第八十話 柾目温泉

 日が少しずつ暮れだした、夕刻。


 逢魔が時と呼ばれる、黄昏の時間。


 それは――あの世とこの世の境界線である。


 天野宗歩が山中で柘植の木を探し回っていたその頃。

 一方の市川太郎松は――褌一丁になろうとしていた。


 ――ふんふんふん♪ ひとつ人より禿げがある~。ふたつ二つも禿がある~。


 柾目村の温泉に入ろうと、脱衣所でいそいそと衣服を脱いでいたのだ。 

 これでもう、本日四度目の入浴である。


 鼻歌まじりに随分と機嫌がよいのは、

 江戸っ子が、風呂と喧嘩がなによりも大好きだからだ。


 村の古老によると、山から湧き出すこの源泉には特別な効能があるらしい。

 なんと、湯に浸かれば切り傷や打ち身がたちまち治るとのこと。

 長旅で疲れきってしまったこの体も、入浴を繰り返すことですっかり回復するだろう。

 そう願って湯治に精を出す太郎松ではあったが、ふと思う。


 ――もう日が暮れかかっているのに、あいつ戻ってこねぇな……。

 

 ――ひょっとして事故にでもあったのか……?。

 

 予定では既に下山している刻限。

 さすがに能天気な太郎松も心配になっていた。

 だが今の彼にできることといえば――。

 湯に浸かって彼女の帰還を待つことのみである

 いや、太郎松は決して楽をしようとしているわけではない。

 日が暮れてしまった山中に人探しに行くことは、自殺にも等しい所業だからである。

 あまり気乗りはしないが、こうして身体を温めるほかないのである。


 ――ふんふんふん♪ みっつ三日月禿げがある~。よっつ横にも禿がある~。


 断じて言う。彼は宗歩のことをとても心配しているのだ。


 太郎松はそそくさと衣服を脱ぎ終えて、脱衣所からいったん外へ出た。


 ひゅー。


 裸になった体が秋風にさらされる。

 ことのほか寒い。


 ――うー、さびぃー。早く風呂はいろーっと。


 露天風呂へ直接向うために。、小石で作られた小路を早足に進んだ。

 しばらくすると、周囲から温泉特有のあの臭いが充満してくる。

 この独特の臭いの中心に、大きな岩でぐるりと取り囲まれた温泉があるのだ。

 豊富な湯量のおかげで溢れんばかりの湯船。


 ――うお!? なんじゃこりゃ、何も見えねぇ!


 もくもくと立ち込めるその湯煙のせいで、明らかに周囲が見えにくかった。

 これでは先客がいるのかどうか、はっきりよくわからない。

 さらに日が暮れかかっていることもあいまって、足元がおぼつかない。

 太郎松は慎重にそっと足を伸ばした。


 ちゃぷん。


 熱い湯に足を踏み入れた途端、それまで冷え切っていた身体が徐々に生き返っていく。


 ――ああ、気持ちいいなぁ。


 そのままゆっくり肩まで浸かって、ふぅーと長い溜息をつく。


 ――たまらねぇ。まるで極楽に来たみたいだぜ。


 心地よい湯加減。

 この寒空のもと山々を歩いている宗歩のことを想うと、なんだか申し訳ない気がしてきた。

 だが、太郎松はそもそも山に入るのが乗り気ではなかったのだ。

 それは彼の秘密と直接関係することだった。


 彼には、あるものが見えていた。


 その発端は、飛騨山中でのあの不思議な体験。

 以来、彼は奇妙なものを目にすることがしばしばあった。

 決定的だったのは、大坂で宗歩と十番勝負をしていたときのこと。

 自分に語りかけてくる何者かの存在を、はっきりと感じ取ったのだ。


 ――ひょっとして、俺は何者かに取り憑かれているのか?

 ――それとも何か霊感めいたものでも身についてしまったのか。


 もともと、幽霊や化け物など信じる性質ではなかったのだが、そうも言っていられない状況だったのだ。

 太郎松としては気味が悪くて仕方がない。

 できるだけそういったものとは距離を置くことで対処するしかなかったのだが。

 ここにきて、鬼が住むと噂される柾目村である。

 そう。太郎松はこの村に入ったときから、ずっと感じ続けていたのだ。


 ここには――何かがいるということを。


「それにしても……日が落ちちまったせいでぜんぜん見えないな。湯気もすげぇや。うん? 奥の方に人影が……。なんだよ、先客がいたのか? それならそうと言ってくれりゃいいのに……」


 ここは柾目村の共同温泉施設。

 昼に入浴したときも、駒作りの職人達が骨休めにちらほらとやってきた。

 駒作りは慎重で細かい作業が続く。だからどうしても体中がこってしまうのだ。

 温泉に浸かって固まった身体をほぐすことは、良質な駒を作るための大事な仕事と言ってもよい。

 

 きっと彼らのうちの誰かが入浴しているのだろう。


 ――よし。だったら、こっちからきちんと挨拶しとかないとな。


 じゃぷん。


 太郎松は、ぼんやり影の見える方向へと湯の中を進んだ。

 すると、なぜか人影の方がすーっと彼から離れていくではないか。


 ――うん? どうして逃げるんだ?


 気になったので、影らしきものにさらに近づいてみる。


「なに、怪しいもんじゃねぇからそんなに逃げねぇでくれ。あのよ。俺は江戸から旅して来た市川太郎松っていうもんだ。ちょいと、あんたらの温泉にお邪魔させてもらっているだけなんだよ」

「………」


 返事がない。ただの人影のようだ。


「……それにしてもこの村の温泉はいい湯だな。旅の疲れが一気に吹き飛ぶ気がするぜ」

「……………」


 返事がない。ただの人影のようだ。


 ――なんでだ!? なんで返事をしてくれないんだ? ひょ、ひょっとして……こいつは人では……ない……のか……。


 いぶかしんだ太郎松は、恐る恐るその影に向けて目を凝らす。

 

 そのときである。

 

 ヒュウーーー。


 山の方から一陣の風が吹き出してきたのだ。

 たちまち湯煙が消え失せて、人影の姿がくっきりと立ち現れた。


 菊だった――。


「きゃあーーーー!!」

「うおーーーーー!!


 湯文字一つの裸体の彼女が、目を丸くしながら悲鳴を上げる。

 その声に驚いた太郎松も思わず奇声を上げる。


「どうしてこっちに来るのよ! さっきからずっと隠れてたのに! 入ってこないでよね!」

「いやいや、ちょっと待て! 先客が入ってたら一声かけるってのが筋ってもんだろが! それにこの温泉は皆のもんだって、玄爺が言ってたぞ! 」


 玄爺とは、村の古老のことだ。

 彼によると、この温泉はそもそも村の共有財産。

 老若男女かかわらず、誰でも利用してよいと太郎松は聞いていたのだ。

 ところが菊の方は「あなたと混浴なんて絶対嫌! 私は宗歩お姉さまの帰りを待つわ!」と言って、かたくなに難色を示していた。


 なのに、なぜ……。


「この時間帯だったら職人のみんなは仕事しているから、誰も入ってこないって言われたのにぃ……ぶつぶつ」と菊が不満そうに文句を言う。

「そんなの、俺の知ったことじゃねぇよ!」

「仮にそうだとしても、いきなりずけずけ入ってこないでよ! こっちにだって心の準備ってものがあるじゃないの!——はっ!」


 そう言いながら菊は、愕然とする。

 あまりにも突然の出来事に気が動転していたせいで、上半身裸であることを今ごろになって気づいたのだ。

 だが時すでに遅し。

 太郎松の前であられもない姿を露呈してしまっていた。

 激しく動揺する彼女の顔が、みるみる真っ赤に変わる。

 慌てて手に持っていた手ぬぐいで、自分の胸を隠そうとする。

 のだが、布切れが小さすぎて肝心なところがほとんど隠せていない。


「ちょっと! あっち、向いててよ!」

「大丈夫だよ。もう暗いし、湯気がすごくて何もみえねぇよ」

「……ほ、本当に? 本当に何も見てないの?」

「ああ、ほんと、ほんと。全然見えねぇわ。お前が『つるつるぺったんこ』ってこと、なんにも見えてないよ」

「……全部見えてんじゃないの、ばか!!」


 ――なんてこと! こんなけだものに体を許してしまうなんて! ああ、宗珉様、ごめんなさい。菊は、菊は汚れてしまいましたわ!


 こうして二人は、しばらく気まずいままに、湯に浸かるしかなかった。


 長い沈黙――。


 ――ぬぅ、気まずいぞ。とりあえずなんでもいいから話でもしてみるかな……。


「な、なぁ菊よ。さっきはすまねぇ。い、いいお湯だなぁ」


 重苦しいこの雰囲気にたまりかねた太郎松が、唐突に話を切り出した。

 このまま黙っているより幾分ましであろう、という算段だった。


「そ、そうね……。たしかにとてもいいお湯だわ」


 同じことを考えていたのか、菊もなんとか相槌を打つ。


 シーン。


 ――だめだ! 会話が全然弾まねぇ!


 太郎松がううっと頭を抱える。

 よくよく考えれば菊と二人きりになったことなど、今まで一度もなかったのだ。

 いきなりの混浴状態で、洒落た会話など弾ませられるわけがないのである。


 菊のほうも、ぶくぶくと湯の中に頭を沈めていく。


 ――うーんこれは気まずいわ。早く誰か入ってこないものかしら……。


 だが、温泉場に人がやって来る気配はない。


 ――よ、よし……。だったらこの際あのことを聞いてみようかしら。


 菊はいつか尋ねてみようと思うことがあった。

 宗歩に直接聞くわけにもいかず、やきもきしていたのだ。

 彼女がいない今こそが好機と捉えた菊は、意を決して太郎松に切り出してみた。


「ねぇ、ところであなたと宗歩お姉さまって……」

「あん?」

「なんというか、その……恋仲、なのかしら?」


 菊は、宗歩と太郎松と行動するにつれて、二人の関係に違和感を持っていた。

 具体的には、この二人は師匠と弟子にしては妙に馴れ馴れしい。

 普通「師匠」とか「先生」と呼ぶはずなのに、太郎松は「おい、宗歩」と呼び捨てにしている。宗歩の方も一向に気にしていないのだから違和感が強すぎる。


 ――おそらくこの二人には、なにかあるわね。


 女の勘が、鋭く冴えわたった瞬間であった。


「……うんまぁ、そうだ」

「あら、やっぱり。私の感、当たったわね」

「あいつとは同郷の幼馴染だからな。まぁ、兄弟みたいなものでもある」

「ええ!? 兄と妹みたいって……そ、それでさらに師匠と弟子でもあるって……。なにそれ、ふ、複雑すぎるでしょ! で、でも……それが一層萌えるわね!」

「は? 萌える? なんだそれ?」 

「な、なんでもないわよ!」

「ふーん、そうなんだぁ。あなた達って恋仲なのねぇ」

「べ、べつにいいじゃねぇかよ!」


 先ほどまで太郎松に意地悪されたのを、根に持っていたのだろうか。

 菊の表情に魔性が帯びはじめた。

 そうして突然。


「でも……もしそうだとしたらさ、」


 ――私と今こんなことをしてるのって、結構不味いんじゃなくて?

 と、菊が思わせぶりなことを言う。


 ちゃぷん。


 どこかで湯の雫が滴り落ちる音がした。


 幼馴染の恋人がいるにもかかわらず、妹弟子と秘かに混浴——。

 ああ、なんという背徳感のある響きなのだろう。

 

 ――な、なんだって……姉弟子と妹弟子、その両方をだと……? ごくり。


 菊の棋才「魔性」にあてられて、太郎松がよからぬ妄想を企て始めた。

 盤外戦術において十二分に威力を発揮するこの魔性は、あの堅物大橋宗眠すら篭絡させた一級品である。

 太郎松ごときで耐えられるはずもなかった。


 だがその瞬間――宗歩の無邪気な笑顔が太郎松の脳裏によぎる。


 ――いやいやいや! だめだ、あいつを泣かすようなことは絶対にできねぇ! いいか! あいつは今、必死になって山で木を探しているんだ! きっと、こんな浮ついたことなんて一切考えずに。くそぉ! 不埒な俺の馬鹿! この、大馬鹿野郎め!


 太郎松は、ぱんぱんと両手で顔を叩きながら、大きくかぶりを振る。


「こ、こんなことしてるって、妙な言い方すんじゃねぇよ! 一緒に温泉に入ってるだけじゃねぇか!」

「それで十分不味いわよ」


 確かに。


 冷静に言われてみると、そうなのかもしれない。


「でも私ね、宗歩お姉さまって、結構嫉妬深い御方だと思うのよ。もしもあのかたに見つかったりでもしたら、きっと私達二人とも殺されちゃうかも……」


 ――このぉ、泥棒猫、女狐、売女がぁ!


 調子に乗って太郎松をおちょくったところまではよかったものの、このまま宗歩の怒りを買ってしまい修羅場になったところを想像してみたら、菊は身震いがした。


「ほ、本気かよ……」

「ええ……本気も本気よ。私もぞっとするわ」

「そりゃあ不味いじゃねぇか……。こうして気楽に温泉浸かってるだけでも機嫌が悪くなるかも知れねぇってのによぉ……。がくがくぶるぶる。すまねえ! やっぱり俺、先に出ることにす――」


 そのとき――湯煙がゆらりと動いた。


「ほほほ、なんじゃ、なんじゃ。おぬしらも来ておったのか」


 どうやら、駒師の連中が仕事を終えて入ってきたらしい。

 太郎松は、ほっと安堵する。

 これで宗歩に現場を押さえられたとしても、なにかしらの言い訳が立つ。


 ――ふぅ、やれやれ。なんとか気まずい空気は吸わなくてすむ、うううん!?


 だが、湯煙の中から現れたのは――。


 やはり女だった。

 それも絶世の美女。


「げぇ! あ、あんたは……もしかして……」


 すらりと高い背丈。


 細くくびれた腰に、透き通るような白い素肌。


 そして――豊満な胸。


 柾目村の駒師の棟梁――安清だった。


「ほほほ、おぬしたちは天野宗歩の供、太郎松に菊じゃな。このような場でお初にお目にかかる。妾の名は安清。柾目の駒師たちの棟梁をやっておる」

 

 絶世の美女が上半身裸で挨拶を述べるその姿は、相当な衝撃だった。

 太郎松も菊もあまりの驚きで、完全に言葉を失っている。

 普段から混浴に慣れてしまっているからだろうか、安清はその美体をまったく隠そうとしない。

 

 ――そ、それにしても……なんちゅうでかさだ。


 宗歩の二倍はあろうかというその膨らみ。

 これにはさすがの太郎松も、益荒男ますらおとして興奮を隠すことができない。

 高まる鼓動に胸が苦しくなる。


 ――ぐお! こ、これは非常に不味い。こんなところを宗歩に見られでもしたら……。だめだ! 絶対殺される! 


 将棋では、もはや受けようがない絶体絶命の局面を「必死」という。


 必死!


 太郎松、まさに必死の状況である!


 とにかくこうなってしまっては、まずはあの禁じ手級の裸体から目を逸らすのが先決。

 菊のとは違って、太郎松はこれを直視し続けて正常な意識を保つ自信がなかった。

 何者かに取り憑かれるとかそういう怪異的な意味ではなく、もちろん男としてという意味であるのだが。


 ――やべぇっぞ。鼻血が出そうになってきた……。


 一日に何度も温泉に入ったことで湯当たりしたのか、はたまた性的な興奮したのかもはや区別はつかない。

 つかないんだが、目のやり場には実際困っているわけで、太郎松は仕方なく後ろを振り向く。


 すると、そこには菊がいた。


 こっちはつるつるぺったんこなので、少々落ち着く。


「だから、こっち見ないでって言ってるでしょう!」


 ボカ!


 ――く、くそぅ……。前門には安清、後門には菊……。なんだよ、俺、絶対絶命じゃねぇか。

  

「ふふふ、このようなところで出会ったのも妙縁かの。妾もしばしのあいだ同席させてもらうぞ」


 ちゃぷん。


 そう言いながら、安清は肩まで湯に浸かってしまった。


 ――これは、ひょっとして据え膳食わぬは男の恥ということなのかな……。


 こうして太郎松は、二人の美女との混浴を楽しむことになったのである。


 天野宗歩が無事下山するまで、あと半刻(約30分)のことであった――。


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