閑話 朱天童子
渡瀬荘次郎と絵師が大坂で別れてから、数年後のことである。
天保十四年(1843年)の初秋――江戸。
市中では、ある一枚の錦絵について妙な噂が流れていた。
その絵は、源頼光と配下の四天王による土蜘蛛退治を題材としていた。
一見すると、ちまたで流行している化け物を扱っただけの構図。
だが、その絵に描かれた源頼光の姿は、とても珍妙なものだった。
なんと、土蜘蛛の妖術にかかって、すっかり眠りこんでいたのだ。
しかも、その側では大将が窮地に陥っているにもかかわらず、のんきに囲碁を興じる四天王の姿まで描かれていた。
本来なら化け物を退治するはずの英雄たちが、一体どうしたことだろうか。
この奇妙な絵を描いた絵師の名を、
そして、この絵こそ後世において「源頼光公館土蜘作妖怪図」と呼ばれる稀代の傑作であったのだ。
この錦絵は、版元から販売されると同時に、只ならぬ噂を呼び起こすこととなる。
それは――。
この絵が、時の老中水野忠邦による改革を批判したものだというのである。
噂によれば、妖術を操る土蜘蛛はまさに老中水野その人であり、術にかかっている源頼光こそは、将軍徳川家斉本人だという。
将軍家斉が眠りこんでいるのをよそ目に、囲碁にふける四天王もまた水野の配下達を暗示しているらしい。
そう――。
これは、単なる化け物の絵ではない。
時の政権、お上を痛烈に批判する風刺画だったのである。
もしも、作者の国芳が公然とお上を批判しようものなら、厳罰は避けられない。
そこで彼は一計を案じて、錦絵の中でそれらを暗に描いてみせたというのだ。
この噂は、市中においてすぐさま評判を呼んだ――。
それほどまでに、庶民の改革への不満と怒りは大きかったということなのだろう。
だが、このままではお上に目をつけられると慌てふためいた版元が、すぐにこの絵を回収してしまったのだ。
結果として、この絵がふたたび衆目に触れることはなかった。
国芳がなぜこのような絵を描いたのか、その経緯や真意は絵の消息とともにすべて不明となってしまったのである。
こうして噂は、噂のままに立ち消えた。
それからしばらくしてのこと――。
江戸八百八町のある場所で、歌川国芳の絵に似た作品を目にした、と騒ぐ者が現われたのだ。
どうやらその錦絵は、彼の弟子の一人が描いたものであるらしい。
実際その絵を見たと言う者からの伝聞をまとめてみると、やはりその絵は師匠と同じように、源頼光の化け物退治を題材にしていたそうだった。
ところが――その構図が師匠のそれとはまったくの逆だったのである。
つまり、源頼光と四天王ではなく、化け物の方が主役だったのだ。
その化け物の名こそ――朱天童子。
その絵に描かれた赤き鬼は、逸話にも残るような美しい女の姿に変化していた。
それでも、その名を冠する真紅の衣を身に着けていることから、彼女が朱天童子本人であると一目で判断できるようになっていた。
その朱天童子の目の前には――。
なんと碁盤ではなく、将棋盤が描かれていたのだ。
そんな彼女の対局者には――。
雪の如き純白の衣を身に
そして将棋盤の前に座る彼の脇には、一振りの刀がそっと置かれている。
鬼だけを斬り裂くと伝えられる、名刀「鬼切丸」である。
そう。
彼の名は、源頼光の配下、渡辺綱――。
要するに、この絵は、古来より伝わる朱天童子と渡辺綱の対決を、将棋の対局に捉えた構図だったのだ。
それは一見すると、残虐な朱天童子を追いつめる源頼光と四天王のように見える。実際に渡辺綱の背後には、大将である源頼光その人や他の四天王、さらには大勢の侍たちが取り囲んでいたからだ。
だが――。
一方の朱天童子の背後にも、固唾を飲んで彼女を見守る仲間の姿が描かれていた。
朱天童子配下の四天王の鬼たちを初めとして、青藍の大鬼や緋色の鬼女、さらにその後ろには百鬼夜行の如く有象無象の妖怪たちが大勢連なっている。
人々からさげすまれ、世間からのけ者扱いにされてきた鬼――。
その中でも残虐で狡猾、そして憎むべき存在だったはずの朱天童子――。
ところが不思議にも、この絵の彼女はそんな忌まわしき存在にはどうしても見えてこない。
なぜなら、朱天童子は将棋盤を前にして、正々堂々と源頼光たちと戦っていたからだ。
その気高き姿はむしろ――強大な権力を振りかざして民衆を弾圧しようとする為政者に、懸命にあらがっているようにも見える。
そう――。
この構図は、権力者に立ち向かう異形の者たちの戦いを描いていたのだ。
さて、この絵は巷間で取り沙汰される前に、幻の如く立ち消えてしまったそうだ。
結局あの絵が何を意味していたのか、もはや誰にも分からない。
だが、あれを見た者は皆、口を揃えるようにしてきまってこう言うのだ。
真剣勝負を描いたあの絵は、見る者すべてに勇気を与えてくれる。
いや、それだけではないのだ。
彼女の姿は、物事を楽しむことの大切さまで伝えているのだ、と。
なぜなら――。
その朱天童子は、とても活き活きと、そして楽しげに――。
将棋を指していたからだ――。
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