第七十八話 耳袋

 ところで旦那はよぉ、根岸下肥前守ねぎしひぜんのかみを知ってるかい?


 なに、知らねぇだと!? 

 うん、まぁしかたねぇか……。

 根岸様が今頃の季節に亡くなられて、もう二十年も経っているんだからな……。

 けどよぉ。

 北の曲淵様、南の根岸様っていや、当時江戸では評判の名奉行だったんだぜぇ。

 え? 曲淵甲斐守まがりぶちかいのかみなら知ってるって?

 そうか。たしかにあの御方は、無類の将棋好きで有名な殿様だったからな。

 ご自分も五段格の腕前だっていうし、今や将棋所名人の荒指し伊藤宗看様さえ、若ぇ頃には随分とお世話になったそうじゃねぇか。

 え、なんであっしがそんなことまで知っているかだって?

 それはよ……根岸様から聞いたお話だからさ……。


 あのな、根岸様っていうのはよ――。


 旗本の根岸鎮衛ねぎしやすもり様のことだ。


 百五十俵取りの下級旗本のお生まれながら、最後は勘定奉行や南町奉行まで大出世された、それはそれは大層立派な方なのさ。


 その根岸鎮衛様が、一体「将棋の鬼」と何の関係があるんだって?

 まぁまぁ、そんなに話の腰を折るもんじゃねぇよ。


 そう。この話はな、根岸様が亡くなられる直前のことなんだ。

 あれはまだ、あっしが十も過ぎたばかりの小僧の頃。

 文化十二年(1815年)、今から約二十年も前の話さ……。

 当時あっしは、神田筋違いの裏長屋に住む師匠のもとで下働きをしてたんだ。

 偶然道端で師匠に拾われてからというもの、住み込みの弟子なんて大層なもんじゃねぇが、いろいろと師匠の身の回りの世話をさせてもらってたのさ。

 師匠はよぉ、当時若手の浮世絵師として江戸で売り出したばかりだった。

 天才的な発想から描かれるその絵の評判たるや、そん時からすこぶる高かったんだぜ。


 そんなある日のことだ――。


 師匠が、根岸様のお屋敷に呼ばれたんだ。

 江戸八丁堀にある大層馬鹿でけぇ上屋敷にさ。

 師匠は、これまでも何度か根岸様のお屋敷には呼ばれていたんだ。

 あっしはよ。

 てっきち師匠は屋敷で絵を描いているに違いない、そう早合点していた。

 だがよ……、実際には違っていたんだ。

 

 実はな――。


 その根岸様っていうのが、大層風変わりなお人でな。

 噂話が好きな殿様だったんだ。

 そう。噂だよ、噂。それも本当かどうかずいぶんと怪しい話ばかり。

 その中でもな。化け物の話が――特に大好物だったんだよ。


 へへ。

 

 へへへ。


 なぁ、信じられるかい。

 幕府の偉いお奉行様がだよ、下賤の者の口の端に上るような四方山話を、熱心に収集されていたんだぜ。

 それも三十年もの間、その死ぬ間際まで。

 しかもそんときの根岸様の御年は、なんと七十九歳。

 いまだ南町のお奉行様だって言うんだから驚きだぜ。

 まったくすげぇ執念だよ。

 まさに「噂話の鬼」ってやつだね、こりゃ。

 

 あっしの師匠は、昔から化け物の絵をよく好んで描いていた。

 だからかな。その手の噂には結構精通していたんだなぁ。

 根岸様は、そんな師匠の化け物話を、真剣に聴いていらしたそうだ。


 そんときはなぜか、小僧の俺まで屋敷に連れて行ってもらえることになった。

 今でもしっかり覚えているよ、根岸様と師匠のやりとりをな――。


 ――さて、お奉行様は「将棋の鬼」という噂話を御存知でございますか? 最近奇遇にも耳にいたしまたゆえ。

 ――……知らぬな。鬼火であれば耳にしたこともあるが……。それは初耳だ。詳しく申すがよい。

 ――なんでも、「象棋」が隣国の唐からこの地に伝わった千年もの昔のこと。ある貴族の娘が、都の宮中で将棋を嗜んでいたそうです。

 ――ふむ、囲碁将棋は貴族たちの遊戯であったそうだからな。将棋の才に恵まれた娘が一人ぐらいいたとしても、それほどおかしくはないだろう。

 ――その娘が鬼となりました。

 ――なぜだ? なぜ鬼になる?

 ――詳しいことは分かりかねますが、ある不幸が重なったそうです。その貴族の娘は都を追われて山で迷い、とうとう最後には命を落としてしまった。果たして、この世に未練を残したまま女は鬼となり、何者かの手で祠に封印されてしまったそうです。

 ――封印されたのか? それはつまらぬな。

 ――ですが、その後も山に入った者に取り憑いては、化けて出たそうです。

 ――なに? 取り憑くだけでなく目の前に化けて出てくると? それは大層面白い。是非儂も取り憑かれてみたいものだ。

 ―—ほぉ、さすがはお奉行様にございます。ご自分から取り憑かれてみたいとは……。なんでもその鬼は夜な夜な枕元に立ち、「将棋を指せぇ、将棋を指せぇ」と囁くそうにございます。

 ――はっはっは。それは面妖な噂話であるな。それではまるで鬼というより狐か狸、いや最近市中ではやりの幽霊ではないか。

 ――左様にございます。しかもこの鬼に一度でも取り憑かれると……、まるで人が変わったように将棋を指さねばならぬそう。

 ――ふむ……ところでおぬし、それを一体どこで耳にした?

 ――西国の……備中倉敷からやって来た駒師からですが。はて、それが?

 ――なるほどな。おそらく、それは与太話、いやその者の虚言に違いあるまい。

 ――なぜでございますか?

 ――簡単なこと。将棋なぞはな、誰かに指せと言われて指せるものでは決してないからだ。それに、憑かれた者が将棋を指したところで、その鬼は傍から見ているだけではないか。それでは何も報われやせぬわ。

 ――確かに……おっしゃるとおりにございますな。

 ――だが噂話とは本来そういうものよ。理屈では間尺や帳尻が合わぬ。一々気にしていたらしかたがない。いや、だからこそ破天荒で面白いのだがな。

 ―—なるほど噂一つと言えど深いものにございますな。

 ――ところで……儂はな。


 ——本当の将棋の鬼というものをじつは知っておるぞ。


 ――なんと、お奉行様も随分お人が悪うございますな。先ほどは知らぬと仰られておりましたが……。

 ――いや正確に申せば、心当たりがあるということよ。確か、この覚書に……。ほれ、これだ。これを見よ。

 ――こ、これは……。大橋宗英、あの鬼宗英の出生の秘密でございますか?

 ――そうよ。この噂話自体は甲斐守から聞いたのだ。大橋宗英、あの者はな。将棋家の庶子の生まれなどではない。名もなき町人の倅だ。将棋が無類に好きで、ただそれだけの理由で将棋所名人に上り詰めた男なのだよ。

 ——なるほど、将棋好きで知られる曲淵北町奉行様だからこそ知るべき秘話ということですか……。いや、それにしても……まさか名人が。

 ——儂はな……今からちょうど七年前。かの者を実際に目にしたことがある。

 ——七年前の今日と言えば、文政五年の十一月十七日。

 ——うむ。そのときたった一度だけではあるがな。

 ――して、それは……どこでお見掛けになられたのでございましょう?


 ――城中、御黒書院の間。


 ――御黒書院……。つまり上様がご上覧されるという、御城将棋にて……。

 ――そう。あの者は……大橋宗英は七年前の今日、御城将棋に出仕した後、将棋盤の前で血を吐いて倒れたのだ。

 ――……そして、そのまま落命なされた。

 ――うむ。命を賭してまで将棋盤の前に座り続けるあの男の所業、あれこそまさしく鬼の如しであろう。枕元に化けて出てきて、恨み言を言うような女々しい鬼などよりもよっぽどにな。

 ――おっしゃる通りにございます。お耳を汚してしまい申し訳ございません。

 ——なに、噂話としては面白いものであった。だが、あの大橋宗英の眼は……狐狸の類に取り憑かれた者のそれなどではなかったわ。己が意思のみで城中まで這いずって来た、それほどの血眼ちまなこであったぞ。

 ――己の意志のみにございますか……なるほど。

 ――儂ももう長くはない。

 ――い、いきなり、何をおっしゃられます。

 ――何事も忌憚なく話せるおぬしだからこそ正直に申す。あのときばかりは、儂は……あの者にいやしくも嫉妬してしまったのだ。

 ――嫉妬、にございますか? 殿が?

 ――儂はな、武門の生まれとして上様にこうして仕え、義に生き、義に殉じてきた。そのことをとても誇りに思う。だが、その一方で……己が好むところの道を自らの手で掴み取り、真剣勝負の世界に生き、そして最後は盤上で果てたあの者の死に様を見ると――。


 ――なぜか、ひどくうらやましくなってしまったのだ。

 ――…………。

 ――おぬしの言う将棋の鬼とは随分と違うが、あれこそが不死の鬼であろう。儂にはあの者が、眩しく映る。


 不死の鬼——。


 化け物話を一通り覚書に書き付けてしまった根岸様は、最後に師匠に向かってそう仰られたんだ。

 俺の師匠はよ、そこで押し黙ったんだ。

 そして、考えた。


 鬼とは何か――。


 師匠は、ゆっくりひとつ頷いた。

 根岸様の言わんとしていることが、鬼ってもんがこの時よっくわかったんだな。


 ――なるほど、鬼はそもそも不死身にございます。鬼宗英、かの者の肉体が滅びたとしても、その将棋は永久に死に絶えない。誰かがその遺志を継ぐ、そういう意味にございましょうか。

 ――まさにそうよ。あの者はな、己が保身や将棋家の存続ではなく、将棋そのものを後世に残そうとしたのだ。二百年の間、門外不出の秘伝の技をあえて世間に知らしめて、最後は盤上で見事に死に果ておったわ。その事実はもはや永久に消えぬ。あの者自身がたとえ滅んだとしても、それだけは二度と忘れられぬのだ。


 ――それゆえに……鬼宗英は不死身であり今も生き続けているのでございますね。

 ――だから、儂はあの者を「将棋の鬼」と呼ぶことにした。そして、儂もまたあれ以来、市井の噂話を分け隔てなく収集すること、これこそを己が生涯の好む道と決めたのだよ。


 なぁ、旦那。


 あっしはよ、これまで鬼っていうのは見捨てられたり、退け者にされたりするだけの、ただ悲しいだけの化け物だと思ってたんだ。


 だがよ、鬼にはそうじゃない一面だってあるんだな。

 

 鬼にはよ――。


 強くって、勇ましくって、執念深くって――そして誰よりも一途で。


 そんなところがあっしらの心を揺さぶってくれる、そんな一面だってあるんじゃないか? 


 嫌われるだけじゃない、怖いだけじゃない、おどろおどろしいだけじゃない。


 あっしはいつか――旦那の師匠のように人々の心を勇気づける、そんな鬼の絵を描いてみたいんだよ。


 あっしの話を最後まで聴いてくれて、本当にありがとよ。


 じゃあ、またどこかでな!


           (渡瀬荘次郎調べ 大坂八軒屋浜於 名もなき絵師)



 『宗歩好み!TIPS』 「耳袋と大橋宗英」

 旗本根岸鎮衛の著書「耳袋」には、化け物や怪談、迷信、その他当時の世相を伝える多種多様な噂話が収録されている。そして、この第六巻「好む所によつて其芸も成就する事」には大橋宗英の出自の秘密までが記されている。他の噂話と同様に信憑性については不明だが、謎多き鬼宗英の一面を現在にまで活き活きと伝えてくれる、貴重な史料と言ってよい。

     

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