第八十二話 もう一人の棋聖

 天保七年十月——。

 天野宗歩が備中倉敷において、中国名人香川栄松との激闘を繰り広げようとしていたその頃。


 備後の国、瀬戸内海に浮かぶ因島――。


 島の最北端の岬に、ある一人の少年が佇んでいた。

 色白でか細いその体つきからは、一見して弱々しさが見てとれる。

 だが、その双眸は力強くまるで森羅万象を見通すかのような聡明さがうかがわれる。

 

 今、彼の手には一枚の紙が握り締められていた。

 それは、高級な和紙の上に達筆な墨筆でしたためられた一通の書状である。

 左端には立派な花押が描かれており、一際その文の内容が只ならぬものであることを知らしめていた。

 今朝、江戸から届いたばかりの知らせであった。

 彼はそれを眺めながら、ぽつりとつぶやく。


 ――囲碁のお家元、本因坊さまかぁ……。


 少年が青空を見上げた。その表情にはどこか寂寥感が漂っている。

 なぜならその書状には江戸において権勢を誇る囲碁四家の一つ、本因坊家への入門試験について記されていたからだ。


 囲碁四家とは――。


 本因坊家、井上家、安井家、林家の四つの宗家で構成された囲碁の家元である。

 将棋三家と同じく神君家康公の時代から連綿と続くこの四家の頂点には、やはりまた同じように「囲碁所名人」が存在する。

 「囲碁所名人」——。

 それは、「将棋所名人」と並び立つ神々の山峰である。

 囲碁家に所属する「碁打ち衆」たちは、その名人位を賭して二百年もの間ずっと戦い続けていたのだ。


 いわゆる、「争碁」である。


 今この少年は。その血塗られた争いの中に幼い身で飛び込もうとしている。

 まだわずか八歳に過ぎないというのに。

 生まれ育った故郷の島をひとり旅立ち、江戸へ出府することに抵抗がないと言えば嘘になる。

 

 だがそのとき、突然――。

 少年が虚空に向かって独り言を呟いた。

 

 ――なぁに、大丈夫、大丈夫。江戸に行けばもっと強い人と碁が打てるはずさ。その方がずっと楽しいに決まってるよ。


 それはまるで、臆病になろうとする自分を奮い立たせるかのようだった。

 彼もまた彼女と同じように運命に立ち向かおうとしているのだ。

 

 幼い頃――。

 彼は母の手ほどきにより、初めて囲碁と出会う。

 そのとき彼の人生は、大きく変わってしまった。


 囲碁は無限の可能性を秘めた盤上遊戯。

 白と黒の星々で彩られた広大な宇宙である。


 その深淵を垣間見た彼は、一瞬で囲碁の虜になってしまった。

 くる日もくる日も彼は碁石を盤の上に打ち続ける。

 少年の真剣なその姿を見た周囲が、「まるで鬼に取り憑かれたようだ」と噂したほどにまで。

 島ではすぐに彼に太刀打ちできる者がいなくなってしまったという。

 当然のようにその評判が城下にまですぐに広まって、とうとう七歳の頃には三原城主から彼の棋力が認められる運びとなったのである。


 そして、ついに今日——。


 江戸にある本因坊家の耳にまでその名が届いたのである。


 翌年出府したこの少年は、見事試験に合格する。

 晴れて、名門本因坊家への入門を許されたのだ。

 入門後には、師匠の八世名人本因坊丈和から「百五十年に一度の天才」と賞賛されたと伝えられている。

 つまり、彼はそれほどの「麒麟児」であったということだ。


 そう。幕末の棋聖は、天野宗歩のほかにもう一人いる。


 幼名、桑原虎次郎。


 留(竜)の名を持つ少女に対し、虎の名を冠するこの少年。


 徳川将軍御上覧の御城碁、その生涯成績。


 十九連勝――無敗。


 だが鬼神の如きその強さにもかかわらず、あと一歩のところで囲碁所名人に届かなかった悲運の天才。


 彼こそが――。


 後の本因坊秀策である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る