音楽のなかに
考えれば考えるほど、わたしには楽長先生の妻は難しすぎます。もう考えていても仕方がないので、楽長先生に気持ちをお話しすることにしました。ちょうど、わたしがケーテンに行く用事があり、お城の裏庭で先生を待っていました。
ケーテン候はじめ、お城の音楽好きの高貴な方々のレッスンの日でした。フラウト・トラヴェルソやオーボエ・ダモーレとともに、チェンバロの音が響きます。チェンバロは先生が弾いているのでしょう。
わたしは大きな木の下の、切り株のベンチに座って少しまどろんでいました。チェロのしなやかで優しいメロディに包まれてうっとりしていたところに、楽長先生がいらっしゃいました。わたしは、その姿に胸の高鳴りを感じながらも、たずねました。
「この曲は、はじめて聴きます。チェロ独奏なのですね。ほかの楽器は?」
「チェロだけだよ。無伴奏なんだ。上手なチェリストに弾かせたら、何も加える必要を感じなかったんだ。おかげで、僕はお役御免で、ほら、ここにいられるわけさ」
そう言って片目をつぶってみせるではありませんか。こんな先生を見たことがなく、わたしの頬は緩みました。
「曲は気に入ったかい?」
「はい、とても。素晴らしいです。心が伸びやかになる気がします」
楽長先生は、うなずきつつ言いました。
「ありがとう」
少しの間沈黙が流れ、わたしは緊張してきました。
「ところで、考えはまとまったのかい?」
わたしは、ずっとマリア・バルバラさんのことを考えていた、とありのままを告げました。彼は少し困ったような顔をしました。
「わたしは、マリア・バルバラさんのような立派な人間ではありません。まだやっと20歳になるところで、常識もわきまえていません」
「こんなわたしで良いのかと、だって、あまりにも立派な奥様ですもの……」
楽長先生が知らなかった、わたしたちのとっておきの思い出を話し始めると、フラウ・バッハを深く愛していらっしゃったことが、楽長先生の瞳の輝きに見て取れました。
「バルバラは、僕のこれまで作った音楽のなかに永遠に生きている。演奏していると、作曲したころが思い出されて、彼女がいつもそばにいてくれたことを感じるんだ」
「最期は看取ってやりたかった」
先生の悲嘆のため息。いつかお伝えしなければと思っていたことがあったのですが、まさに今がそのときでした。
「奥様がおっしゃっていたのは、『音楽を奏でたり聴いたりしていれば、主人がそばにいると思えます。間違いなく世界一幸せな妻です』ということです。何度も聞きましたから先生」
「だからわたしは、お倒れになったと聞いてすぐに駆けつけ、マリア・バルバラさんの近くで歌い続けました。先生の歌を。目を閉じられたとき、まるで微笑んでいるようでしたわ」
「そうか。君もそばにいてくれたのだね。僕の歌を歌ってくれたのだね」
「彼女は又従姉でね、早くに両親を亡くした僕を心配し大事にしてくれたんだよ。物心ついた頃からの付き合いだから、彼女のいない人生など考えられなかったんだ……」
今度は先生がわたしに、フラウ・バッハの思い出を話してくださいました。ひとしきり話し終えると、満足そうに笑みを浮かべました。誰かに言いたくても言えなかったことをやっと言葉にできて、良かったと呟きました。
「こうして君と話せて、バルバラも喜んでいる気がする」
「奥様も喜んでいらっしゃいますわ」
わたしたちは同時に口にし、次の瞬間顔を見合わせました。
チェロの音はとっくに止み、あたりは水を打ったように静まり返っていました。心が震えました。彼の優しい眼差しのなかで、わたしははっきりと自分自身の答えを聞いたのです。
先生は、私の手を取りました。
「君は思っていた以上に素晴らしい人にちがいない。これからの人生を一緒に歩んでもらいたいと心から思う。だから、改めて結婚を申し込みたい。フロイライン・アンナ・マグダレーナ・ヴィルケ、僕の妻になってください」
わたしは、どんな顔をしていたでしょうか。全身が宙を舞うような、温かい春風に包まれるような感覚でした。大きく深呼吸をしてから、彼の茶褐色の瞳をしっかり見て答えました。
「はい。楽長先生」
先生は、優しくうなずいて、痩せっぽちのわたしを抱き寄せました。
「これからは、ヨハンと呼んでおくれ」
いっぱいに満ちる幸せと喜びで、息もできないほどでした。少し間を置いて、やっと応えることができました。
「は、はい。ヨハン」
1721年12月3日は、わたしの人生で最も輝かしい日となりました。ヨハン・セバスティアン・バッハと結婚し、彼と彼の音楽を支える妻としての日々が、はじまったのです。
フラウ・バッハ 沓屋南実(クツヤナミ) @namikutsuya
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