洋一の場合

「洋一が生まれた頃の日本は、二百六十年続いた江戸時代が終わり、文明開化の掛け声の下、封建社会から民主主義へと社会の仕組みが大きく変わっていく、そのまさに過渡期であった。今川家は、杳之介の事件がありながらも、父の尽力によって家の取り潰しは免れ、幕末までどうにか武家としての命脈を保っていた。しかし、明治維新の後はすっぱりと刀を捨て、江戸の外れ――つまりここに小さな屋敷を建てて、平民として細々と暮らしておったんじゃ」


 婆ちゃんは、窓の外の風景を遠い目で眺めながら言った。


「幕末から明治にかけて、武士は皆困窮しておったが、幸いなことに今川家には多少の蓄えがあって、それを元手に商売を始めることにした。だが、その商売というのがまた皮肉なものでな……当時の今川家の当主はもちろん婿養子だったのじゃが、これが無類の蕎麦好きでな。よりにもよって、家の近くに蕎麦屋を開きおったのじゃ」


 蕎麦屋といえば――いつか夢で見た、杳之介とお紺の出会いの場面がふと脳裏をよぎる。お紺が働いていた蕎麦屋に杳之介がふらりと立ち寄ったことが、二人の出会いのきっかけとなったはずだ。


「商売なんぞ他にいくらでもあったろうに、蕎麦屋とはな……。しかし、同様に慣れぬ商売を始めた士族どもが『士族商売』などと揶揄されながら落ちぶれていったのに比べると、今川家の蕎麦屋はまだマシなほうだったと言えるかもしれん。洋一は、その蕎麦屋の倅としてこの世に生を受けた。細面の美男子で気立てが優しく、なおかつ秀才でもあった洋一を、周りの女子たちが放っておくはずもない。洋一は幼年の頃から非常にモテたんじゃ」


 細面の美男子。杳之介と同じだ。それにしても、イケメンで優しくて頭もいいなんて、まさにチートじゃないか。


「しかし、洋一が十五になった頃から、洋一の身の周りで、女子が変死する事件が起き始めた。変死と言うても、事件そのものは傍から見れば不幸な事故としか思えないようなものだったのじゃが、不運の一言では片付けられないほど立て続けに起こったもんじゃから、さすがに周囲が騒ぎ出してのう……。洋一が帝大に進んだ頃には、女子がほとんど寄り付かなくなってしもうたんじゃ」


 帝大とは、現在でいう東大のこと。イケメンで優しい東大生とか、本来ならモテまくって仕方ないような気がするのだけれど、つまりそれでも敬遠されてしまうほど相次いで変死事件が起こったということなのだろう。


「不審に思った洋一の父は、これは何かの祟りではないかと、近くの寺へ相談に行った。すると、寺の住職はこう言ったそうじゃ。『今川家には、どうやら女の呪いがかけられているようだ。何か心当たりはないか』――洋一も今の葉太郎と同じように、お紺の夢に何度も魘されておったのだが、学のある洋一は、そんなものは迷信だと言って信じようとはしなかった。じゃがな、念のためにと今川家の古文書を調べていくうち、杳之介とお紺に関する事件の資料を見つけたのじゃ」

「……ってことは、婆ちゃん、その洋一さんの時代には、まだお紺の話は伝わっていなかったの?」


 僕が尋ねると、婆ちゃんは重々しく頷いた。


「うむ。あの事件は、わが今川家にとって最大の汚点じゃからの。一刻も早く記憶から消し去ってしまいたいものを、わざわざ言い伝えとして残すこともあるまいて。じゃが、今川家の古文書に記されていた断片的な情報と、当時の瓦版などの資料を合わせて、洋一はお紺の事件のあらましを知った。儂が語って聞かせてきたのは、洋一が調べて纏めた話だったんじゃ」


 今川家に代々伝わる話と聞いていたから、てっきり江戸時代から連綿と言い伝えられてきたものだと思い込んでいた。でも本当は、明治になってから、僕の高祖父にあたる洋一という人が調べたものだったのだ。


「そして、ここからが肝心な話じゃ。杳之介とお紺の事件を知り、もはや呪いの存在を信じざるを得なくなった洋一は、件の寺に行き、住職に相談した。住職の答えはこうだった。『お主から発せられる瘴気から察するに、お紺の呪いの力は、これまで私が接してきた怨霊とは比べ物にならないほど凄まじい。これは単なる死霊の力ではなく、生きた人間によって呪いがかけられているとしか考えられない。おそらく、お紺は今川家に男子が産まれるとき、その近くに生まれ変わって、呪いをかけ続けているのではないか。だから、その女子が死ぬか、強い法力を以って除霊しなければ、お主にかけられた呪いは解けることはないだろう』」

「近くに……生まれ変わる?」

「うむ。じゃが、お紺の呪いは、その寺の住職の力では手に負えなかった。お紺が憑依した女子を探し出すことも、それを除霊することもできなかった。だが、洋一は後に結婚し、子を成して居る。いったいどうやってお紺の呪いを解いたのか――葉太郎が最も知りたいのは、そこじゃろう?」


 並みの住職では手が付けられないほど強力な呪い。しかも、それは死んだお紺の過去の情念などではなく、お紺の霊が憑依した女、というより、生まれ変わりから発せられるものだという。

 時を超え、世代を経ても消えることのない恨み。そして、生まれ変わっても復讐を果たそうとする執念。お紺の呪いを甘く考えていたつもりは決してない。けれど、そのスケールの大きさに、僕は少なからぬ衝撃を受けた。

 だが洋一さんは、その呪いを克服して、伴侶を得ることができたらしい。修行を積んだ僧侶でも太刀打ちできなかったというお紺の呪いを、一体どうやって――?

 婆ちゃんの問いに、僕は思わず大きく唾を飲みこんだ。


「……うん。知りたい。洋一さんが、どうやってお紺の呪いを解いたのか」


 すると婆ちゃんは、きっともう冷めているであろうお茶を一口すすり、たっぷり間をおいてから、これまでより更に重い口調で、こう言った。


「単純な話じゃ。お紺が憑依していた女子を殺したんじゃよ」


 殺した。

 ころした。

 そのたった四文字の言葉が、場の空気をさらに重くした。これまでの婆ちゃんの話にずっと無関心な様子だった姉貴でさえも、切れ長の目を大きく見開き、息を呑んでいる。


「殺した、と言うと語弊があるんじゃがな。洋一にはその女子を殺すつもりはなかったし、その女子がお紺の生まれ変わりだと知っていたわけでもない。ただ、その女子が死んで以降、洋一の周囲で女の不審死はなくなったし、無事結婚することもできた……故に、結果的に、その女子がお紺の生まれ変わりだったと推測される、ということじゃ。洋一がその女子を殺すまでの経緯は、これまた長い話になるんじゃがな……」

「ちょっと待ってよ、婆ちゃん」


 隣の姉貴が、不意に婆ちゃんの話を遮る。


「女の人を殺したんだったら、その洋一さんって人は罪に問われるんじゃないの? 理由はどうあれ、殺人って重罪じゃん。そんな、何事もなかったように結婚なんて……」

「殺人ではないぞ。洋一が直接手にかけたわけではない。しかし、実質的には洋一が殺したようなものだ。女子の名前は美枝。洋一と美枝は心中を試みて、洋一だけが生き残ったんじゃ」

「……し、心中……未遂……?」


 心中。一緒に死のうとすること。

 一言に心中と言っても、その主体によってニュアンスはだいぶ異なる。生活苦による一家心中というケースもあるし、最近では、介護疲れした老夫婦が無理心中を図るニュースもあるらしい。でも、若い男女の心中と言えば、真っ先に思いつくのは、相思相愛なのに何らかの事情があって結ばれないとか、悲恋の末に来世での再会を誓い合いながら揃って命を絶つようなケースだろうか。

 心中未遂、と呟いてから、姉貴も絶句してしまった。

 きっと姉貴も僕と同じことを連想したのだろう。仮にお紺の呪いが単なる迷信だったとしても、心中未遂はれっきとした事実なのだから。


「美枝は、今川家の近所に住む家族の女子で、洋一とは幼馴染のような関係じゃった。とはいえ、うら若い男女のこと、思春期にもなれば、ただの幼馴染ではいられない。美枝は洋一と並んでも見劣りせんほど器量のいい娘じゃったし、何より、洋一と美枝は心の底で想い合っていた。実際、洋一は幼いころから、大学を出て良い働き口を見つけたら、すぐにでも美枝に結婚を申し込もうと決めていたようじゃ。しかしそこで、洋一に言い寄ってきた女子の変死事件が続発する。自分に近づいた女子が相次いで死に、しかもそれが今川家にかけられた呪いのせいだと悟ると、洋一は次第に美枝を遠ざけるようになった。お紺の呪いのせいで、美枝に万が一のことがあってはならんと考えたんじゃな」


 たしかに、今川家にお紺の呪いがかけられていて、それをすぐに祓うことができないのなら、対処法が見つかるまで美枝と近付かないのが賢明なのかもしれない。僕が洋一さんと同じ立場だとしたら、きっと同じ判断をするだろう。でも……。


「だが、美枝がそれで納得できようはずもない。洋一が美枝に事情を説明しなかったのも拙かった。美枝は洋一に執拗に食い下がり、洋一もそれを無下に追い払うことができず、結局、洋一は今川家にかけられたお紺の呪いのことを美枝に話したんじゃ。美枝は死ぬことなど怖くはないと答えた。洋一の周囲で女子が変死していることぐらい美枝は当然知っていたし、それでも洋一を諦めようとはしなかったのだから、まあ当然の返答じゃな。その後、二人はそれまでの時間を埋めるように狂おしく愛しあった。帝大を出たらすぐにでも結婚しようと、二人は将来を誓い合ったのじゃ。しかし――美枝の両親が、それを許さなかった」

「美枝の……両親が?」

「うむ。洋一に近付いた女子の変死の噂は、当然美枝の両親の耳にも届いておった。美枝の両親は、洋一が何か特異な性癖の持ち主で、言い寄ってきた女子を片っ端から殺しているのではないかと疑っていた。二人が幼い頃には交際を認めていた美枝の両親も、自分の娘の命がかかるとなれば話は別じゃ。洋一はお紺の呪いのことを美枝の両親に正直に話したが、これは逆効果だった。『帝大にまで進んだ秀才が、呪いだなんだとは片腹痛い。私らを無学文盲の輩とバカにしておるのか!』と怒らせる結果になってしまったんじゃ」


 幼い頃から相思相愛で、長い時を経てようやく結ばれた二人なのに、両親の反対によって結婚は許されず。悲しい恋の結末は、やはり――。


「絶望した二人は、来世では必ずまた結ばれよう、と誓い合いながら、玉川上水に身を投げた。結末はさっき言ったとおりじゃ。美枝はそこで亡くなったが、洋一は死ねなかった。幸か不幸か、な……。美枝を失った洋一の憔悴ぶりは凄まじく、その後一年ほどは廃人同様に過ごしておった。心中未遂の話は瞬く間に知れ渡り、もう洋一が嫁を娶ることも不可能だと思われた。今後を案じた洋一の両親は、身寄りのない女子を養子として引き取り、これに婿を取らせて家を継がせようとした。最早嫁を貰うことが不可能だとしても、今川家がずっとそうしてきたように、入り婿ならばなり手があるのではないかと考えてな。じゃが、そうはならなかった」


 婆ちゃんはここでまたお茶を一口すすり、口の渇きを潤してから、これまでと比べると若干和らいだ口調で話し始める。


「今川家の蕎麦屋で給仕として働く、すず、という若い娘がおった。すずは底抜けに明るい性格の持ち主で、愛想もよく、客からの人気も上々だった。そのすずが、美枝との心中未遂事件以降、仕事の空き時間を使って、塞ぎ込む洋一に話しかけるようになったんじゃ。すずは洋一と美枝のことは勿論、洋一の周りで女が変死を続けていることも知っていたが、根っからの楽観主義のすずは全く気にしなかった。美枝を失って以降、洋一は美枝の後を追うことばかり考えていたが、すずとの会話は洋一の荒んだ心を少しずつ癒していく。二人はゆっくりと愛を育み、洋一は帝大に復学し、卒業後は教師の職についた。洋一とすずが結婚したのはそれから間もなくのことだった」


 すずという娘との新たな出会いによって、心の傷を癒した洋一さん。でも、すずさん――僕から見れば高祖母にあたる人――には、何故お紺の呪いの影響がなかったのか。それはつまり……。


「結婚の翌年、すずは洋一の子を身籠った。それが儂の母になるのじゃが、まあそれはいいとして、すずと親しくなっていく過程で、洋一は疑問を持った。それまでは、少し話をして親しくなった程度の女子にも、お紺の呪いによる災厄が及んでいた。しかし、すずにそれが見られないのは何故だろう? 否、よくよく考えてみれば、最も親しかったはずの美枝にも、玉川上水で命を落とすまで、結局何の被害も及ばなかった。これをどう捉えるべきか? そこで、洋一はあの住職の言葉を思い出した。『お紺はお主の近くに生まれ変わり、その女子が死ぬか、或いは除霊しなければ、呪いは解けないだろう』――これらの事実から考えられる推論は一つ。美枝こそが、お紺の生まれ変わりだったのではないか……」


 やっぱり、当然そういう結論に行きつくだろう。

 自分が最も愛し、また自分のせいで命を落とした女性が、悍ましきお紺の生まれ変わりだったと気付いてしまった。その時の洋一さんの心情を想像すると、軽い表現になってしまうけれど、とてもやり切れない気持ちになる。

 しかし、そのおかげで生涯の伴侶となるすずさんと巡り会えたのならば……いや、それでも。


 いつもは婆ちゃんの話を与太話だと取り合わない姉貴も、洋一さんと美枝の実話、その悲しい運命には心を打たれたようだった。姉貴は目を伏せ、悲しげな表情で婆ちゃんに尋ねる。


「それで……洋一さんは、その後どうなったの?」

「うむ……実は、すずとの間に生まれた娘が物心つく前に、亡くなってしもうたんじゃ。すずが娘を連れて実家に帰っている時に、家が火事になってな……家は全焼、家族は全員焼死。この手記は、洋一の職場の机に残されていた、数少ない遺品なんじゃ。蕎麦屋を営んでいた洋一の両親も一緒に死んでしもうたから、すず……つまり儂の婆さんは、店を売り払い、僅かな財産も処分して、焼け跡に新しい家を建てた。それがこの家というわけじゃ。まあ、これだけさっぱりとリフォームしたから、当時の面影はほとんど残っておらんがの……」


 婆ちゃんが居間をぐるりと見回し、しみじみと言う。つられて僕も辺りを見回しながら、リフォーム前の古くて寒くて黴臭かった婆ちゃんの家を思い起こしていた。


「まあ、その手記には、おおよそそのようなことが書いてある。内容は大体、今儂が話した通りじゃが、興味があるなら原文を読んでみるとよいぞ」

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