サイレント・ナイト
鯨武 長之介
前編
姫、そんな顔しないで、どうか笑ってください。
毅然とした態度と笑みで彼女にそう伝えようと思ったが、掠れた声も出なければ顔も上がらない。そんなわずかな余裕すら見せられないほど、僕の身体は憔悴していた。
自分にしか聞こえない脈を打つ音、呼吸の往復、心臓の鼓動、そのすべてが少しずつ不規則なリズムとともに終息へと向かっている。だけど、それに反するように、補うように、意識だけは力強くその役目を果たそうとしていた。
「ヨル……死なないで、お願いだから」
僕の名前を呼びながら、姫は寝床に横たわる僕に優しく手を乗せてくれる。
姫は僕の恩人であり一生を賭して守るべき存在。そして何より世界で一番の愛する女性。できることなら、彼女が心から幸せに一生を終えるその瞬間まで傍に居てあげたいが、それももう叶いそうにない。
部屋が揺れていると錯覚しそうなほどの強い風が窓を小刻みに揺らす。
ふとカーテンの隙間から覗く暗闇に覆われた外の景色に目を向けると、部屋の明かりが静かに降る雪を照らしていた。
その時、ポツリと頬が濡れるのを感じた。その小さな一滴が静かに口元へと流れる。しょっぱい味がした。
姫、泣いているのですか?
この滴を味わうのは、これが確か三度目だ。一度目はそう。姫に初めてここに連れてこられた日。13年前のこんな雪の日だった。
◆
鈍い明かりが、硬い壁と床に囲まれた狭い部屋を包む。そんな殺風景の中で僕は目覚めた。
そこには自分と同じ仲間たちが多く押し込まれていた。数は十数だろうか。部屋には生気のない淀んだ空気と凝固した汚れの悪臭が漂っている。
「まだ、こんなに小さいのに狩られるなんて可哀想にな」
僕はまだぼやける目を、瞬きしながら枯れた声のする方に向ける。
『ここはどこなの?』
辺りを見渡しながら、誰かに教えてもらおうと思うも声が出ない。不安と寒さの両方からくるものだろうか。僕の体は震えていた。
「ここは死を待つだけの部屋さ。坊や」
自分よりも何倍も大きな大人が教えてくれた。
ここは僕らのような居場所が与えられない、生きる権利のない命が寄せ集められる収容所であることを聞かされた。
この世界を支配している奴らは頭がよくて、力が強くて、何より残酷らしい。僕はその意味を翌日に知ることとなる。
毎日、部屋の外の廊下に足音が響くたびに皆の体が鋭く反応する。
足音はここを支配する者たち。それが鳴る理由は大体、三通りだった。
一つは、僅かばかりの食事を運びに来る時。
二つは、新たに仲間が収監される時。
そして三つは、この部屋を出る時。すなわち殺されに迎えが来る時。
誰もその殺される場を見たわけではない。しかし、ここを訪れる彼らの染みついた死の臭いを誰もが本能で感じ取っていた。
毎日、別室の仲間たちが一斉に連れて行かれる度に、多くの悲痛な叫びが僕らの耳に届いた。その声に怯えて震える者、既に覚悟を決めて静かに聞く者。反応は様々だ。
日を追うごとに、この部屋に届き響く轟音の源が近付く。部屋の並び順に迎えが来ているのだ。
僕は幼いながら、死に対する想像力を圧し潰すことしかできなかった。
「お前は世の中では、不幸を呼ぶと言われているんだよ」
『そうなの? どうして?』
ここに来て何日目か、仲間が僕を見ながら教えてくれた。詳しく聞きたいけど僕の声はやっぱり出ない。
僕は、無言で水の入った小さな器を覗きこむ。
そこには、眠る時と夜になった時にだけ見える色。黒く包まれた自分の姿が埃に混じって水に映っていた。
「だけど、こんな世の中じゃ逃げるように外で生きていても辛い現実が待っているだけだ。お前はそれを知らずに死ぬんだから、ある意味幸せかもな」
そう言いながら、彼の身体には、これまでの過酷な生い立ちを記録したかのような傷痕が散見された。
その時だった。また、足音が近付いてきた。この部屋の皆はもちろん、姿は見えずとも連なる部屋に収監された者全員が、恐怖と緊張感が入り混じる張りつめた空気を発する。
何故なら、足音は複数あるから。食事の時や新入りが収監される時は足音はひとつしかない。それはつまり、殺しの時間を意味していた。そして、昨日はこの隣の部屋の仲間が一斉に連れて行かれた。
僕は無駄だと分かっていても、隠れるように気配を消して、部屋の隅で壁に向かって身を丸めた。
繰り返される各部屋の格子扉の開閉音にどこか違和感を覚える。
いつもより少し軽い足音が混じっている気がする。それと、何度も往復しているようだ。
何度目の往復だろうか。遂に足音がこの部屋の中で鳴ったのが分かった。皆が一斉に恨みと悲しみの声を挙げる。僕はただ黙って隅で震えていた。
その時、僕の体に何かが触れる。恐怖と反射で思わずを目を見開いた。
そこには、初めて見る小柄な者がいた。
『嫌だ!死にたくない!連れて行かないで!』
小柄の者は、僕と誰かを交互に見ながら何かを話している。そしてしばらくして、僕を連れてこの部屋を出た。
終わりの時が来た。そう思った僕は極度の緊張と寒さ、死の恐怖からか意識が薄れていった。
―――久しぶりの優しい香りと温もりのなかで、僕はゆっくりと意識を取り戻した。
僕は何かに乗せられて揺られていた。顔を上げると、暗い景色の中に幾つもの白い点が見える。雪というものだった。
その時、手の甲が微かに濡れるのを感じる。思わずそれを舐めると少ししょっぱい味がした。
何かを啜るような音がする上を見ると、そこには僕を連れ出した者のうつむいた顔が見えた。目から流れ落ちる幾つもの滴が、僕の体を少し濡らしては乾きを繰り返していた。
もうすぐ殺されるのかな……。そう怯えながらも不思議な安心感に包まれていた気がした僕は、抗うことなく、運命に身を委ねた。
これが、僕と姫との最初の出会い。
◆
「それじゃ行ってくるね。お父さん。ヨル」
『姫、そのお召し物ですが、丈が少し短すぎではありませんか?』
出かけの挨拶をしながら玄関まで小走りで向かう姫の後ろを追いつつ、僕は思った。
近頃、少しばかり心身ともに開放的なお年頃になった姫への心配が尽きない。
成長は大変喜ばしいが、もう少し、レディーらしい気品を磨くことも意識してほしいと、おこがましいながら思う。
姫と一緒に外へと出た僕は、ほんの一足先に家の門の前まで足を速める。
「今日も見送りありがとう。ヨル」
『いえいえ。どうかお気をつけて』
姫は手を振りながら門を閉める。徐々に小さくなるその後ろ姿が見えなくなるまで僕は見守った。
「姫のやつ、亡くなった母さんに段々そっくりになってきたな」
『僕もそう思います。もう16歳ですからね』
少し遅れてのっしりと門に現れた、この屋敷の主人であり、姫の父君に同意する。近頃の姫はどこか輝きと麗しさに満ちた匂いがする。
「それじゃヨル。わしも行ってくる。しばらくは帰ってこないから家のこと、姫を頼むな」
『どうかお気を付けて。遠方まで公務お疲れ様です』
僕の一日は、姫と旦那様の見送りから始まる。この家に仕えるようになってから6年間、ほぼ毎日欠かしたことがない。
あの日、収容所から命を救われた僕は、この屋敷に引き取られてヨルという名前を与えられた。
最初は、命を握られているという不安と不信感に苛まれていた。隙があれば逃げ出してやろうとも考えていた。
だけど、姫は僕を遊び相手や話相手となってくれた。そんな日々の優しさに、僕の固縛された心は徐々に解かれていった。
僕は姫が読み聞かせてくれる物語が好きだった。中でも特に、勇敢なる者が囚われた姫を救う冒険譚に心を奪われた。
ある日、旦那様は「お前が来てから姫は強くなった。これからもよろしくな」と、僕を讃えてくれたこともあり『僕は、ここにいてもいいのだ』と思った。自分は姫のために尽くすべく使命を仰せつかるとともに、確固たる存在意義と目的が生まれた。姫を守れる強い男になると。
居場所と役割を与えられただけでも恵まれているのに、姫は僕に外の世界と自由な時間と外出も許してくれた。
初めての春。姫の後ろに付いて、恐る恐る覗いた外の世界はとても広くて、美しくて、暖かい日差しは生きることの素晴らしさを照らす光に見えた。
しかし、外の世界は楽しいことだけではなかった。道端で無残な仲間の姿を見ることが度々ある。無慈悲な力で身を引き裂かれて散らばった仲間の臓物を誰もが顔を歪めながら避ける。
僕らはゴミのように片付けられる亡骸の様子をただ遠巻きに眺めることしかできない。下手をすれば、次は自分が同じ目に遭うかもしれない。
時には石を投げられることもあった。同じ笑顔でも、姫の優しさとは正反対の憎悪や明らかな敵意を向けられた。
情けないことに幼い頃に姫にその窮地を助けられたことがあった。守るべき立場でありながら自分の不甲斐なさに腹が立った。
居場所はあっても、この世の支配者たちの決まり事や力に逆らうことはできない。そのことを少しずつ学びながら自分を磨くと決心した僕だが、姫にそれで二度ほど怒られたことがある。
一度目は勉強に興味を持った時のことだ。
どうやら僕は、他の仲間よりも頭が良かったのか、日に日に、この国の言葉が分かるようになった。文字もある程度は読めるが、より詳しく学ぼうと家にある書物を読んでいて姫に大目玉を食らった。「ヨル!あなたにこんな物は必要ないでしょう!」と。
それからというものは、日常生活の中で目に付く物や姫が机に向かう時の傍ら、もしくは旦那様が部屋に置いたままにした紙片をそっと覗く程度に留めた。
二度目は狩りをした時だった。
いざという時に姫を守れるように鍛錬を積むようになった僕は、その成果を伝えるべく獲物を持ち帰ったことがある。あの時、姫は青ざめた顔で言葉にならない叫び声を上げた。
姫はきっと、無駄に命を奪ってはならないことを伝えたかったのだと思う。
幾つかの反省を踏まえながら、僕は自分の置かれた立場をわきまえることと、干渉すべき境界を学んだ。
何より姫は僕が近くにいるだけで喜んでくれる。時に踊りなどを見せれば笑ってくれる。元気な時も、落ち込んでいる時も、一緒にいられるだけで幸せだ。
決まり事さえ守れば何不自由のない生活だが、ひとつだけ悩みがあった。
それは、僕は未だに声が出ないということだ。
口を動かしたり、身振りや態度で何とか意志を伝えることはできたが、唸り声すら出すことができない。原因はわからず、快復する兆しはなかった。
せめて、ひと言でも姫に伝えたい。「ありがとう」と。
―――日も暮れた頃、姫が帰ってきた。しかし、その足音はどこか重苦しい。まるで足の裏が重力の限界まで引き寄せられているようだ。
『お帰りなさい、姫』
口は動かしつつも心の声と目で伝える。玄関で姫と主人を迎えるのも僕の日課だった。
「……」
様子がおかしい。いつもなら疲れていても、少々落ち込んでいても小声で言ってくれる「ただいま」の返事がない。こんなことは初めてだ。
姫はうつむいたまま廊下を歩く。垂れ下がった髪で顔はよく見えないが、消沈しているのは明らかだった。
まるで僕の存在などしないように一直線で自室に入る姫。ドアはいつもより勢いよく閉められた。僕は廊下に置いてきぼりである。
―――何時間が経っただろうか。あれから姫はずっと自室に籠っている。
僕はというと、ずっと部屋の外でドアを背にして座り、待っていた。
周囲から生活の気配と音が消えかけた頃、ようやくドアが静かに開く。
僕は反射的にドアから少し離れて背筋を伸ばす。
「ヨル、ずっとそこにいたの?」
『ええ。姫の様子が変でしたので、余計なお世話かとは思いましたが、ここにおりました』
正直に言うと、少しばかりウトウトしていたのは内緒だ。
「私を心配してくれたんだね」
『もちろんですとも。姫をお守りするのが私の役目ですから』
「……お入り」
『失礼します』
姫はそう言いながら、僕を部屋に招いた。
決して整頓が行き届いた部屋ではないが、小奇麗で落ち着く部屋。
姫は部屋着の姿でベッドに腰をかけて僕を見つめる。
不思議とドキドキした。姫はどこかしら一皮剥けたように大きくも見えて、何よりもその魅力的な姿に引き寄せられる。
「あのね、ヨル。私さ……」
僕に話しかける途中で姫は上を向く。言葉はそこで止まる。
少しの間の後にこちらを向いた時の姫の声と様子は、まったくの別人のようだった。
「私……フラれちゃった」
姫が漏らす嗚咽の声を聞いた僕の中で、ピシリという音とともに何かが薄いものが剥がれ落ちたような気がした。
姫の突然の失恋の告白に驚いたが、姫が恋をしていたことの方がショックというべきか。
異性を意識するのは姫くらいの年ごろであれば当然のことだ。むしろ、そのことを喜ぶべきなのだが、僕の心は複雑極まりない。
それは何故か。答えは簡単だった。僕は姫を愛しているからだ。
置かれている身分でありながら、僕は姫に従事関係以上の感情を抱いていた。
前かがみで顔を押さえながら咽び泣く姫に向かって、僕の足は自然と動いていた。そして姫の左肩にスッと体を寄せる。
それに反応してこちらを向いた姫に僕はすかさず、顔を近付ける。
ほぼゼロ距離で目が合った次の瞬間。僕は姫の頬と涙をキスで拭った。
◆
……あれから早7年が経つ。
これまでを思い返しつつ、あの一世一代の勇気に僕は、苦しさも忘れて照れくさくなる。
あの時、姫は「くすぐったいよ」と言いながら、僕の身を引き寄せてくれた。笑顔は取り戻せたが、それ以上は何事もなく、いつもの関係で過ごした。
あの時、本当に失恋したのは僕の方だったかもしれない。
だけど後悔はしていない。それからも今日まで姫と一緒にたくさんの喜びや幸せを分かち合えたのだから。
僕は半年前に病に倒れてからあまり動けなくなった。姫よりも一回りも若いのに早くも自分の死期を悟った。
役立たずの僕はもしかして、またあの薄暗い絶望の場所へと戻されるのではないかと恐れた。だけど迷惑を掛けるくらいなら、いっそのこと見捨ててくれと頼もうとも思ったが、皮肉にも声が出せない僕にはそれすら出来なかった。
昨年に学業の過程を無事に終えた姫は、忙しい日々を送っている。そんな中で旦那様も一緒になって僕を手厚く看護してくれた。
だけどそれも今日でお終い。僕の命はもう僅かな時間で尽きる。
旦那様は今日も遠出で今夜は帰らないと姫から聞いている。最後に感謝とお別れが言えないのが心苦しい。
「ヨル。あなたがいなくなったら、私……」
『姫、しっかりしてください。もうあなたは一人前です。泣いてはいけません』
その時、僕の口元にまたあのしょっぱい味が広がった。だけど今までとは違う少し苦い味。それは自分の目からこぼれた涙だった。
なんだ。悲しんでいるのは僕の方じゃないか。そんな態度を見せてどうするのだ、しっかりしろと自分に喝を入れる。
もしも、この世に魂があるのなら、姫と過ごした日々を刻みそれを誇りにしよう。いつかあなたが誰かを好きになっても、誰かがあなたを好きになっても、僕の中で特別な存在でいられるように願いをこめて。
最後の力を振り絞るように大きく息を吸う。この呼吸で生命の終わりを迎えると確信して深い息を吐いた。
「今までありがとう。出会えて本当によかった」
部屋の明かりが頼りない幻のように、視界が少しずつ薄暗くなる。音も殆ど聞こえない中、姫は何かを悟ったように僕に顔を近付ける。
その顔は……笑っている。よかった。やっぱり姫には笑顔が似合う。そんな日々を送るあなたが僕は一番好きだ。
最後に姫の笑顔に見守られながら、僕の意識と素晴らしかった一生は静かに幕を閉じた。
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