After Story
「あの……ちょっとよろしいでしょうか」
僕こと
まるで気付いていないか、無視するように、彼女は静かに廊下を歩いていく。いや、実際に気付いていないのだと、僕はハッとした。
今、声をかけただけでも精一杯だったというのに、女性に殆ど免疫のない僕にこれ以上の行動力と勢いを求めるのは酷というものだ。しかし、ここで動かなければ何も変わらない。
僕は早歩きで彼女との距離を詰める。そして足を進めながら、背後から彼女の肩を軽く2回叩いた。
ブラウス越しに触れた彼女の肩の感触に、僕の手の平から心臓を目掛けて一気に緊張と高鳴りが伝わる。
彼女は立ち止まると同時に、ビクリと驚くように後ろを振り向いた。僕は思わず自分の足に急ブレーキをかける。
「きゃっ!」
「おっと!ご、ごめんなさい!」
お互いに驚きの声を上げる。
気付いてもらうことに集中しすぎて、足を止めることまで頭が回らなかった。最初から前に出るか、横から声をかければ良かったのでは? と少し後悔する。
「あら、滝村さん。どうかしたんですか?」
彼女はニッコリと笑いながら僕の名前を呼んでくれた。
「えっと…長谷川さん、お疲れ様です。今日も色々なことを教えてくれて、ありがとうございました」
僕は少し早口気味に、そしてそれに追いつかない、ぎこちない手振りで彼女に伝える。一応は手話のつもりだ。
「滝村さん、それじゃ “ありがとう” じゃなくて “どういたしまして” ですよ」
彼女は笑いながら僕に手話を交えて返事をしてくれた。その口調はゆっくりで、なだらかな発音だが、とても分かりやすい。
「ありゃ、勉強不足でした。今度までにはもっと上手くなっておきます」
「
「ああ、弘明なら友達と一緒に遊びに行きました。後で迎えに行きます」
「そうですか。弘明君、すっかり明るくなりましたね」
弘明は小学4年生の僕の弟のこと。僕とは歳が倍以上も離れている。
弟は7歳の頃から耳が殆ど聞こえない難聴を患っていた。この視聴覚福祉センターに通うまでは、引きこもって塞ぎ込んだりしていたが、近頃はここで友達もできて、見違えるように元気になった。
長谷川 姫子さんはこの施設の職員だ。ここで視聴覚で少し不自由な人たちとの交流支援を務めている。彼女自身も耳は聞こえないのだが、その仕事ぶりと皆への接し方など、評判はとても良い。そして何より……素敵だ。
率直に言って、僕はそんな懸命な彼女に以前から恋していたのだが、恋愛経験なんてまともにない僕には、話しかける勇気も切っ掛けもなかった。
だけど、今日の交流会でひとつの踏ん切りがついた。運命じみたものを感じると言ったら大げさだが、いずれにせよ、確かめたいことがあった。
「長谷川さん。今日、子供たちに聞かせてくれた、サイレント・ナイトって物語なんですけど……」
「何だかタイトルを言われると恥ずかしいですね。変な創作おとぎ話でごめんなさい」
長谷川さんは、照れ臭そうに返事をする。
「そ、そんなことないですよ。とても感動しました。それよりも、後で話してくれた、あの物語が生まれた経緯と飼い猫との思い出なんですけど……」
間違いかもしれないし、変な人だと思われるかもしれない。それでも僕は彼女に伝えたいことがあった。
我が家では、少し前まで一匹の猫を飼っていたこと。
それは今から13年前、保健所で引き取った白い雌の子猫だったこと。
出会った雪の日に因んで、ユキと名付けられた僕の家族のこと。
その時は僕は思いもしなかった。あの日から始まった、二人と二匹の出会いと奇跡が今日という日を生み、僕と彼女の未来を紡ぎ始めることを。
サイレント・ナイト 鯨武 長之介 @chou_nosuke
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