後編

 「あのね父ちゃん。わたし、ネコかいたい」


 また、姫子の気まぐれが始まった……と、父は思ったそうだ。

 私こと長谷川 姫子はあの頃、まだ10歳だった。母は一人娘の私を生んですぐに亡くなり、父親に男手ひとつで育てられた。


 中身は元気を通り越して男の子のようにやんちゃそのもの。

 蝶々を捕まえてはその羽をちぎったり、バッタを見つけては踏みつけたり、金魚を飼ってもロクに世話もせずにすぐに死なせたりと、もしもこの世に祟りや呪いの類が確立されていれば、私は真っ先にそれをかけられているだろう。


 自分勝手で我儘で、相手を思いやる気持ちなんてなかったそんな私が猫を飼いたいと思った理由は、小学校のクラスの子が飼っている話を聞いて羨ましかったのとその場の勢い。「今日の晩御飯はカレーが食べたい」くらいあっさりとしていた。別に犬でもハムスターでも何でも良かったのだ。


 父は私のペット所望運動を頑なに反対したが、その声を上塗りするようにしつこく粘り続けた私に遂に降参したのだ。


 次の土曜日の午後。私は父が運転する車……とは言っても軽トラだけど乗せられて出かける。目的はもちろん猫を迎えに行くこと。とても寒い日だったけど、楽しみで気持ちはポカポカしていた。


 いつもだったら、乗り心地の悪い揺れる座席に充満したタバコの臭い、ステレオから流れる拳の効いたカセットテープ音楽に合わせた、父の小刻みな動きに文句を言うが、その日の私は良い子そのもの。朝から上機嫌だった。


 だけど父の様子は少し違っていた。一直線に前だけを見据えて運転をする。

 何より私は車が走る方向に違和感を感じていた。車は町はずれの山の方へと向かっていたのだ。


「父ちゃん、ペット屋さんこっちと違うよ?」

「ペットショップなんか行かんよ。あんなところで売ってる動物なんか高くて買えるか」


 信号待ちの途中で尋ねると、父は私の方を見ながら返事をする。


「え~。真紀ちゃんとこも、若菜ちゃん家も綺麗な猫なのに。シャムとかアメリカン・ショートとか」

「だったらやめるか?」


 私は口を膨らませながら首を横に振りつつ、その条件を飲んだ。

 少し考えれば、上品なんて欠片もない父がそんな高価な猫なんて購入してくれるわけがなかった。


 だけど私のそんなこだわりは、すぐに何処へやら。どこかの家で生まれた可愛い子猫を分けてもらえるのだという、ポジティブ思考へと変わっていた。


 車は一時間ほど走ってから、木々に囲まれた山中の道を少し上がった所にある、広い建物の敷地にたどり着いた。


 車を降りた私はどこか違和感を感じながら、父の後ろをついて歩く。

 そこはまるで、病院と工場を合わせ持った感じの雰囲気。だけど学校の社会科見学で訪れた時のような華やぐ気持ちにはなれない。


 建物に入った私と父は、学校の職員室に似た部屋の受付けへと向かう。

 父に「少し待っとれ」と言われた私は、少し離れた壁際にある支柱が錆びかけたパイプのソファーに黙って座った。


「何のご用でしょうか……?」


 カウンターに向かってきた不機嫌そうな職員の男性は、父と私を見てため息をつく様子で口を動かした。


 いつもなら邪魔になるくらい大きな父の背中が、今日はなんだか小さく見える。もしかして怒られているのだろうか?


 そんなことを思っていたら、父の肩から覗く職員の顔が少しずつ明るく変わるのが見えた。そして「こちらへどうぞ」と言いながら、父と私を案内し始めた。どうしたんだろう?


 私たちは渡り廊下を隔てて先にある建物へと向かうが、その入り口に近付くにつれて空気の変化を感じる。動物園のような臭い……というよりかは、不安と不愉快だけが漂う感じだ。


 建物の中に入り、幾つかの扉を抜けて見た世界。私はその光景を一生忘れない。


 そこはまるで、何かのサスペンスドラマで見たワンシーンのようだった。鉄格子と重く暗い色の壁で織りなされた模様が左右両側にならび、それが一直線に長々と続いている。まさしく刑務所と牢屋だ。


 歩きながら鉄格子を覗くと、その中には猫たちが各部屋に十数匹ずつ詰め込まれていた。


 猫たちの姿は様々だ。子猫から成猫、かなり年を取った猫。そして傷だらけの猫や片方の耳や目がない猫。野良猫から友達の家で見た綺麗な猫もいた。


「父ちゃん、ここって」

「……保健所や」


 父の顔を見上げながらの私の質問に少し遅れて答える。

 保健所。その名前と野犬や野良猫を殺す施設だということだけは、幼いながらに何かで学んだことがある。


 頭の中の整理が追い付いていない私に父はこう続けた。


「姫、お前が選び。この中から飼いたい猫を一匹だけ選ぶんや」 


 それは父が私に課した命の授業。この百匹を超える猫たちの中から、私は命の選択が始まった。


 檻部屋に閉じ込められた猫たちから生気は感じられない。いや、それは私自身が呆然としているからなのかもしれなかった。ここにいる猫たちは覚悟を決めたのか、それとも怯えているのか。


 中には、格子の隙間から手を出す猫もいた。『ここから出して』と言っているように思えた。


 人の手で握られた多くの命が収監されたこの空間を何往復かした頃、私は頭痛とも吐き気ともいえない辛さが体を襲っていた。それは10歳の女の子が味わうには刺激が強すぎる心の痛みだったのかもしれない。


 私はようやくして、二匹の猫を気にかけた。一匹は部屋をウロウロする白い子猫。もう一匹はその隣の部屋の隅でうずくまる黒い子猫。どちらも同じくらいの大きさだが、私には選ぶことができなかった。


「あのね……父ちゃん……二匹選んだら駄目かな?」


 私は心の底から絞り出すような想いで父に頼んだ。それはいつものような気まぐれや我儘ではない。まさに懇願だった。


「あかん、一匹だけや。それができんならこのまま帰ってもええ」


 父は首を振って私の願いを断った。


「ここの猫たちはいつまでいるの?」


 私は職員の人に尋ねる。救いの言葉を期待して。


「この施設では、日曜や祝日などを除いて収監されて五日から七日で殺処分されます。部屋の順番にガス室へと連れていかれる運命です」


 職員は表情を曇らせながら答えた。


「この仕事をしていて言うのも皮肉ですが、人間というのは勝手なものです。衛生の問題や被害を防ぐために捕獲したりしますが、中には個人の身勝手な理由で飽きたペットを連れてくる人も多いです」


 私と父がここを訪れたときに職員が不機嫌そうだった理由が分かった。きっと、不要となったペットの殺処分を頼みに来たと思われたのだろう。


「僕が言うのもなんですが、どうか一匹でも命を救ってやってください。左の部屋は明後日に。右の部屋の動物たちは……その……今日これから処分されます」


 私は二つの檻部屋の隅の格子を両手に持ち、その間にある壁に額を当ててうつむく。この僅かな境界が動物たちの命の期限を握っている。私はそれを天秤にかけた決断をしなければならなかったのだ。


 私は苦渋の思いで右の部屋に入り、隅でうずくまる黒い子猫を抱きかかえる。自分の小さな手に収まるかどうかの十数センチほどの小さな猫だ。


「父ちゃん。私、この子にする」


 父はただ無言でうなづいた。


「その子は鳴けませんけど良いですか? 生まれつきなのか分かりませんが、元の飼い主が ”この子は黒くて、鳴かなくて、気味が悪い ” と言って連れてきたのでよく覚えています」


 職員の説明はその時は私の耳には届いておらず、後で父に聞かされた。あの時はただ、この子を救いたいという思いで一杯だった。


 手続きを済ませた頃、日は沈む寸前だった。私と父は車に揺られて帰路につく。生後一ヶ月にも満たない、眠ったオス猫を膝に抱いて。


 車中、私も父も終始無言だった。あの時の父はきっと辛かっただろう。だけど私は父を恨んだり酷いとは少しも思わなかった。


 辺りが暗くなり寒風に紛れて雪が降り始めた。その無数の白い結晶を見て、私はふと思い出す。隣の檻部屋にいた私が選ばなかった白い子猫のことを。


 あの子は、二日後には殺処分されるのだ。どうかそれまでに誰か、あの白猫を……いや、ほかの猫たちも救ってくださいと神様に願う。助けてやれない自分の無力さと厳しい現実に私は涙した。車の中で鼻を啜りながら泣き続きた。


 この子の名前は……そうだ、ヨルにしようと私は決めた。黒い毛並みと今日という日を忘れない思いを込めて。


 これがヨルとの初めての出会い。こうして私たちは三人家族となった。


    ◆


「ヨル!あなたにこんな物は必要ないでしょう!」


 私の大声に驚き、俊敏な動きで部屋の隅まで跳びはねて、しょげる一匹の黒猫。その様子を父が窺いに来る。


「どうしたんだ、姫」

「見てよこれ。ヨルったら私の教科書、ビリビリのクシャクシャにしたんだよ!」


「ははは。そりゃ、姫よりも勉強熱心だな」

「笑いごとじゃないよ」


 ヨルが家族の一員になってから2年が経った朝。今日も我が家は賑やかだった。


「お前、ヨルが小さかった頃は、王子様とかが怪物に立ち向かうお話ばかり聞かせてたじゃないか。まるで小さな弟を世話するみたいに。それに影響して、たくましくなろうとしてるんだろ」


 父は楽しそうに語る。


「あまりたくましくなっても困るよ。この前なんか、こうもり捕まえてきて私のところに持ってきたんだよ」


 あの時の私は、この世に生を受けて一番の絶叫を上げていたと思う。

 ヨルはあれ以来、何も持って帰らなくなったが、後で狩りは猫の本能なので無下にしてはいけないと知る。


「確かにヨルは他の猫よりも賢いかもしれんな。愛する姫のためにも立派になろうとしてるのかもしれないぞ」


 父はまるで私を夢見る少女のようにからかう。


「だったら、床に置きっぱなしのスポーツ新聞も片付けてよ。さっきヨルが眺めていたわよ。何よこの ”どうか、この気持ち分かってくれ。僕はそう言いながら、麗子の流す涙と頬を唇でなぞった” って。変な小説記事が載ってる物をその辺に放るなんて、年頃の娘のことも考えてよ」


 天国のお母さんがこの事を知ったら、きっと呆れるに違いない。


「おおっと、それじゃわしは仕事に行ってくる。明後日には帰るからな」


 そんな私の文句にそそくさと新聞を片付けながら、父は仕事へと向かった。ヨルは玄関まで父の後ろ姿を追う。ヨルはいつも私と父が出掛ける時に玄関や門まで見送ってくれるのだ。


 父はトラック運転手をしており、遠すぎない距離ながら2、3日家に帰らないことがよくあった。その間、私はしっかりと留守を守った。


 ヨルと一緒に過ごすようになってから私は変わった。確かに父が言うとおり、弟が出来たような保護者としての責任感が生まれたのかもしれない。何より命の尊さと大切さを考えるようになった。


 ヨルはあまり遠出はしない猫で縄張りは狭かった。毎朝、私と父の出掛けを見送ると、大抵は家の中や庭などで過ごしていた。ヨルを外で見かけたのは二度だけだった。


 一度は学校帰り道のこと。道路で猫の遺骸を見た時だ。以前の私は、車に撥ねられた猫の遺骸を見ても気持ち悪いとしか思わなかったけど「あれがもしもヨルだったら……」と思うと、いてもたってもいられなかった。


 その遺骸が、清掃センターの車に片付けられる様子を少し離れた塀の上からヨルが眺めていたのに遭遇した。あの時のヨルはどこか寂しそうで、怯えているように思えた。まるで初めて会ったあの時のような。


 二度目に外で会ったのは、同じく学校の帰り道。ヨルは近所の路地裏の隅に追いやられていた。近所の悪戯小僧たちに石を投げられていたところを通りかかったのだ。


 私は怒鳴りながら、そいつらにゲンコツを食らわせた。虐めていた理由を聞いたら「黒猫が通ったら不吉なことが起きるから、退治してやろうと思った」と言った。


 そんな迷信だけでヨルが酷い目に遭わされたと思うと、悲しくて仕方がなかった。

 私はすかさず「私は毎日、この黒猫に横切られてるけど、元気だし幸せだ!」と反論してやった。


 あの出来事がきっかけで、私にとってヨルはかけがえのない家族であり友達でもあり、いつまでも守りたい存在となった。


     ◆


 ヨルとの思い出は、一朝一夕では語り尽くせない。私はそんなことを思いながらこの13年間を振りかえる。


 真冬の強くて冷たい風が叩く窓に目をやると、真っ暗な外の景色をいつの間にか雪が点々と彩っていた。


 今から半年ほど前から、ヨルは老いと病で殆ど動けなくなった。

 あれほど凛としていた体は日に日に痩せ細り、介助なしでは食事や排泄もままならなくなった。何とか父と交代で支えていたが、その命の終わりが近付いているのが痛いほど伝わる。


 虚ろな瞬きと小刻みな呼吸だけが、生きていることを懸命に示しているように見える。私はそんな苦しそうなヨルの傍に寄りそうことしかできなかった。


 父は今夜は仕事でどうしても帰れない。このまま一緒に最後の時を看取ることになりそうだ。


「ヨル…… 死なないで。お願いだから」


 私はヨルの体をそっと撫でる。その時、不意に涙が数滴こぼれてヨルの頬を濡らした。ヨルはそれをぺロリと舐める。


 ヨルの前で涙を流すのは三度目だろうか。

 一度目は初めて出会った時。二度目は高校生の時に好きだった先輩に告白して断られた時だったと思う。あの時、ヨルは私の傍に寄り添って私の涙を舐めてくれた。まるで慰めてくれるかのように。


 その時、ヨルの体が寝ながら立つような姿勢に急に伸びる。そして硬直とも痙攣ともいえない動きを始めた。その目には涙が浮かんでいた。


「ヨル。あなたがいなくなったら、私……」


 見るに堪えないヨルの姿に私は目を背けたくなったが、しっかりと見届けた。だけどヨルの一生は幸せだったのだろうか? 人間の勝手で殺されそうになって、人間の気まぐれで命を拾われて、そして最後はこうして苦しみ悶える姿を見られている。私はどうしても自責の念が拭えなかった。


 そしてヨルは大きいけど静かな呼吸を最後に、その13年の生涯を終えた。

 私はヨルの亡骸を前に疲れ果てて眠るまで泣き続けた。大事な家族を失った悲しみと、一つの安心を抱いて。


   ◆


「すまんな姫子、ヨルの最後を一人で看取らせて」


 翌朝、仕事から帰ってきた父は、私の表情を見た瞬間すべてを察した。

 私は無言の返事をした。


 私と父は自宅の庭の隅にヨルの亡骸を埋葬した。私の勝手かもしれないが、思い出が詰まったこの場所で眠ってほしかった。


「あのね。父さん……その……」

「ん?どうした姫」


「ヨルね。眠る直前に私に話しかけてくれたの」


 私はヨルが静かに眠る前で父に打ち明けた。


「あいつは声は出なかったけど、いつも何かを語りかけていたもんな」


 そうではなかった。ヨルは最後に、人間の言葉を私に伝えてくれたのだ。それは音を失った私の聞こえない耳にもはっきりと届いた。


 私は8歳の頃に病気で聴力を失った。日々の会話は、手話と相手の口の動きを見ての読話で過ごしている。


 声には聞こえずとも、ヨルはあの時、確かにこう言った。


「今までありがとう。出会えて本当によかった」と。


 あれは決して幻ではなくて、奇跡と現実だと信じている。だから最後は笑顔で見送ることができたのだ。


 ヨル。感謝しているのは私の方だよ。今まで本当にありがとう。


     ◆


「それじゃ行ってくるね。お父さん。ヨル」


 我が家にいつもの朝がやってくる。そこにヨルの姿や見送りはなくても習慣は変わらない。家の門を出る時は、ヨルが眠る方角に手を振ることから私の一日は始まる。


 私は大学を卒業してから視聴覚福祉センターに勤めている。そこで目や耳が不自由な人との交流を支援したり、手話や点字を教えたり、本や物語を読み聞かせている。


 今日はいつも子供たちに、新しい物語を聞かせてあげようと思う。

 それは、わがままで自分勝手なお姫様と、無口だけどそれを見守る一人の勇敢な男との出会いのお話。


 題名はそう……サイレント・ナイト。静かな騎士よるの物語。

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