呪縛

 婆ちゃんの家について早めの夕食を食べてから、僕は婆ちゃんに更紗のこと、現場で目にした着物の女のこと、そしてその直後に見た夢のことを話した。

 春休みにここを訪れてからまだ一月も経っていない。しかも当日連絡を入れて突然やってきたことで、婆ちゃんの方も何かあったのではないかと薄々感付いていたらしい。実は、と僕が話し始めると、テーブルを挟んで向かい合い、のんびりと足を伸ばして寛いでいた婆ちゃんは、すぐに正座に座り直した。


 婆ちゃんは、これまで見たことがないぐらい真剣な表情で僕の話を聞いてくれた。更紗のことについて、僕の話を真面目に聞いてくれたのは、婆ちゃんが初めてだったかもしれない。

 話しているうちに、あの日の更紗の血まみれの顔、そして着物の女の恐ろしい形相を思い出してしまい、心臓がバクバク、額からは冷や汗が噴き出してきた。けれど、不思議なことに口だけはいつもよりずっとよく回って、僕はまくし立てるように一気にあの妙な夢の内容までを語り終えた。



「ふむ、やはり、葉太郎の身にも起こってしまったか……」


 険しい表情で僕の話を聞いていた婆ちゃんは、唸るように重々しくそう言うと、そのまま目を閉じて、しばらく黙り込んだ。

 春休みに来たときと同じ居間のテーブルだったけれど、ここ数日で一気に暖かくなってきたせいか、こたつ布団はもう外してある。紫色の作務衣姿で座布団の上に正座している婆ちゃんの姿は、このまま七福神の置物にこっそり紛れ込んでいてもあまり違和感がなさそうだった。

 台所からは、夕飯の後片付けをしている姉貴の洗い物の音が聞こえる。ちなみに、夕飯のメニューは焼き魚に野菜の煮付け。これだけヘルシーなメニューを食べるのも久しぶりだし、姉貴の手料理を食べるのだって、もう春休み以来だ。味はもちろん、めちゃくちゃ美味かった。

 今の部屋に引っ越して以来、まともに料理するのは婆ちゃんの家に来たときぐらいなのに、姉貴の料理の腕は落ちる気配が全くない。姉貴は小さい頃からよく母さんの家事を手伝っていたし、両親が死んでから引っ越すまでの間は、ずっと僕のご飯を作ってくれていた。二人でアパートで暮らすようになってからも、姉貴は何度か飲食店でアルバイトをしていた。

 クールな外見のせいで意外に思われることが多いらしいけれど、姉貴は実はとても家庭的な女性なのだ――姉貴に対して女性なんて表現を使うのは何だかよそよそしくて変な感じがする。かといって、女の子、でもやっぱり変だし……。


 と、婆ちゃんの瞑想は僕がのんびりとこんな余計なことを考えてしまうほど長く続いた。

 そうこうしているうち、洗い物を終えた姉貴がお盆を持って戻ってきた。お盆の上には湯呑み茶碗が三つ、いずれも細く湯気が立っている。姉貴は湯呑み茶碗を僕と婆ちゃんの前に一つずつ置き、自分の湯飲みを持ったままどこに座るか少し考えている様子だったけれど、数秒後、結局は僕の隣に正座した。


 食後の緑茶を一口啜り、大きく息を吐いてから、婆ちゃんはおもむろに口を開く。


「葉太郎に近付いた女子おなごが死んだこと、葉太郎がその現場で見た着物姿の女、そして直後に見た奇怪な夢――これらの事象が指し示す結論は一つ。間違いなく、今川家に代々伝わる呪い……つまり、お紺の呪いじゃ」

「ちょっと待ってよ、そこまで断言はできないでしょ? 女の子が亡くなったのは事故だって警察も言ってるし、その後のことも、精神的なショックから来る幻覚だって……」


 姉貴が反論を試みたが、婆ちゃんはそれを軽く手で制する。


「まあ少し黙って聞かんか茉莉花。儂だって信じたくはないのだ。しかし、こうなってしまった以上、止むを得まいて」

「でも……そんなオカルトを気にしたって、どうしようもないでしょ?」

「だから、黙って聞けと言うておるんじゃ。いいか、杳之介の件以降今川家に男子が生まれにくくなったことと、男子が生まれても、寄ってきた女が不審な死を遂げるようになったのは事実じゃ。だがな、呪いを回避できる可能性が全くないわけではない。嫁を娶り、子をなした男子が一人だけおるのじゃ」

「結婚……? ホントなの、婆ちゃん!?」


 思わず身を乗り出して婆ちゃんに尋ねると、婆ちゃんは僕の顔を鋭い眼差しで見据え、重々しく頷いた。

 僕は驚きを隠せなかった。これまで聞かされていた話では、杳之介とお紺の一件以降、今川家の男には全く相手が見つからなかったかのような口ぶりだったし、実際僕もそう解釈していた。そして、その呪いが僕にもかけられているのだとしたら、更紗だけでなく、この先もずっと、僕が近付く女の子には全て呪いの影響が及ぶのではないか。だとしたら、僕はもう他の女の子と関わることすらできなくなる――僕の最大の懸念はそこにあった。

 でも、実際に結婚まで漕ぎつけて、しかも子供まで作れた人がいるというのなら、話はだいぶ変わってくる。


「一人……だけ?」


 僕が問い返すと、婆ちゃんは再びゆったりと頷いた。


「うむ。それはな、儂の爺さん、つまり祖父にあたる人じゃった」

「婆ちゃんのおじいちゃん……ってことは、ひいひいじいちゃん?」

「つまり、葉太郎から見れば高祖父じゃな。まあ、祖父といっても、儂は直接会うたことはない。儂が物心ついた頃には、既に亡くなっておったからの……じゃが、幸い、その手記が残されておる。ちょっと待っておれ」


 婆ちゃんはよっこらしょ、と呟きながら立ち上がると、そのまま居間を出て行ってしまった。

 残された僕と姉貴の間に、居心地の悪い沈黙が流れる。元々婆ちゃんに相談することに対してあまり乗り気でなかった姉貴は、やはりどこか機嫌が悪そうに見えた。

 僕だって呪いなんて信じたいわけじゃないし、ただのPTSDであってほしいとすら思う。事件の直後だから必要以上に気にしてしまっているだけで、この不安も時間と共に自然と薄れていくものなのかもしれない。後になって振り返ってみれば、何てバカなことを考えていたんだろう、と思う可能性は高い。

 でも、僕はたしかにこの目でお紺の姿を見たし、お紺の夢まで見てしまったのだ。これをただのPTSDだと思い込むことは、僕にはできなかった。だから、どうしてもこれを婆ちゃんに話したかった。この件に関して、真面目に話を聞いてくれるのは婆ちゃんしかいないと思ったからだ。

 けれど、たったそれだけのことのために、誰よりも大切な姉貴との間にわだかまりを残したくはない。だから僕は、思い切って姉貴に尋ねてみた。


「ねえ姉貴、どうしてそこまでこの話を嫌がるの? そりゃ、これが単なる与太話だってことぐらい、僕も頭ではわかってるよ。でも、話を聞いてみるだけならいいじゃないか。姉貴、別に怖い話が苦手なわけじゃないよね?」


 姉貴はホラー映画や怪談もののテレビ番組を見ても、悲鳴を上げるどころか眉一つ動かすことがない。子供の頃、一緒にお化け屋敷に入った時だって、僕が泣きながらヒイヒイ言っていたのに対して、姉貴は全く動じることがなかったぐらいなのだ。

 姉貴は目を閉じたままお茶を一口すすり、大きくため息をついた。


「そんなさ、子供の頃から何度も何度も聞かされた話で、今更怖いもクソもあるわけないでしょ?」

「じゃあ……」

「あたしはね、別にその与太話をどうこう言うつもりはないの。婆ちゃんだってもういい年だから、ここにもマメに顔出さなきゃなって思ってたところだったしさ。ただ、なんか葉太郎が妙に焦って彼女を作ろうとしてるように見えるのが気に入らないだけ」


 僕が、焦って彼女を……?


「死んじゃった子のことについてこう言うのもどうかって、我ながら思うけどさ、葉太郎、ほんとにその子のことが好きだったの? 知り合って一週間も経ってなかったんでしょ? ……いや、まあそれはいいや。なんかさ、もちろん事件のショックはあるだろうけど、実際のところ、彼女が死んで悲しむよりも、これから自分に彼女ができるのかどうかって、むしろそっちの方を気にしてるようにあたしには見えるよ」

「それは……そんな……」


 姉貴の指摘に、僕は何も言い返せなかった。

 更紗と知り合ってから日が浅かったことは事実。彼女のことをどれぐらい好きだったのかと問われると、時間をかけてお互いのことを理解してから付き合い始めたカップルに比べたら、それはにわか雨の後にできた水溜まりのように浅い関係だっただろう。でも、僕は初めて彼女ができたことがとても嬉しかったし、これからゆっくり時間をかけて彼女のことを知りたいと思っていた。それはいけないことだろうか。姉貴にここまで言われなきゃならないほど……。


 僕は姉貴の横顔を横目で盗み見た。

 長い睫毛。薄い唇。白い頬。

 伏せた目は、冷め始めた湯飲み茶碗をじっと見つめている。


 慌てて目を逸らす。僕がどうしてこんなに急いで彼女を作りたがっているのかって、それは――。

 いっそのこと、この場で言ってしまおうかとも考えた。

 僕が早く彼女を作りたいのは、姉貴が……姉貴と……姉貴のことが……。

 言ってしまえばもう少し楽になれるだろうか。でも、この感情を上手く言葉にできるとも思えない。

 姉貴は何と答えるだろう。気持ち悪いと思われるかもしれない。

 でも……。


 口を開きかけたところで、廊下からぱたぱたと足音が聞こえてきた。それから少し遅れて、婆ちゃんのしわがれた声。


「あったあった。これが、儂の祖父、今川洋一の手記じゃ」

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