった袴を身に付けた安清は、どこか宗歩の対局姿と重なるところがあった。


「ふむ……」

「親父さんと再会することで辛さが余計に増すってことも、あるんじゃねぇか?」


 亡者との邂逅は、逆に生者を苦しめる場合だってある。

 死者を忘れられなくなってしまった結果、前を向いて生きることが困難になる者さえいる。


 再会とは――。


 手放しで喜べるものなどでは、ないのかもしれない。

 

 そんな風に考えながら、太郎松は菊のこれからのことを心配していた。


「まぁ、あの娘ならばおそらく大丈夫じゃろうて」


 飄然とそう言ってのける安清ではあったが、太郎松の方はやはり釈然としないものがあった。


 そのときである。


 ――ほら見て、これが本物の初段免状よ! おとうちゃんが欲しがってた将棋家の免状だよ。すごいでしょう!


 涙交じりではあるが、先ほどとは打って変わって力強い声だった。

 祠の奥から響き渡るようにして、彼女の声だけがここまで聞こえてくる。


 ――嬉しい!? 本当!? うん、そう。えへへ。よかったぁ……。


 ――おとうちゃん、あのね…………。


 ――私ね……ちゃんと幸せだよ。心配せんで。


 ――最初は将棋のこと恨んでたけれど、今は将棋に出会えて本当に良かったと思ってるから。


 ――おとうちゃん……。私に……、私に将棋を教えてくれてありがとう。


 ――だから……これからもずっと……。


 ――天国で私を見守っていて下さい。お願いします。


 号泣。

 太郎松が、むせび泣きをしていた。


「……ああ、ああ。そうだな。大丈夫だ。やっぱりあいつは……大丈夫だわ」

「ほほほ、おぬしが泣いてどうする」

「ええい、ちくしょうめ! 江戸っ子は涙もろいんだよ!」


 太郎松は安清に照れを隠そうと、別の話題を振る。


「ところでよ。昨日の続きなんだが……」

「はて? 何のことじゃったかな?」

「とぼけるなって! ほら、宗歩の駒だよ」

「ああ、あれか。」

「あれは、本当にあんたが作った駒なのか?」

「うむ、そうじゃ」

「あの後、俺はしばらく考えていたんだ。で、ようやく思い出したんだよ」

「ほぉ、何を思い出したのじゃ?」

「雪、大橋家の雪。あんた、たしかあのとき、そう言ったよな?」


 澄み渡った青い空のもと、太郎松が安清に話を切り出した。

 

「俺がまだちっせえガキの頃の話だよ。江戸北町奉行の市川蘭雪様からたった一度だけ、その名を聞いたことがあるんだ」


 その名を聞いたとき、安清の表情がはっとする。


「ほほ、市川蘭雪とな。それはまた大層懐かしい名じゃ」

「なんでもその昔、江戸にどえらい強い将棋指しがいたそうじゃねぇか」

「……」

「しかも、その将棋指しはよ。宗歩とおんなじで、女だったそうだ。」


 将棋家に生まれた一人の娘。

 由緒ある名人の血を引きし麒麟児。


「たしか、その女の名が――」


 雪だったはず。

太郎松はそうはっきり安清に告げた。


安清が一瞬目を見開き、そしてそっと閉じる。

 

 それは、何かの終わりを告げる瞬間だった。


 収束。

 

 難解な超手数の詰将棋に巧妙に隠されていた作意。

それが、盤上に突如現れる刹那。


 気が遠くなるほど長く続いたこの物語が、今まさに幕を閉じようとしていた。

 

「……ほぉ。まさかおぬし、あの北町備中守様と知縁があったのか。なんともまた奇遇じゃのぉ。確かに。我ら柾目の駒師はな、あの御方のお取り計らいで将棋家に取り入られたのじゃよ」

 

 ――備中倉敷の近隣に、大層腕の良い駒師がいる。


 江戸の治安を守る町奉行のもとには、日々多くの噂話、与太話が舞い込んでくる。

 「耳袋」を記した根岸鎮衛ねぎしやすもりが職務を通じて大量の巷説を収集したように、市川備中守蘭雪もまたこのような噂話を書き留めていた。

 忘れてはいけない。この蘭雪は棋力五段の将棋好事家である。

将棋についての噂とあらば、その真偽まで確かめずにはおれなかっただろう。

 結果として、当時良質の駒を大量に求めていた将棋家は、市川蘭雪からもたらされたこの話に大層興味を示したそうだ。


「へぇ、そうなのかい。あの御方は将棋のことなら本当に何だって好きなんだな」

「妾らがこうして生きておられるのもあの方のおかげじゃ。今もこの村で作られる駒の一部は、とある大阪の商家を通じ、江戸将棋家に上納されておるわ」

「なるほどなぁ。いた、俺は不思議だったんだ。こんな辺鄙な村が将棋の駒を作ってどうやって生計を立てているのか。そりゃ将棋家に上納する伝手があるんなら、話は別だ。一生安泰だわな」


 感慨深そうに太郎松がうなづく、そして

「まぁ、そういうわけで、俺は雪という名をかつて耳にしたことがあるんだよ」

 と話を本題へと戻した。


「なるほど。雪様は、妾が出入りしておった大橋本家の娘じゃ。本家の門人でもあった蘭雪様とは面識があったじゃろう」

「じゃあ、あんたはその知縁であの駒を雪さんに作ってやったのかい?

「ほほ、いかにもおぬしのいうとおり。妾は大橋本家の長女である雪様に請われてあの駒をこさえたのじゃ」

「やっぱり。で、たしかその雪様ってのは……話によれば今の本家ご当主十一代宗桂、つまり鉄仮面の……」

「姉じゃよ。いや、姉じゃったというのがむしろ正しいか。なにせ雪様は若くしてお亡くなりなられたからの。もう二十年も前のこと。ゆえにあの駒は……、弟の宗桂殿が雪様の形見として大切に預かっておられたのじゃろうて」

「若くして亡くなった……? 一体どうして……、それに二十年前って……、あのさ、それってよ、ひょっとして宗歩が生まれた時分てことじゃねぇのかい?」

「うむ。まあ……そうじゃな」


 ――私は、この子を絶対に生みます。


 ――たとえ命を失ったとしても。あの人の子を産めるのであれば一切の悔いはございませんわ。


 ――ねぇ、安清様。もしもこの子が……大人になって貴方の前に現れでもしたら、その時はどうか……。


 過去に想いを馳せる安清を眼前にしながら、太郎松にもようやくおぼろげながらではあるが事の真相が掴めてきた。

 幼かった宗歩が、どうして将棋家に連れて行かれたのか。

 なぜ宗歩があの駒を託されて、そして江戸を旅立ったのか。

 

 きっと、そういうことなのだろう。


 そう。

 宗歩に未来を託したのは、大橋柳雪ひとりではなかったのだ。


 ――うん、柳雪? え……、ちょっと待てよ。


「あのさ、ひょっとして、大橋柳雪って……」

「うむ。おぬしの想像通りじゃよ」

「やっぱり! いや、通りでおかしいなぁと思ってたんだよなあ。俺に天狗の芝居をやらせたりしたのも宗歩の名を上げるためってわけか。それにしてもあの人も意地が悪いな。ずっと俺や宗歩に黙ってるなんて、まったく酷い話だぜ」

「ふふふ、ま、昔からああいう男じゃからの。あやつとしては、このまま黙って全てを抱え込んだまま死んでいくつもりじゃろうて」

「それにしたって、せっかく京で再会した娘に、何か一言くらいあっても良さそうなもんだがな」

「ほほほ、なにあの者は最初から宗歩殿に隠し事など一切しておらぬよ。ほれ、その証拠に、奴の名が正直に答えておるじゃろう?」


 ――柳雪。


 ――なるほどたしかに。お留と雪だ。


 あの男が、命に代えてでも守り通したかった二人の名。

 それがはっきりとそこには刻まれていたのだ。

 大橋柳雪、かつて二代目大橋宗英として名人を目指した男。

 彼に一体何があったのだろう。


 将棋家に入門したばかりの宗歩は、大橋柳雪と定例会で初めて出会ったという。

 ――初めまして、宗歩さん。私は大橋柳雪と言います。良かったら一緒に将棋を指しませんか。

本来であれば、大橋分家の師範代がいきなり本家の新弟子を誘うなんてありえないことだ。

彼は、そのとき父であることを隠したまま、生き別れたはずの娘と出会ったのだ。

いったいどんな心境だったのだろう。

 

 ――柳雪様。お久しぶりです。京まで訪ねて参りました。


 そして、十年後。京の都での再会。

十八歳になった宗歩は、棋士としても女としても立派に成長して柳雪の前に現れた。

彼は宗歩の姿を見て何を思ったのだろう。


 そのときふと、太郎松の脳裏にある謎めいた言葉が思い浮かんだ。


「宗英は雪の白きが如く。宗歩は紅の赤きが如し」

 

 師である大橋宗桂が、江戸を出た天野宗歩に伝えたとされる、あの言葉だ。

 宗歩の棋力を称賛したと読めるこの言葉も、今なら全く様相が異なって見える。


 この宗英とは初代ではなく二代目、おそらくは柳雪自身のことを指すのだろう。

 なぜならその横に雪と宗歩がいるから。

 宗英、雪、そして宗歩。

 おそらく最後の紅の赤とは――


血筋、つまり三人の血縁のことを暗示している。


 ああ、そうか。そこには、はじめからはっきりと――。


 父と母、そして二人の愛娘が並んでいるじゃないか。


 何も知らずに父と再会する娘に対して、師である宗桂は伝えたかったのだ。

 女であるがゆえに名人にはなれずとも、お前にはあの二人の血がはっきりと流れていることを。

   

「……安清さん、あんたは宗歩が戻ってきたら、すべて伝えるつもりなのかい?」

「そうじゃの……そのつもりじゃ。知らずに済めば良いとも考えたが、宗歩殿の眼を見て、妾の気が変わってしもうた」

「変わった? 変わって一体どういうことだ?」

「あの眼はかつての雪様にそっくりじゃ。彼女は男ばかりの将棋家の中でも、毅然としておったよ。まさに気高き孤高の存在じゃった。あの雪様の娘ならば……、全てを知った上でなお、果たしてどうするのか。妾はそれを見届けとうなった」

「なるほどな。でも、あいつ、大丈夫かな。ああ見えて結構脆いからなぁ」

「ふふふ、それを支えてやるのが、おぬしの役目じゃろうて」

「はん! なるほどな、最初から俺も駒だったってわけかい!!?」

「なに、この期に及んでみれば妾もまた駒の一つよ。まぁ、任せておれ。決して悪いようにはせぬ。……さて、あちらもそろそろかの」

 それだけ言い残した安清は、亡霊との別れの儀式を行うため、祠の奥に静かに戻っていった。

「ま、待てよ。まだ聞きたいことがあるん――」

 彼女が一向に振り向く気配がないことを悟った太郎松は、ふっとため息を一つだけついた。


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宗歩好み!~最強美少女棋士 天野宗歩ができるまで~  藤之森ちょろり @tubakuro003

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