茉莉花

 ささやかなパーティーを終え、ファミレスを出た僕たちは、そのままアパートへと戻った。


 僕たちが暮らす部屋は、風呂もキッチンもない、四畳半のボロアパートだ。その名も『春府荘』。洗面台とトイレは全部屋で共用。いくら家賃が安くても、今時こんなボロアパートに暮らす物好きはなかなかいない。このアパートには部屋が四部屋あるけれど、僕たち以外の部屋は全て空いていて、実質的にはトイレも洗面台も貸し切り状態となっていた。


 僕と姉さんの学費は両親の保険金と家を売ったお金から出されているが、生活費に関しては、できる限り姉貴のバイト代だけでなんとかしようと、ギリギリのところまで切り詰めている。四畳半の部屋はその最たるもの。この狭いスペースで、僕たち姉弟は暮らしているのだ。


 むしろ、このスペースでも暮らせるように、お互いなるべく無駄なものは持たず、ここで暮らせる範囲ということを目安に倹約しているとも言える。押し入れも小さな洋服箪笥も全て二人で一緒に使い、収納できる量には限りがあるから、物を買うこと自体に慎重になるというわけだ。だから、僕も姉貴もおしゃれとは無縁だし、僕の部屋着の中には小学生の頃から着古しているものだってある。


 共用のトイレで用を足して部屋に戻ると、ちょうど姉貴が着替えをしているところに出くわしてしまった。下着姿で露になった、すらりと伸びる華奢な手足。体型の割に豊かな胸のふくらみ……。


「わわっ、ごめん!」


 僕は慌てて部屋を出て、扉を閉める。


「なあに? 姉弟じゃん、そんなに意識しなくてもさあ」


 部屋の中から、少し呆れたような姉貴の声。


「姉貴は良くても俺が良くないんだよ!」

「ピチピチのJKを見てきた後じゃ、年増のJDの裸なんて見られないってか?」

「違っ……そんなんじゃないって!」


 むしろ逆だ。そんじょそこらの女子高生なんかよりずっと……。


「じゃあ、見てよ」

「……えっ?」

「あたしのこと、もっと見て」


 と、突然、何を言ってるんだ、姉貴は……。

 心臓が俄かに早鐘を打ち始める。


「早く、扉を開けて。ちゃんと見てよ、あたしを」

「何言ってるんだよ、姉貴……」


 ああ、もう……どうしたらいいんだ、いったい。

 そりゃ僕だって見たいけど、でも、僕たちは実の姉弟なんだ。いい加減距離の取り方を考えなくちゃって、そう思っているのに。

 でも、姉貴にこんな風に言われたら、僕には逆らうことなんてできない。いや、本当は、逆らいたくないのかもしれない。


 僕はおそるおそる部屋の扉を開けた。


「じゃ〜〜〜ん!」


 目の前には、姉貴の意地悪そうな笑顔があった。視線を下に移すと、着古した白シャツとデニムパンツにしっかりガードされた姉貴の柔肌が……。

 すると突然、姉貴の右手が僕の股間を鷲掴みにした。

 完全に不意を突かれ、下半身に走る激痛。僕は驚いて悲鳴を上げる。


「わっ! いてててっ!」

「お〜お〜元気だねぇ。光栄なこった。年増のJDの裸でもこんなに元気になるなんて、ステーキの力はやっぱりすごいや」

「ちょ、姉貴!」

「だってぇ、そこ開けてもらわないとバイト行けないんだもん」

「普通に『開けて』って言えばいいだろっ!」


 姉貴はそれには答えず、言葉の代わりに、僕の額に軽く口づけた。

 僕は顔が一気に熱くなるのを感じた。さっきの下半身に対する不意打ちよりも、こっちのほうがよっぽどこたえる。


「じゃ、バイト行ってくるね」


 姉貴はひらひらと手を泳がせ、着古した黒いコートを羽織ってアパートから出ていった。そうか、今日はバイトの日か……。


 高校生の頃から色々バイトをしてきた姉貴だけれど、ここ最近はずっと近くのコンビニで働いている。

 大学受験前の数ヶ月はさすがにバイトを辞めていたが、進学が決まってから、また同じコンビニで雇ってもらえることになったらしい。よほど信頼されているのか、よほど人が足りないのか……まあ、前者だとは思うけど。


 窮屈な学生服から部屋着のスウェットに着替えた僕を、強烈な眠気が襲う。入学式だから、やっぱり緊張していたんだろうか。制服を脱いだことによる解放感もあるだろう。制服ってやつは、どうしてこうも人に緊張感を強いるのだろう。

 僕は、そのまま畳の上で横になった。昔の家から持ってきた共用の洋服箪笥、共用の本棚、リサイクルショップで買った共用の小さなテレビ、姉貴の昔のバイト先で廃棄される予定だった、共用の小さな冷蔵庫……四畳半の狭い部屋では、全てが視界に収まる範囲にある。


 さっきまでここで着替えていた姉貴の匂いが、ふわりと。

 今日は珍しく、ほんの少し香水をつけていたらしい。そういえば、今日は朝から出掛けていたみたいだけれど、どこに行っていたんだろう。戻ってきた姉貴は、スーツもメイクもばっちりだった。おそらく借り物であろう黒いスーツは今、カバーをかけられてハンガーに吊るされている。このスーツはいったい……。


 そんなことを考えながらも、僕の意識は抗いがたい睡魔の囁きに誘われて、深い微睡みの底に落ちていった。

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