第八十一話 天地無用

 うつろいやすきもの――。

 秋の空、猫の目――。

 そして、人の心――。


 温泉に浸かりながら、安清が太郎松と菊に話しかけてきた。


「ふたりとも、湯加減はどうじゃ?」


 安清の問いに、互いに顔を見合わせる二人。

 太郎松の方がまず先に口を開く。


「ああ、気分上々だぜ」


 太郎松のよく知る江戸の風呂屋は、湯船が狭くて窮屈だった。

 そのうえ光が入ってこないから、中はうす暗い。

 一応混浴だったのだが、隣にいるのが男か女かわからないほどである。

 それに比べて、この露天風呂というものは、全てが開放的だ。

 もちろん湯加減も申し分ないのだが、なにより美女に囲まれていることが彼をことさらに高揚させていた。


「ええ。確かにいいお湯加減よ。でもこんな開けっ広げなところで混浴なんて……ちょっと恥ずかしいわね」


 そんなことを言いながらも、今ではすっかり温泉気分に浸っている菊。

 ずっと江戸で暮らしていた彼女にとっては、初めての露天風呂だ。

 女である安清がここに加わったことで、少しは気が許せたのかもしれない。


 そんな二人の返答を聞いて、安清はとても満足そうな顔をした。


「ふふ、それはなにより。なにせこの温泉は村自慢の宝。怪我の治癒だけでなく、ほれ、見よ。こうして美肌にも効く」


 そう言って、安清は細い片腕を太郎松に見せつける。

 太郎松が見る限り、その肌はきめ細かく、艶と潤いすら感じる。

 そのまま、腕の先に視線を向け、肩、首、そして彼女の顔まで覗き込んだ。

 そこにはくっきりと皺が見て取れた。

 つまり彼女がそれなりに年を重ねていることが良くわかる。

 それでもなおこれだけの肌艶と美貌を保っているのだから、やはり彼女の言うとおり、温泉の効能によるものなのかもしれない。


「ふふ、宗歩殿が戻ってくるまでゆるりと楽しむがよい」

「ところで安清さん」

「なんじゃ?」

「あんた、本当に宗歩の駒を作り直せるのか?」

「うむ。おそらく難しいであろうな」

「えぇ!!」

「なんだって!?」


 即答する安清に、思わず二人とも声が裏返ってしまった。


「木目に同じものなど一つとしてない。それが駒作りというものじゃ」


 しれっと言ってのける安清。

 二人ともこれには呆れるしかなかった。


「なら、どうして柘植の木を探しに行かせたんだ? おかしいじゃねぇか」


 そうやって食いかかる太郎松に、安清はぴしゃりと言い放つ。


「宗歩殿の駒は真っ二つに割れておった」

「ああ。それがどうかしたのか?」

「あれは、感情任せに駒を打ち据えたからに違いない。違うか?」


 確かにその通りだった。

 宗歩は駒を盤上に激しく叩き付けたのだ。

 割れた駒の形状だけで、そこまで見抜くとはなんとも恐れ入る。


「道具を大事にせぬ者に、将棋指しとして大成などありえぬよ」


 安清の言うとおりだ。

 柔和な印象と打って変わって、この人は意外と手厳しいのかもしれない。

 

「妾はな、宗歩殿に駒作りのなんたるかを知ってもらいたい、そう思うたまでよ」


 なるほど、厳しくもあるがそれ以上に思いやりのある人なのだ。

 天才として周囲にもてはやされ、宗歩が天狗になることを戒めようと、まだ若い彼女を慮ってくれているのだろう。

 村の駒師が血の繋がりがない彼女のことを、「母者」と呼ぶのも強く頷けた。


 そんな安清が、ふと遠くの方を眺めて黙り込んでしまった。

 深刻な表情から、何かを考え込んでいる様子。

 いぶかしむ二人に気づいたのか、彼女が照れ隠しのように重い口を開く。


「実は、あの駒は……」

「駒? 駒って宗歩が持っていたあれのことか?」

「そうじゃ。あれは、妾がかつて作ったものなのじゃよ」

「な、なんだって!?」

 

 思わず飛び上がる太郎松。

 たしかに将棋家が所有する高級駒ともなれば、作成に関わった駒師は限られる。

 安清は江戸の将棋家とも繋がりを持つらしいし、あの駒を作っていたとしても決しておかしくはない。

 だがそれにしても――。

 偶然訪れたこの村に、その当人がいたなんて……。


「もう二十年も前になるか……。妾が江戸に初めて赴いたときのこと。あの駒はな、そのときに一人の将棋師のために妾が作ったものなのじゃ」


 昔を懐かしむように言う安清に、太郎松が問いかけた。


「どうして宗歩がそれを持っているんだ? そうか。あいつの話だと、あの駒は師匠から譲ってもらったんだったな。するとあんたは大橋宗桂様のために駒を作ってやったというのかい?」

「いや、それは違う。おそらく宗桂殿はあの駒を託されただけじゃろうて」


 ――何卒お願いにございます。安清様。


 ――この私のために、駒をひとつ作ってくださいませ。


 ――将棋家の書体とは違う、自分だけの駒がどうしても欲しいのです。


「じゃあ安清様は……一体誰に作ってあげたというのかしら?」


 それまでずっと黙って安清の話を聞いていた菊が、たまらずそう尋ねた。

 宗歩のこととなると、菊も太郎松もいてもたってもいられないのだ。


「ふむ……どうも、おぬしらは宗歩殿のお供というだけではないようじゃな……」


 二人を見回しながら安清は、ここで何かを決心する。


「雪という名の娘じゃよ。妾はな、大橋本家の雪様のためにあの駒をこさえたのじゃ」


 安清はただそれだけを答えて、そのまま押し黙ってしまった。


 ――安清様。どうして女は名人になれないのでしょう?


 ――貴方様は、こうして駒師の棟梁として立派に仕事をなされているというのに……。


 ――それに比べてこの私は……ただの人形です。いっそのこと、私もこの家を出て行きたい。そうして好きなだけ将棋を指してみたいものです。


 安清は何かに想いを馳せ、寂しい表情を浮かべる。

 それを見て、太郎松も菊も何も尋ねることができない。

 太郎松は思う。

 安清と宗歩の間には、浅はかならぬ因縁が存在する。

 ひょっとすると安清は、山から降りてきた宗歩にすべてを打ち明けるつもりかもしれない。


 しかたがないので、太郎松は別件について尋ねることにした。

 それは、この村の噂のことだった。

 倉敷の町で彼が偶然にも耳にした、あの鬼の噂だ。


 だが、この噂は誤りだった。


 安清によると、かつてこの村は飢饉のせいで村人が逃散してしまったらしい。

 この村では取り残されてしまった者達が餓死を覚悟して、いよいよその時を待っていた。

 そのとき、ある浪人が偶然流れ着いたという。

 その男の名こそ――源兵衛清安。

 何者かの計略に嵌り、不運にもお取り潰しになった小藩の侍だった。

 国を追われた彼は、諸国を放浪して後に柾目村に辿り着いたという。


「清安殿はな、この村の惨状を救おうとしたのじゃ。ひょっとするとこの村があやつが救えんかった故郷と重なって見えたのかもしれぬ……」


 彼は、取り残された者たちを救い出そうとして、近くの街道で代官が配布していた食料を確保し家々に配って歩いたそうだ。

 この懸命の救助のおかげで、何とか村は全滅を避けられたらしい。


「清安殿が立派だったのは、それだけに留まらなかったことじゃ」


 その後、清安は彼の家に代々伝わる駒作りの技法を、村人に伝承し始めた。

 特産品のないこの村が再び飢饉に陥ったとき、自力で生き抜けるようにするために、この村を本当の意味で救おうとしたのだ。

 幸いにもこの付近には、駒作りに適した木材が多く生育していたそうだ。

 柾目村の駒が周辺の町々で評判を呼ぶにつれ、逃げてしまった村人たちも少しずつ戻ってきたらしい。


「妾はな、故あって清安殿の遺志を継ぎ、こうして棟梁となっておる」

「へぇ。するとあんたの安清っていう名も……」

「うむ。初代棟梁である源兵衛清安殿にあやかって、そう名乗っておる」


 ――ゆえに妾の真の名は、また別にある。


 安清は確かにそうとも言った。


「それにしても、女が職人の棟梁ってのは、随分と珍しい話だな」

「そうかの? 男が家を継ぐというのはそもそも武家の慣わしじゃて。農民や商家では女が家を継ぐのもさして珍しい話でもないぞ」


 安清は清安の遺志を継ぐだけでなく、親に捨てられた孤児を拾っているらしい。

 それが子供を攫う鬼の住処だと、町で悪い噂を呼び起こしている遠因だったのだろう。


「かつてこの村では、飢饉のときに多くの子どもらが間引かれたと聞いておる。その償いとして、捨て子を拾ってきては村の皆で駒師として育てておるのじゃよ」


 ここは幕府直轄の天領。

 江戸から来る代官たちは、定期的に将棋家に駒を納めている安清のことを承知しているらしく、村の駒作りにとやかく言ってこないそうだ。

 村の子供は幼少から駒作りを手伝い、いずれは一人前の職人へと成長する。

 大人になった彼らは、ここに残る者もいれば世に出る者もいるそうだ。

 だがどちらにせよ、彼らが柾目の駒師としての矜持を忘れることはない。


「それに妾はな、親に見捨てられた子を見ると忍びないのじゃ……。苦しくて胸が張り裂けそうになる……」


 このときの安清は、とても苦しそうな顔をする。

 まるで我が子を失い嘆き悲しむ、鬼子母神のように。

 きっと彼女には、辛い記憶があるのだろう。

 そもそも彼女が何者で、どういう経緯で源兵衛清安と出会ったのか。

 まだまだ謎は深まるばかりであった。


 ――弐――

「ところでよ」


 太郎松が、唐突に話を切り替えた。

 さきほどからずっと気になっていることがあったからだ。


「なんじゃ?」

「――あんたの側に立っている、その人は一体誰なんだ?」


 安清の背中の方を指差しながら、太郎松がそう尋ねた。

 菊は不思議そうにきょろきょろするしかない。


「ちょっと、太郎松。何を言っているの? ここには私たちと安清様以外に誰もいないわよ」

 

 理解に苦しむといわんばかりに、彼女は大きく首を傾げる。

 たしかに、ここには三人しかいなかった。

 だが、安清の方は肝を抜かれたのか、終始口をつぐんだまま彼を見据えている。


「いや、最初は湯煙で見えなかったんだが。さっきからずっと安清さんの後ろに女の人が突っ立っているんだよ」


 何度そう言われようとも、菊の目にはなにも映らない。

 次第に、太郎松のことが薄気味悪くすらなっていく。


「ちょっと!? 気味悪いこと言って、おどかさないでよね!」

「おどろかしてなんかねぇよ。ほら、そこにいるんだって。信じてくれよ!」

「……おぬし、さきほどから何が見えておる?」

 

 二人の会話の間に割って入るようにして、突然安清がその口を開く。


「いや、風呂の中なのに着物着たままだし、さっきからうんともすんとも言わねぇしよ……」

「なんと! ではおぬしにはこの者が本当に見えておるのか!?」

「だから見えるも何もさっきからずっとあんたの後ろに突っ立っている……って、はっ! ま、まさか……」


 どうやら太郎松の言葉は、虚言や妄言などではないらしい。

 そう理解した菊の顔が急に青ざめた。


「ちょ、ちょっと……一体どういうことなの? 私にもちゃんとわかるように説明してよ!」


 太郎松が言うには、安清の背後には若くて美しい女が一人立っているそうだ。

 身に着けているその着物から見て、相当に古い時代のものらしい。


「ほほ、これは、なんとも奇遇な話じゃ。宗歩殿がこの村を訪ねてきただけでなく、まさかその弟子に霊視ができる者までいるとはな。まさしくこれこそ僥倖ぎょうこう!」

「……霊視? はぁ、なんだそれ?」

「人ならざるものを見通す神通力のことじゃ。生まれつき勘の冴える勝負師の中には、そういった特殊な力を持つ輩が稀におる。噂ではかの鬼宗英も見えておったらしいからの」

「じゃ、じゃあ、そいつは……やっぱり」


 太郎松はわなわなと震えながら、安清の背後を指差す。


「うむ。この者は――妾に取り憑いておる鬼じゃ」


 やはり、あの噂は本当だったのだ。

 この村には本当の鬼が住んでいた。


「鬼!? 取り憑く? なによそれ!? 正気なの!?」と菊が慌てふためく。

「正気も何も取り憑かれてしもうたからには仕方あるまい。なに、そんなに取り乱すことでない」

「じゅうぶん分取り乱すわよ!」

「鬼と言っても可愛いもので無害じゃよ。それに鬼の力のせいか、妾の歳の取り方まで随分と遅くなってきておる。ほれ、見てみ。齢五十を超えてなお、肌がぴちぴちじゃろう?」


 そう言いながら安清が太郎松に近づき、自分の胸に手を触れさせた。

 

 ぷにゅん。


「うほ!? た、たしかにこの餅肌は只者ではないな……」

「ほほほ、左様。ゆえに妾は老女であって老女ではない」

「ろ、老女であって老女でない……。じゃ、じゃあ……?」

「さしずめ『美老女』というところかの」


 ――び、美老女だってぇ!?


 美女でも美少女でもない。美老女というまったくの新境地。

 この新たな時代の幕開けには、さすがの太郎松も頭がくらくらしてきた。

 安清はそんな太郎松になおも話してくれる。


「この鬼は、かつて人を襲ったと伝わっておるが、それは話に尾ひれがついたもの。はるか昔、悪戯が過ぎたせいで山の祠に閉じ込められておったのじゃ」

「それをあんたが見つけたっていうのか?」

「うむ。あの祠はあの世とこの世を繋ぐ場所。長く留まっておれば、ひょっとして成仏するとでも先人は考えたのじゃろうな」

「あの世とこの世をつなぐって……。そんなものがあの山にあるっていうのかよ」

「そうじゃ。偶然にも妾が柘植の木を探しに山に入ったとき、こ奴が声をかけてきよったのじゃ。妾が持っていた駒が気になったそうでな」


 ――『もし、そこのかた、貴方様はひょっとして将棋指しでございまいしょうか?』


「なんとも風変わりな鬼じゃろう?」

「へぇ。するとこの鬼は将棋が好きだっていうのかい?」


 将棋という言葉を聞いて、太郎松は目の前の鬼女に親近感を抱く。

 たとえ異形の者であろうと、将棋を介しさえすれば一気に距離が縮まるのだ。


「うむ。それも遥か大昔のこと、『象戯』が海を渡ってこの地に伝来してきたときからじゃ。当時は駒の種類も随分違っておったらしいが……」


 彼女の声は聞こえないのだが、少し照れたような素振りを見せる。

 鬼と言っても角が生えているわけでなく、若く美しい女にしか見えない。


 ――くそ、よく見たら意外と可愛いじゃねぇか。


 美女の菊、美老女の安清、そして美しい鬼女――。

 行灯に群れ集まる蝶や蛾のように。

 少しずつではあるが、太郎松の周囲に彼女たちが寄り集まってくる。

 

 ――あれ? なんだろうこれ? なんかこの感じに覚えがあるぞ。


 菊の方はなにか深刻そうな顔つきで考え事をしているようだった。


「じゃあ、その鬼は一千年以上も前から将棋を指していたということなの?」

 

 彼女の目には見えていないのが、どうやら鬼がいることを受け入れたらしい。


「ほほ。そう言うと筋金入りの将棋指しのようじゃな。まぁ、実際には生前どこかの山で野たれ死んでしもうたから、ずっと将棋を指しておったわけではない」

 

 生前この鬼は、美しさのあまり誰かの嫉妬を買ってしまったそうだ。

 そして謂れない謗りを受けて都を追われたあげく、山で命を落としたらしい。


「そんなの可哀想。何も悪くないのに……」

「うむ……。まさに悲劇以外の何物でもない」

「不憫だわ。きっと好いた殿方だっていたでしょうに」

「ところが当の本人は、嫉妬はおろか色恋沙汰にとんと興味がなかったらしくてな。もっと将棋が指したかったそうじゃ」

「ええ!? それじゃあ将棋が指したくて、鬼に化けたっていうの?」


 「将棋の鬼」という言葉は確かにあるが、それを地で行く者が実際にいたことに二人はただ驚愕するしかない。

 ああ、将棋とはなんと罪深い物なのだろうか。


「妾としてはこの鬼が不憫に思えてしまってな……。人に迷惑をかけないという契りを交わして封印を解き放ってやったのじゃ。以来数十年ずっと側に寄り添っておる」

「情けをかけてやったというわけか。それで、彼女は一体なんのためにあんたに取り憑いているんだ?」

「うむ。この者は生前強い未練を残して亡くなってしもた。このままでは成仏できんそうじゃ。大願が成就するまでこうして妾に取り憑いておる」

「そ、それって一体、どんな願いなんだよ!?」

「ふふ、それはもうじきわかる」


 菊がひどく思いつめた顔をしながら、二人の会話に割って入ってきた。


「ねぇ。さっき言っていらした山の祠って……、あの世と繋がっているのよね?」

「うむ。そう村には伝わっておるが……」

「じゃあ、そこに行ったら亡くなった人とも会えるってこと?」

「おい、お前一体何を言っているんだ?」

「太郎松は黙ってて! ねぇ、安清様。その祠はあの世とこの世を繋ぐ場所なんでしょ!? だったら……死んだ人ともう一度出会えるの?」


 安清は少し困った顔をして、後ろの鬼と話をしだした。


「どうじゃ……? ふむ、そうか……。菊よ。会えないこともないようじゃ。亡くなった者の形見でもあれば、とこ奴は言うておる」

「だったら――」


 ――私、おとうちゃんにもう一度会いたい、と菊はそう言った。


 そのときである。


「ふん、ふん、ふん、温泉♪ 温泉♪」


 外の方から明るく軽妙な声が聞こえてきたのだ。

 誰かがこっちにやって来ている。


「あー! 太郎松おにぃちゃんと菊おねぇちゃんだ! それに安清様も! わーい」


 村の童女、薫仙だった。

 彼女は瑞々しいその裸体を惜しげもなく、太郎松の前にさらけ出す。

 そうして、どぼんと勢いよく湯船に浸かった。


「ふぃー。いい気持だよー。あれ、太郎松お兄ちゃんどうしたの? お顔が真っ赤っかだよ?」


 裸のままの童女の両手が、太郎松の顔にそっと触れた。

 ああ、なんということだ。

 美女と美老女、美鬼女だけでなく、ここにきて童女までが加わってしまった。

 

 ――そうか! わかったぞ。これは……「穴熊囲い」だ。

 

 将棋におけるもっとも堅固な囲い、それが「穴熊囲い」である。

 別名「獅子の岩屋」とも名付けられたこの最強の囲いは、玉将の周りに金銀を最大で四枚も密集させる。

 あの鬼宗英に見出された伝説の囲いが、今この露天風呂に再現されていた。

 太郎松の姿は、まさに穴熊に潜った玉将にも等しい。

   

 ――ふ、ふふふ。俺はもはや無敵だな……。


 そう。彼は天衣無縫の将棋指し、市川太郎松である。

 天衣無縫とは即ち、世間のしがらみや常識を気にせず有りのまま生き抜くこと。


 ――ふん! なにが、宗歩だ。あんな奴の尻に敷かれるなんて、まったくどうかしてたぜ。

 ――そうだ。俺にはこうして守ってくれる彼女たちがいるじゃないか。

 ――ふははは、たかが「歩」で自玉が詰まされることなぞ、ない!


 太郎松の中で、何かが壊れる音がした。


「よぉし、こうなったら俺様が全員のお相手をしてやるぜ! なんだったら俺が一人ずつ朝まで指導対局してやる! 最後には皆で楽しく感想戦だぁ!」


 そのときだった――。


「ねぇねぇ。一体何の指導対局なのかな? 感想戦てどういうことかな?」


 湯船の前に、天野宗歩が立っていたのだ。


「あんた――なにやってるの?」


 一歩千金。

 こうして四枚の穴熊囲いは、「歩」の手筋により一瞬で崩壊した。


(ここからは市川太郎松先生による鎮魂歌をお楽しみください)


「天衣無縫の将棋指し」 作詩 TAROUMATU 


 俺の前に立ちはだかる彼女の頭には、何かがにょきにょき生えていた。

 二本突き立つその出で立ちに、俺の心は戦慄する。

 ああ、恐ろしい。

 だってあれは鬼の角に違いない。

 ほら見なよ、あれが刺さったらすごく痛いに決まってる。


 山から下りてきた彼女の手には、大きな木材が握られていた。

 取れたてよ、と言わんばかりの芳醇な香り。

 ああ、たまらない。

 きっとあれは黄楊の木に違いない。

 ほら見てよ、あれで殴られたらすぐにでも逝けそうだ。


 鬼に金棒。宗歩に黄楊棒。

 重いはずの木材が、なぜだかぶんぶん弧を描く。

 だけど、俺は将棋指し。

 天衣無縫の将棋指し。

 これから起きる展開だって、この身に降りかかる惨劇だって。

 すべてが読み筋どおりの投了さ。

 それでは皆様、さようなら。


 合掌――。           


「げぇ!? そ、宗歩? いや、これはその……ごにょごにょ」

「あんた……私が山の中で散々苦労してたっていうのに……。まったくいいご身分だこと」

「ち、違うんだ! 聞いてくれ! 俺はこうしてお前の帰りを待って――」

「へぇー、女三人に囲まれて、まだそんなこと言うの? しかもこんな幼い子まではべらかして。それで私の帰りを待ってたって……、一体どの口が言ってるの? あんた馬鹿なの? 変態なの?」

 

 太郎松は助けを求めるように、安清、菊、そして薫仙の方を振り向いた。

 皆、彼からそっと目を背けて合掌する。

 心なしか、安清に取り憑いた鬼までが、見て見ぬふりをした。

 四枚の守備駒が、今度は攻め駒へと変わる瞬間であった。


 ――ひ、ひでぇ! この裏切り者! 鬼!


 将棋には、「四枚の攻めは絶対に切れない」という格言がある。

 裸玉の太郎松に、もはや――なす術はなし!


「ちょ、ちょっと、待ってくれ。俺の話を聞いてく――」

「この浮気者がぁ! 成敗!」


 どがっ!


 湯船から上がって近寄ってくる太郎松を、宗歩は容赦なく木材で突いた。


 つるっ!


 濡れた石で激しく転んだ太郎松が、来た道を戻るように後ろへ吹っ飛んでいく。

 そのまま放物線を描くようにくるりと頭から温泉に突っ込んだ。


 ばっしゃあん!


 湧き立つ源泉の如く、大きな水しぶきが激しく吹き上がる。


「きゃー!!」


 菊と薫仙の悲鳴が、温泉の外にまで届いた。


「ふん! まったくいい気味よ」


 沈みゆく太郎松を見下ろしながら、宗歩は冷酷に吐き捨てる。

 

「どうした!? いったい、何事だ!? なにやらえらい物音がしたようだが……」


 騒ぎを聞きつけた職人達が、ぞろぞろと温泉にやってきたのだ。

 その中には村の古老の玄爺までいる。

 どうやら仕事を終えて、みんなで温泉に入ろうとしていたらしい。


「うお!? な、なんじゃ、あの禍々しいものは……」


 玄爺が湯船の中心を指さしながら、わなわな身体を震わせる。


 なんと、温泉の真ん中から足が二本突き出していたのだ!


 その無残な光景を目にして、彼は高らかにこう叫んだという。


 ――祟りじゃぁ! これは緋鬼姫様の祟りじゃあ!


 その夜、叫び声が村中にまで響き渡ったそうだ。

 名探偵、渡瀬荘次郎がやってくるまで、後二日のことであった。



『宗歩好みTIPS』 「吉備真備と鬼」

遣唐使として入唐した吉備真備について記す「江談抄」には、彼が鬼から囲碁を教えてもらい、たった一夜で腕が熟達したという記録が残っている。

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