第七十九話 柘植どん!

 勝手読み――相手の応手をあまり考えずに、自分に都合のいい手順を読むこと。


「ぜぇー、ぜぇー、はぁー、はぁー」


 身体の節々が悲鳴を上げていた。

 息が切れて、胸が苦しい。

 そっと胸元に手を当ててみる。


 どくん! どくん!


 信じられない速さで、心の臓が鼓動していた。


「ひゃぅん!」


 吃驚びっくりして、思わずしゃっくりが出た。

 

 天野宗歩は、早朝から柾目村の奥にある山を登り続けていた。

 入山してすでに一刻半(約三時間)。ずっと急坂を歩き通し。


 鬱蒼としたやぶが生い茂る獣道。

 踏み固められた山道と違って、歩きにくくてしようがない。

 足が石のように重くなり、前に進まない。

 肌寒い季節なのに、額から汗が垂れ流れてきた。

 渇いた空気を吸い込むと、喉がどうしようもなく渇く。


 疲労困憊。


 ——こんなに激しく身体を動かしたことって、何年ぶりだろう……。

 

 思えば、物心ついた頃からずっと屋敷の中で過ごしてきた。

 将棋家に入門してからは野山を駆け回ることもなく、ただひたすら将棋盤の前に座るだけの毎日。

 ここまで旅をしてきたから体力は結構ついていると思っていたが、誤算だった。


 そんな宗歩を見かねたのか、先頭を歩いていた男が足を止めて振り向いた。


「少し休むか?」


 柾目四兄弟の長男、鵞堂がどう


 宗歩は、地面に落としていた顔をぐっと上げる。

 返事をしたいのだが、その余裕が今はどこにもない。

 しかたないので、無言でこくりと頷いてみせた。


 坂上を見上げてみたら、陽が高い位置にまで昇っていた。

 もうすぐ昼にさしかかろうとしているのだ。


「よし。ではあの辺りで腰を下ろせ。皆、しばしの休憩だ」


 それを合図に、宗歩は脇に転がっていた石の上にへたり込んだ。

 信じられない。鵞堂の方はまったく息が乱れていなかった。

 彼が山慣れしていることは、これですぐ見て取れた。


「ふぅー。疲れたぁ」


 腰掛けながらゆっくりと深呼吸。

 息が整うのに合わせて、辺りを見渡す余裕が出てくる。

 だが宗歩が休憩している間も、鵞堂は周囲の木々を調べていた。

 休むことなく働き続けるその姿に、自然と頭が下がってしまう。


「この楓は……うむ、若い。駒木地としてはまだ駄目だな」


 鵞堂の話によれば、柾目村の職人は駒作りを分担しているらしい。

 彼は、木材の調達とその成型を担う職人だった。

 これを木地師という――。

 毎日山に分け入っては駒木地に適した木材を伐採し、村まで運んでくる。

 木地師がいなければ、駒作りは始められない。

 その責任は、駒師の中でも一際重い。


 そんな鵞堂は、少し離れたところで上着を脱ぎ捨てて、汗を拭いていた。

 こっそり覗き込むように、その裸の上半身を見る。

 

 筋骨隆々。

 

 ——す、すごい、ムキムキじゃないの……。

 

 あまりの見事なその筋肉美に、思わずほぉと溜息が漏れてしまった。

 色白で細身の将棋師ばかりを見慣れているせいか、たくましい殿方が宗歩にはとても新鮮だったのだ。

 こんな山奥にいると、いっそうのこと山の男が頼もしく映ってしまう。


「大丈夫か?」

「は、はい……もう少しだけ……」


 宗歩を気遣いながらも鵞堂は、禽獣の如き双眸をきょろきょろさせている。

 付近を警戒しているのだ。

 たしかにこんな獣道では、熊など野獣に襲われるかもしれない。

 足を滑らして崖から滑落する危険だってある。

 鋼のように鍛え抜かれたあの体躯は、この山で生き抜くためのものなのだ。


 不意にどこかから、ぎゃーぎゃーとけたたましい鳴き声が聞こえてきた。


「きゃっ!」


 思わず叫び声を上げてしまった。恥ずかしい。

 だが、鵞堂の方はまったく動じる様子がない。

 この鳴き声の主が無害であることを見極めているのだろう。


 ——な、なんだろう……鵞堂さんのことがすっごく頼もしく思えてきたわ……。


 宗歩の乙女心が、「がしり」と鷲づかみにされた。


「あの、宗歩様。これ、どうぞ……」


 一息ついて休んでいると、少年が寄ってきて竹筒を手渡してくれた。

 蓋をあけると、綺麗な水が入っていた。

 少し降りたところにある沢で、わざわざ汲んできてくれたのだ。


「あ、ありがとう……」

「い、いえ!」


 少年はちょこんと横に座って、まじまじと宗歩を見つめてくる。

 

 ――あれ、なんだろう……。これと似た生き物をどこかで見たことがあるぞ。


 献身的で、愛くるしい何か。


 ――ああ、そうだ。尻尾を振って懐いてくる犬っころだ。


「ごきゅ、ごきゅ……、お、美味しいわ!」


 竹筒の中の冷水を一気飲み干す宗歩を見て、無剣はわぁっと目を丸くした。

 そうして、無邪気にくすくす笑い出す。


 ――くそぉ! 滅茶苦茶可愛いじゃないか! いっそ食べちゃいたい!


 今度は、少年の純粋さにその心を奪われる。

 柾目四兄弟の末っ子、無剣むけん

 まだあどけなく見えるこの少年も、すでに一人前の駒師らしい。

 彼は、駒木地に印刀で書体を彫ることを専門とする。

 これを、彫師という――。

 この少年の印刀捌きには定評があり、どんなに硬い材質でも瞬時に彫って見せるそうだ。

 地面に生えた雑草を摘まんで手遊びしている姿からは、ぜんぜんそんな風には見えないのだけれど。


「おや。宗歩様。脚絆の紐がほつれていますね。どれ、私が結び直してさしあげましょう」


 宗歩に優しく声をかけてくれたのは、次男の淇洲きしゅう

 歌舞伎の女形のように整った、見目美しいその顔。

 職人というよりも本当に役者なのでは、と見間違うほどの美丈夫だった。

 そんな彼が宗歩の目の前で膝をつき、頭を下げている。

 と同時に漆黒の長髪がさらりと垂れ落ちた。


 ―—な、何だろうこれは……。


 脚絆の紐を器用に縛る細い手を眺めていると、突然変な気分になってきた。

 

 ―—ああ、そうだわ。これは、忠実な下僕に仕えられるお姫様の気分だわ。


 この淇洲もまた、駒師の一人。

 彼は毛筆を扱うことを得意としているらしい。

 印刀で書体を彫るのではなく、駒木地に駒字を直接描いてみせるのだ。

 これを、書き師という――。

 しかもその腕前は天下一品。

 彼の筆捌きにかかれば、いかなる高名な書家の書体も駒木地の上に見事に再現されてしまう。


「あ、ありがとうございます。でも……情けないですよね。山に登るだけなのに、こうして、皆さんの足を引っ張るなんて……」

「ふふふ、そんなことありませんよ。貴方様は西国までその名が届くほどの高名な将棋指し。そのような御方の駒作りをこうして手助けができるだけで、私には光栄なのです。ですから、なんでも私にお申し付けくださいね」


 歩き疲れた宗歩をねぎらうように、細かいところまで届いたこの気配り。


 ――…………。きっと町娘だったら、この台詞だけでイチコロだな。


 ――ていうか、すでに私がイチコロなんだけどね!


「ったくよぉ! 将棋指しってのは意外とだらしがねぇんだな! このぐらいの山道で音を上げるなんてよ!」


 ——げ。あいつがきた。


 宗歩に向かって悪態をつく彼の名は長禄ちょうろく。柾目四兄弟の三男。

 この男、出会ったときからなぜか敵意むき出しで突っかかってくる。

 宗歩にしてみれば気に障ることをした覚えもないから、戸惑うしかない。


「ご、ごめんなさい。もう少ししたら歩けるようになりますから」

「ったく、早くしねぇと日が暮れるぞ! 山をなめてんじゃねぇ! これだから女ってやつはよぉ!」


 確かに山中で日が暮れることは、命の危険に繋がることを意味していた。


 ――うん、彼の言うことは良くわかる。


 ――それにしたって、もう少し言い方ってもんがあってもいいんじゃないの?


 他の三人に比べて、この男にだけは心がまったくときめかない。


 ところで、宗歩が女であることをなぜか柾目四兄弟は知っていた。

 彼らの棟梁である安清からそれを聞いたという。

 名のある駒師は、江戸の将棋家とも深い繋がりを持つと聞く。

 その縁で、宗歩の正体を耳にしていたのだろうか。


 長禄のこのずけずけとした物言いに、淇洲がやれやれといった感じで、

「まぁまぁ、宗歩様は弱い女子おなごなのです。こういった山仕事とはご縁のない生活を送られてきたのですから、ね」と、さりげなくかばってくれる。


 ―—そうそう。そうなのよ。やっぱり淇洲さんは優しいわぁ。


 長禄の暴言におろおろしっぱなしの無剣も、「そうですよ! 宗歩様は将棋の駒より重いものなど、今まで持ったことがないのです!」


 ――い、いや、そんなことはないんだけどな……。将棋盤くらいは運んだことあるぞ。


 そんな二人の言葉にも、長禄はやれやれとため息をつきながら、

「はぁー。あのなぁ知っていると思うが、山ってのは朝登って昼過ぎに降りないと危ないんだ。早めに柘植の木を見つけないと全員遭難してしまうんだぞ」


 ――ちぇっ。そんなに気に入らないなら、ついて来なきゃいいのに……嫌な奴!


 長禄の役目は、彫駒に漆を盛り付けること。

 これを、盛上げ師という――。

 漆は不思議なことに高温多湿でなければ乾かないため、扱いが難しい。

 さらにこの漆を駒に盛り付ける作業は、相当な注意力を要する。

 彫り跡から少しでもはみ出したりすれば、即失敗。

 それまでの苦労が水泡に帰す。

 最も慎重かつ細やかさが求められる役目、それが「盛上げ師」。

 宗歩は、長禄がこの役目を担っていると聞いたとき、意外だなと思った。


 ひょっとしたら……。

 さっきからの暴言は、彼の神経質さゆえのことなのかもしれない。

 その証拠にぶつぶつ文句を言いながらも、こうしてここまで付いてきてくれているからだ。

 長禄の言葉遣いは少々荒っぽい。

 だが、それもまた皆を心配してのことなのだろう。


「ほら、早く行くぜ! こののろま!」


 前言撤回。

 やっぱりこいつだけは絶対に許せん。


 ――弐――

「え……ここ、上るの?」


 休憩を終えて、しばらく進んだその先で宗歩は思わず呟いた。


「そうです。この上に私たちが求めるものがあります」と淇洲が上を眺めながら答えた。

「えーと、本気?」

「本気です」


 山道というより――もはや岩壁。

 それも断崖絶壁とさえ言ってよい。

 思わず息を呑む。

 もし、途中で手が滑って滑落すれば――。

 頭打って死ぬ。つまり、即死。


 想像するとますます恐ろしくなってきて、足ががくがくと震えてきた。


 ――ううう、まさかこんなに危険な場所だったなんて……。


 帰りたい――。


 不意に――宗歩の口から泣き言が漏れそうになる。

 だが、その言葉をぐいと飲みこんだ。

 なぜならこれは、自分が望んだことなのだから。


 そもそもの発端は、昨晩のこと。


 宗歩の駒を作り直すという依頼に対し、柾目村の棟梁安清が提案してきた条件は、実に意外なものだった。


「天野宗歩殿には、駒作りの道具を調達いただく」


 駒作りの道具を宗歩自らが探してくる、これが仕事を請け負う条件だった。

 たしかに駒作りには、材料や道具をいくつも揃えなければならない。

 だが、それを宗歩が集めてくるというのは一体どういう了見なのだろう。

 宗歩も、そして太郎松と菊もこれには首を傾げるばかりだった。

 今回の駒作りに必要なものとして安清から指定されたものは、おおむね以下の四つである。


 深山幽谷にある樹齢二百年以上を越えた、「柘植つげの神樹」

 どんなに硬い木地でも瞬時に刻むという、「黒鋼くろがねの印刀」

 天馬の如き流麗さであらゆる書体を描く、「馬毛筆ばもうひつ

 極限まで精製されその光沢は黒い金剛石、「呂色漆ろいろうるし


「まずは明日早朝に、山で柘植の木を探すことにする」

 安清からの伝言を宗歩達に告げる鵞堂は、さらに条件を示してきた。


「この作業は、宗歩殿一人で行っていただく」

「ええ! どういうこと!? 太郎松と菊ちゃんはついて来てくれないの?」

「うむ。お供の二人にはこの村で留守番してもらう。その代わり我ら柾目四兄弟が補佐をする。案ずるな」

「ま、まぁ皆さんがついてきてくれるというのなら……」

「安清様は、宗歩殿ご自身の手で調達すべしと仰せなのだ。太郎松殿と菊殿には、この村自慢の温泉で旅の疲れを存分に癒してもらう」

「なぁっ!?」と、宗歩が思わず声を上げた。


 師匠が危険な山奥に入っている間、弟子が温泉に浸かっているなどありえない。 そんな猛烈な抗議にも見える視線を、太郎松に向かって送り飛ばす。


「いやぁ! 俺もお前について行ってやりたかった! だけどまぁ、そういう条件ならしかたねぇよな。うんうん、じゃあ宗歩、しっかり頑張って来いよ! 俺はその間ひとっ風呂浴びてくらぁ」と宗歩の視線を無視する太郎松。


  ――くっ! あの目は嘘よ! あれは絶対に温泉を楽しみにしている目だわ! くうぅ。ひょっとして道中で邪険にしたことを根に持っているのかしら……。


 一方、菊の方は「宗歩様……菊はついて行きたいのですが……。さすがに女子おなごに険しい獣道は……ううっ!」と、露骨に泣く振りをする。


 ――わ、私だって、一応女なんだけどね! まぁ、でも自分の駒作りなんだし……。しょうがないかな。

 

 そうして、この断崖絶壁である——。

 

 ここにきて、宗歩は安清の意図を初めて理解した。

 彼女は、駒作りの大変さそして棋具の大切さを宗歩に伝えたかったのだ。

 立派な屋敷で、高価な将棋盤と駒を前に将棋を指していたあの頃。

 それこそが、二百年続いた由緒ある将棋家の将棋師としての生活だった。


 だが、その水面下にはこうして命懸けで棋具を作り続ける職人がいたのだ。

 彼らが歴史の表舞台に出てくることは、決してない。

 それでもなお己の技術を高め、芸の極致とも呼ぶべき名駒を生み出してきた。


 ――そんな駒師たちに恥じないような究極の一手を、お前は指してきたのか?


 ――命を懸けて将棋を指す、その覚悟がお前にはあるのか?

 

 安清のそんな問いかけが宗歩には聞こえてくるようだった。

 そう。

 これは誇り高き柾目村の駒師からの、天野宗歩への挑戦状だったのだ。


 だから――。

 自分で取りに行けということか。

 けれど――。

 安清様は、どうしてそんなことをわざわざ自分に伝えたかったのだろう?

 今のところ、そこだけが解せなかった。


 ――参――

 何とかして断崖絶壁を乗り越えたその先――。

 周辺の山域を一望できる高台。

 頂上付近にまで辿り着いたことに、ここにきてようやく気づく。


「ふわぁー! これは絶景ですねぇ!」


 思わず感嘆の声を上げてしまう。

 すると、側に鵞堂が近寄ってきた。


「うむ。ここが目的地だ」

「え!? ではこの辺に柘植の木が?」

「ああ、だが樹齢二百年を超えるものともなれば、なかなか見つからない。手分けして探す。だがあまり遠くには一人で行くな。はぐれたら……死ぬぞ」


 なるほど、どうもここからが難しいようだ。

 周辺に広がるこの雑木林で、特別に樹齢を重ねた一本を探さなければならない。

 だが、最近ではこの付近の柘植も少なくなってきているらしい。

 鵞堂は安清と大坂までわざわざ出向き、他の地方で伐採された木材を買い付けることもあるそうだ。


「ふむ・・・・・・」

「どうですか」


 鵞堂の背中に声をかける


「いや、これはまだ若いな」


 くるりと宗歩の方を振り向いて、かぶりを振った


「そうですか・・・・・・」

 

 宗歩も意気消沈する。

 一本一本の木を吟味し、樹齢二百年を超える柘植を探し当てていく。

 樹齢を重ねた柘植にだけ見られる希少な木目が、宗歩の駒には必要だったのだ。

 だが、その目当てとなる木を探すのは相当に至難の技。

 こうなれば、とにかく山中を歩くほかない。


 ―—ああ、本当に私の駒ちゃんと作り直せるのかなぁ……。このまま徒労に終わるんじゃないかしら……。とほほ。


 とぼとぼ。


 ――そういえば。太郎松と菊ちゃん、柾目村の温泉に入るって言ってたわよねぇ……。いいなぁ……。羨ましぃなぁ。


 とぼとぼ。


 ――あれ……!? ひょ、ひょっとして、その温泉て……混浴なんじゃないの!? ……だから太郎松ったら、あんなに鼻を伸ばして楽しそうだったの? ちっ! あの助平野郎め! 帰ったらとっちめてやる!


 とぼとぼ。


 ――ふ、ふん、まぁ別にいいわよ。私だってね、こうして若い男衆たちに囲まれているもんね! こんな山奥だけど、お姫様気分ってもんよ! それに柾目四兄弟って、よく見ると皆かっこいいのよねぇ……。私、駒師って聞いてたから、もっとお年を召した殿方が出て来るのかと思ってたわ。しかも長禄以外は全員私に優しく接してくれるし……。はっ! ひょ、ひょっとして……このまま村に戻ったら慰労を兼ねて四兄弟と一緒に混浴!! うひょー! それは不味い、いろんな意味で不味いわ! 


 とぼとぼ。とぼとぼ。


 ――ああっ! 私ったらいけない、いけない。ちゃんと柘植の木を探さないと……。ええっと、どこかなぁ……柘植、つげってあれ?


 気づくと、山の真ん中で一人になっていた。


 「あれぇ……皆、どこ?」


 いつもの妄想をしているうちに、どうやら皆とはぐれてしまったようだ。


 「あらららら、ひょっとしてこれって結構危ないのでは?」


 宗歩は、この山域の地形をまったく分かっていない。

 ぐるりと周囲を見渡しても山道は見当たらず、似たような木が生えている。

 同じような風景に目が眩んで、やって来た方向すらわからなくなっていた。

 

 要するに、天野宗歩は山中で遭難した。


 自分の王将の詰みを見落として詰まされてしまうことを、「頓死とんし」という。


 頓死――。


 まさに天野宗歩、山中にて頓死である!

 

 「はわわわわ。こ、こ、これは本当に不味い。このまま夜になってしまったら真っ暗になって一歩も動けない! 宗歩なのに、歩けない! 上手い、いや不味い! どどどどうしよう!」

 

 ――山ってのはな、朝登って昼過ぎに降りないと危ないんだ。


 刹那、長禄の言葉が脳裏をよぎった。


「あぁ。やっぱりあいつの言う通りじゃないの。私の大馬鹿野郎!」


 あまりの突然の出来事に、混乱して気が動転してしまう。

 その場にへなへなとへたり込んで、頭をぽかぽかと叩き出す。

 

「鵞堂さんにも、はぐれるなってあれほど言われてたのにぃ。馬鹿馬鹿馬鹿!」

「おい」

「あぁ、このままこんな山奥で独り寂しく野垂れ死んでしまうなんて……。うぅぅ。もっとたくさん将棋を指したかったよぉ……」

「おーい」

「ぐすん……柳雪様、お師匠様、まことに無念ではございますが、不肖の弟子、天野宗歩、備中倉敷の山中にて志半ばに命尽きることとなりました。生前はいろいろとご迷惑をおかけいたしましたこと何卒お許し下さい。こうなっては一足先に極楽へと参って、将棋盤に駒を並べお二人をお待ちいたします……。それではさようなら――」

「おい! 聞けよ!」

「……へ?」


 後ろをふり向くと、男が一人立っていた。

 長禄だった。

 慌てて立ち上がって、彼の方に駆け寄る。


「ああ、長禄さん! よかった! 私、てっきりはぐれてしまったのかと――」


 ぐいっ!

 突然、長禄が宗歩に向かって自分の身体を寄せてきた。


「きゃあっ!?」


 強引に押し倒されそうになるのをなんとか避け、宗歩はそのまま後ずさる。

 どん!


「痛い!」


 数歩ばかり後ろに引き下がったところで、背中が樹木にぶつかった。

 つまり、もうこれ以上は逃げ場がない――。


 ――え、こ、これって、一体どういうこと……。


 思えばこの男は、他の兄弟と違って最初から宗歩に敵意むき出しだった。

 そんな男と山奥で二人っきりの状況。

 これは遭難よりも――危険。

 ひょっとしたらこの男は、宗歩がはぐれる機会を見つけて最初から襲うつもりだったのかもしれない。


 いや、違う。


 ――そ、そうか! 安清様はあんなことを言っておきながら、うまく私達三人を離れ離れにさせるつもりだったのね! そうして山奥でこの私を亡きものにしようと……。おそらく太郎松と菊ちゃんには「山ではぐれて遭難してしまったぜ」とか適当にはぐらかして――。ああ恐ろしい! なんて恐ろしい人!

 

 あまりの恐怖に全身が凍りつく。


「長禄、あなたたちの企みはすべて読み切ったわ! これは駒師安清の恐るべき計略。そう。天野宗歩暗殺計画だったのね!」


 だが、長禄は宗歩の言葉を聞いていないのか、完全に無視している。

 もはや死人に口なしということか――。

 素早い動きで、その片手を宗歩に向かって伸ばしてきた。


 ——ああ、やられる! 今度こそお終い! 太郎松、ごめんなさい!


 覚悟を決めて目をつむったその矢先。

 彼の手がすっと宗歩の体をすり抜けた。

 そうして、そのまま後ろの大木に――


 どん!


「……え?」


 長禄と大木。


 その狭間に――宗歩の小さな身体。


「え……ちょ、ちょっと、なにこれ?」


 少しずつその顔が、宗歩の頬にまで近づいてくる。

 至近距離。

 唇と唇が接触しそうなほどに――。


 どきどき。


 何も言わずに、宗歩の顔をじっと見つめてくる。


「うん……やっぱりそうだ。やっと見つけたぞ。もう二度と放さない」

 

 ――え、さっきまであんなに悪態ついていたのに。すごく私に意地悪だったのに……なんで、どうして?


 きゅん――。


 彼のその呟きに、宗歩はたまらず胸がときめいてしまった。

 

 ――くやしい、あんなに生意気な奴なのに! それにしても、一体何を見つけたっていうのかしら? はっ! ……も、もしかして……私があなたの運命の人ってこと!?


 さわさわ。


 長禄がどこかを触っている音が聞こえる。


 ――ひゃうん! だ、だめよ! 私には、太郎松っていう心に決めた人がいるのよ! で、でもこの体勢だとどこにも逃げ場がないわ!


 前門に長禄、後門に大木。


 穴熊囲いの玉将の如く逃げ場のないこの状況に、宗歩は投了とばかりに観念して目をつむった。

 するとなぜかこの期に及んで宗歩の脳裏に、菊の四方山話がかすんできた。


 ――ねぇ、宗歩おねぇ様。私、大坂にいるとき風変わりな戯作を読みましたの。その作品では若い男女が恋の駆け引きをする場面がありましたわ……。


 ――すごくきゅんってするから、宗歩おねぇ様も是非読んでくださいましね。


 菊の話によると、その戯作では壁に背をもたれかかる女を前にした男が、その壁に手をついて女を挟み込んでいたらしい。この珍妙な体勢に追い込まれた女は、もはやどこにも逃げること叶わず、そのまま往生し果ててしまったそうだ。


 ――そう、たしか……あれは……「壁どん」。そうよ、菊ちゃんは壁どんって言ってたわ。でもここにあるのは壁なんかじゃない……。こ、これは……柘植の木! そうか! つまりこれは――」


 柘植どん! と宗歩は叫んだ。

 

 その言葉だけが――空しく山中をこだまする。


「ああ、そうだよ。これが柘植の木だ。とうとう見つけたぜ」

「・・・・・・へ?」


 長禄は右手で、木の幹をさすっていた。

 よく見るとその視線も宗歩ではなく樹木の表面の方に向かっている。


「おーい、皆! この柘植なら、さぞ良い駒木地となるんじゃないか。無剣! 斧持ってこーい!」


 長禄はそう叫ぶと、ひょいっと宗歩から身体を離し、すたすた歩き去ってしまった。

 

「・・・・・・」


 ポカーン。


「切り倒す! 斧であいつを切り倒す!」


 こうして、天野宗歩は「柘植つげの神樹」を手に入れた!

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