麻美

 キスシーンが採用されたこと以外、稽古は大きな変更もアクシデントもなく進み、いよいよ僕たち花倉高校演劇部は新人デビューコンテストの地区大会当日を迎えた。会場は隣の都立高校の講堂。日曜の開催なので、実質貸し切り状態だ。

 ガイドに従って会場となる講堂に向かうと、そこには既に他校の演劇部の生徒たちが数多く集まっていた。今回参加するのは全部で13校。うちの部がそうであるように、部員全員が動員されたわけではないと思うけれど、それでもざっと見た限り100人、いや200人はいるだろう。

 開演は午前10時。花倉高校の出番は七校目。プログラム通りに進めば一校の持ち時間は約20分で、僕たちは昼休みを挟んで午後の部のトップバッターだ。


「なんか、やっぱ緊張するな……な、今川」


 そわそわと落ち着かない様子の武田が言う。ちなみに武田は、ストーリーの前半で僕が演じる盲目の少年明日斗に絡んでくる人の役。こんな配役で不満じゃないのかとも思ったが、本人曰くいきなり台詞が多い役をやらされるよりはマシらしい。顔に似合わずビビりの武田である。なんて、僕も人のことを言える立場じゃない。僕は頷いた。


「う、うん……なんかもう全部台詞吹っ飛んじゃいそうだ」


 緊張しているのは僕も同じだ。何しろこの間まで全くの演技未経験で、今回初めて本番の舞台に上がるのだ。緊張するなと言う方が無理。しかし周りを見渡すと、他の参加者たちも緊張しているのは同じらしく、そこだけは少し安心できた。

 引率の天野部長と福島副部長の表情も心なしか強張っているように見えたけれど、ほぼ全員がガチガチに緊張している中で、唯一平常心を保っているのが麻美さんだった。児童劇団で数多くの舞台を踏んでいるから、一年の新入部員ではあるものの、この場では最も経験豊富な存在だと言える。新人デビューコンテストなのに一人だけ大ベテランが混じっているのだ。

 周囲を慮ってか、麻美さんは声を潜めて僕に耳打ちした。


「大丈夫だよ今川くん。今まで稽古してきた通りにやればいいだけ。何も特別なことは必要ないんだから」

「いやぁ、麻美さんにとってはそうかもしれないけど、初心者にとってはそれが一番難しいんだよ……」

「心配しないで。もし今川くんの台詞が飛んじゃったりしても、私がアドリブでフォローするから」

「え、そんなこともできるの?」

「できる範囲で、ね」


 麻美さんはそう言うと、左目でウインクをして見せた。頼もしい。頼もしすぎる。アドリブでフォローなんて、もうプロの域じゃないか。


 そうこうしているうちに時計は十時を回り、主催者の挨拶の後、最初の演目が始まった。



!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i



「予想以上にレベルが高いね……」


 午後の部のトップバッターである僕たちは、昼の休憩時間より少し早めに近くのコンビニのイートインで昼食を済ませ、控室で最後の確認を行っていた。そこで天野部長の口から洩れたのがさっきの一言である。それは午前の部の演目を見て、おそらく僕たち全員が実感していたことでもあった。

 劇が始まるまではどの部も皆緊張した面持ちを見せていたのだが、いざ舞台に上がると、いずれも堂々とした演技を見せる。緊張が吹っ飛んでしまうぐらい役に入り込んでいるのだろうか。そして劇の中身、脚本についても、もちろんコミカルなものもあったけれど、思っていた以上に本格志向で完成度の高い作品が多かった。

 しかし希望はある。どの学校のどの役者たちも同じ一年とは思えないぐらいの熱演を見せていたが、それでも我が部の誇る主役、福島麻美さんの存在感には程遠かった。まだ午後の部を残してはいるが、贔屓目を抜きにしても、今回のコンテストで最高の女優はおそらく麻美さんだろう。彼女の演技がどれだけ観客の心を掴み、審査員を唸らせるか。僕らの命運はそこにかかっていると言っても過言ではない。


 その麻美さんは、小道具担当の葛山先輩と一緒に、胸に入れるパッドの最終調整を行っていた。主人公の甜花はHカップという設定になっているが、『メロンちゃん』の渾名の由来は制服の上からでもわかる巨乳。舞台の上でそれを引き立たせるためには、実際のHカップ以上に胸を強調する必要がある――と、天野部長の鶴の一声によって、麻美さんの胸のパッドはさらに盛られることになった。予備のパッドまで動員して、副部長いわく一億総活躍巨乳態勢である。

 昼食を食べている間、準備が始まってからも、僕はずっと台本を手に台詞を諳んじていたのだけれど、僕が見ている限り、麻美さんは今日一度も台本を見ていない。もう台詞は完全に頭に入っているということだろう。

 本番が近付くにつれて、彼女の言動は麻美さんではなく、少しずつ甜花ちゃんになり始めているように感じられる。いつの間にか、グラデーションのように自然に甜花ちゃんへ変わっているのだ。きっと、彼女の中には既に真桑甜花という人格が形成されていて、今更台本を頭に叩き込む必要もないほど自然に演じることができる状態なのだと思う。素人の僕にはできない芸当だ。


 ふと、現役時代の姉貴や藍子さんはどうだったんだろう、と僕は思った。先輩たち曰く、藍子さんは特にどっぷりと役に入り込むタイプだったらしく、演技に集中しすぎて、稽古中でも話しかけづらい雰囲気になることがあったと言う。もしも藍子さんが甜花を演じていたら、もう完全に真桑甜花になりきっていたに違いない。

 一方、姉貴は役との切り替えがはっきりしていたらしい。本番の直前まで普通にお喋りしていても、幕が上がると一瞬で演じるべきキャラクターに変わることができた。二人は正反対のタイプだったのだ。演劇部に入って初めて知ることができた二人の一面である。


 そういえば、あれ以来既に二度も藍子さんと顔を合わせているけれど、キスの話題は全く出なかった。藍子さんの態度にも特に変化は見られない。キスシーンが採用されることももちろん伝えたが、彼女の返事は、


『そっか。がんばってね』


 というあっけないものだった。いや、別に、もっと違う反応を期待していたわけではないのだが、それにしてもちょっと拍子抜けしてしまったのは事実。もしかして、あの藍子さんとのキスは僕だけが見ていた夢なんじゃないだろうかとさえ思えてくる。

 身の周りで何か不審なことが起こっていないか、それとなく尋ねてみたけれど、心当たりは何もないようだ。これまでの二人の例では、お紺の呪いは僕の目の前ですぐに発動している。更紗の場合などは特に、キスをしてから1分も経っていなかったと思う。藍子さんの場合は既に二週間が経過しているので、その点も安心材料と言えるだろうか。


 いやいや、それよりも今は、目の前の劇のことを考えなくては。

 僕は再び台本へ意識を集中した。


 そして、昼の休憩時間はあっという間に過ぎ去り、いよいよ花倉高校演劇部の出番がやってきた。



!i!I!I!I!I!I!I!I!i



「偽善とか、憐れみとか……私が永町くんに会いたいと思うのは、そんな理由じゃないよ!」


 劇はNGもなく順調に進行し、いよいよクライマックスのシーンがやってきた。

 僕が演じる永町明日斗は生まれつき目が不自由であることが大きなコンプレックスとなっている。だから他人の好意を素直に受け止められず、急に接近してきた甜花に対して、自分は憐れみの対象として見られていると感じ、その思いを彼女にぶつけた。何も言い返さない甜花に、もう会うのはやめようと告げて立ち去る明日斗だったが、しばらくして追いかけて来た甜花が言い放ったのがこの台詞だ。

 ちなみに、明日斗は普段サングラスをかけている設定なのでずっと目を閉じている必要はないが、最後のキスシーンだけはそのサングラスを外すことになっているので、目を閉じなければならないため完全に麻美さん任せになる。客席から死角になるよう体勢を入れ替えて顔を近づけるだけだから唇が触れることはない、とはいえ鼻息がかかるぐらいには接近するので、やはり緊張する。

 ちなみに、このシーンで甜花が走って明日斗を追いかける描写が『走れメロン』というタイトルに繋がっている。息を切らせながら叫ぶ甜花の声に、明日斗が振り向く。


「私ね……胸が大きいことがコンプレックスなの。男の人と話すと絶対胸に視線を感じるし、普通に街を歩いていても、知らない人にジロジロ見られるんだよ。追いかけられたりして怖い思いをしたことも一度や二度じゃない。だからずっと、男の人が怖かった。永町くんに出会うまでは」

「僕の目が不自由だからいいって言うのかい」

「そんなわけじゃ……いいえ、きっかけはそうだったかもしれない。でも今はそうじゃない。永町くんには、普通の人には見えないものがたくさん見えてる。そして、色んなことを知ってる。永町くんと話していると、同い年とは思えないぐらいすごく落ち着くし、いつも新しい発見があるの」

「……」

「永町くんは……永町くんはどうなの? 私と話してて、本当に私が君を憐れんでるって感じた?」

「そ、それは……」


 言い淀む明日斗。本当は、彼女が彼を憐れんでいると感じたことなど一度もない。明日斗はただ自分に向けられた好意を信じられず、素直に受け止めることができなかっただけなのだ。

 その場に立ち尽くす明日斗に、甜花はゆっくり歩み寄る。


「もし……もしも違うんだったら……永町くん、そのサングラスを外して見せて。私を信じてくれるなら……君の目がどうなってても、私、怖くないから」

「……」


 返答の代わりにサングラスを外す永町。いよいよ物語はクライマックスを迎えるわけだが、この先、僕はずっと目を瞑っていなければならない。劇の成否はすべて麻美さんに委ねられた。


「ありがとう、永町くん……好きだよ……」


 明日斗の体を抱き寄せる甜花。そのまますぐに麻美さんのリードで体勢を入れ替えて、観客席から口元を隠すように――なるはずだが、彼女はそうしなかった。

 あれ……? これも何かのアドリブなのかな?

 実際、今日の舞台の上でも、麻美さんは何箇所か台詞やしぐさにアドリブを入れていた。それはいずれも効果的な演出だったと思う。だからこのクライマックスのシーンにも、何か良いアイディアを思い付いたのかもしれない。何も見えないのが少し怖かったが、僕は彼女を信じて身を委ねた。

 数秒後。甜花の、麻美さんの吐息を鼻や口元に感じ、それからすぐに、しっとりとした柔らかい感触が唇に触れる。


 ……えっ???


 一瞬の硬直の後、僕の頭は真っ白になっていた。急遽ラップを当ててすることにしたのか? いや、この感触はラップのつるつるした感じとは明らかに違う。じゃあこれは何だ……?

 次の瞬間、そのやわらかいものが僕の唇をほんの少し吸うような動きを見せ、僕は驚いて瞼を開けてしまった。そしてやはり、僕の目の前には、愛しい明日斗と情熱的なキスを交わす甜花の顔があった。



!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i



 結果から言うと、花倉高校演劇部は新人デビューコンテストの地区予選を突破することはできなかった。

 麻美さんは最優秀新人女優賞を獲得し、部としても優秀賞と一定の評価は受けたものの、都大会に進めるのは最優秀賞に輝いた一校のみという狭き門なのだ。


 反省点は色々ある。天野部長が話していたことだが、まずそもそも今回の脚本は20分という短い尺でやるべきテーマではなかった。二人の偶然の出会いから恋愛感情へと発展していくまでの過程を、本来ならもう少し丁寧に描くべきだったはずだが、20分の制限時間に収めるためにかなり端折った部分があったのだ。

 また、それに関連して、僕たちは本番の舞台で少しだけ持ち時間をオーバーしてしまった。稽古ではきっちり20分に収まっていた。特にミスがあったわけではない。しかし、本番の舞台独特の空気や緊張感、役への没入の度合いなどから、台詞回しや間の取り方にずれが生じていたのかもしれない。

 僕個人について言えば、やはり最後のシーンで目を開けてしまったことに悔いが残る。あの瞬間、僕は永町明日斗ではなく今川葉太郎になった。突然のことで驚いたとはいえ、舞台に上がっている限り僕は永町明日斗であり続けなければいけなかったのだと思う。


 コンテスト終了後は現地解散となり、僕はそのまま最寄り駅へと歩くことにした。劇が終わった瞬間からどっと疲れが押し寄せて、早く帰って休みたかったからだ。

 駅近くなったところで背後から『今川く~ん!』と声をかけられ、振り返ると、制服姿の福島麻美さんがこちらへ駆けてくるのが見えた。劇中の明日斗を追いかけるシーンではゆっさゆっさと大きく揺れていた胸も、パッドを外した今はだいぶ大人しい。

 駆け寄ってきた麻美さんは、『走れメロン』のラストシーンさながらに息を切らせながら言った。


「ふぅ……あの、二人だけのときに、ちゃんと謝りたくて……本番で突然ほんとのキスシーンにしちゃって、ごめんなさい」


 本番が終わった直後にも直接彼女から謝罪は受けたのだが、部長や副部長、他の部員たちはむしろアドリブでガチのキスシーンになったことを賞賛しており、もし僕が不快に感じていたとしても言い出せる雰囲気ではなかった。それを気にしていたのだろう。


「稽古では我慢してたのに、このシーンが真桑甜花という人物の最後の舞台だ、って考えちゃって、私も彼女も感情を抑えきれなくて……」

「ううん、いいよ。僕は全然気にしてないから。ちょっとびっくりはしちゃったけどね。武田には羨ましがられたし……こういうのを役得って言うのかな。むしろ、僕が驚いて目を開けちゃったことを謝らなきゃいけないぐらい」

「そんなの……それだって、私のせいだもの」

「だから、もうこの話はやめにしよう。お疲れ様、福島さん」


 それから僕たちは、駅の改札をくぐるまでの間、一緒に歩きながら話をした。


「そういえばね、お姉ちゃんが言ってたんだけど、今年の文化祭、演劇部は去年と同じく『ロミオとジュリエット』をやる方向で話し合ってるみたい」

「へえ、そうなんだ? でも、姉貴と藍子さんの伝説が残ってる中で同じ演目をやるんだったら、ハードルはすごく高くなるよね」

「うん。でも、だからこそやる価値があるんだって、部長もお姉ちゃんもそう考えてるみたいだよ。特に、今年は今川くんが入ってくれたでしょ? 今川先輩の弟が同じロミオ役を演じる、ってすごく話題性があるし」

「え、でも……僕はまだ新入りの一年だし、文化祭の舞台でも主役に選んでもらえるとは限らないんじゃない?」

「いいえ、ロミジュリをやるなら、今川くんがロミオを演じることが前提になると思う。男役を演じて映えるぐらい身長のある人、先輩たちの中にはいないし」


 たしかに、言われてみれば演劇部は小柄な人が多い。165センチ前後の僕は男子の中に入ると決して背の高い方ではないけれど、演劇部では皆を見下ろす側になる。武田も地面から垂直方向には小さいし、160センチを超えている人は、僕以外片手で数えられるぐらいしかいないのではないか。その中には麻美さんも含まれる。


「今の私たちで、今川先輩と織田先輩のロミオとジュリエットにどこまで迫れるか。難しいけど、挑戦してみる意味はあると思う。だから……もし私がジュリエット役に選ばれたら、その……少しでも先輩たちに近づけるように、一緒に頑張ろうね」


 そこで麻美さんは、ちょっと不自然に頬を赤らめた。


「え? でも、僕に姉貴の代わりは無理だと思うけどな……」

「今川先輩と同じロミオにする必要はないと思う。今川くんなりのロミオ像を作れれば、それでいいんだよ」

「そっか……にしても、ちょっと僕には荷が重いなあ……」

「大丈夫。何とかなるよ、今川くんなら。それじゃ、私こっちの改札だから」


 彼女はそう言うと、僕の乗る路線とは反対方向の改札を指差した。


「ああ、うん。お疲れ様。気を付けて帰ってね」

「今川くんも、お疲れ様。じゃあ、また明日ね」


 にこやかに手を振りながら遠ざかる麻美さんの姿を眺めながら、僕はふと、姉貴と藍子さんのロミジュリがガチキッスだったという話を思い出した。二人の演技に近付くってことは、キスシーンも同様に……? さっき麻美さんが頬を赤らめたのは、つまりそういうわけだったのだろうか。

 その時、不意に背筋に悪寒を覚えた僕は、驚いて背後を振り返った。そこには誰もいなかった。いや、正確には、僕のことを気にも留めずに通り過ぎて行く通行人が数人いただけだ。

 しかし、気のせいか、と思い直し改札に向かおうとした刹那、視界の端に若草色の着物姿を捉えたような気がして、僕は再び辺りを見回した。だが、あの若草色はもうどこにも見つけられない。

 不吉な予感を覚えながら、僕は改札を通って電車に乗り込んだ。



 麻美さんが通り魔殺人の犠牲者になったことを知ったのは、その翌日だった。

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