紗季

「今川くん!」


 コートの中央にあるネットを軽々と飛び越え、岡部さんが血相を変えてこちらに駆け寄ってくる。

 転倒した瞬間から数秒遅れて、体中の神経がそれぞれ状況を報告してきた。膝や肘がちょっと痛む程度で、大きな怪我はないようだ。心配をかけまいと、僕は急いで体を起こした。


「大丈夫? 今川くん……ごめんね、怪我はない?」

「うん、大丈夫、平気平気。ちょっと調子こいちゃってさ……カッコ悪いね、ハハハ……」

「ううん、私もつい加減を忘れちゃって……あ、今川くん、肘すりむいてるよ?」

「えっ?」


 岡部さんに言われて肘を見ると、右肘にはたしかに数センチほどの傷がつき、赤黒く血が滲んでいる。


「あ、ホントだ……いや、でも別にこれぐらい、どうってこと……」

「ダメだよ、ちゃんと処置しなきゃ! 傷そのものは小さくても、そこからバイ菌とか入ったら大変なことになるんだから。ね、一緒に保健室に行こう?」




 と、岡部さんに保健室へ連れて来られた僕は、北条先生から消毒などの処置を受けた。これぐらいなら絆創膏貼っておくだけでもそのうち治りそうなのに、僕の肘には大袈裟にも思える真っ白い滅菌ガーゼがサージカルテープでびっしり留められている。


「はい、これでよし、と――それにしても、今川くんがテニス部って、ちょっと意外な感じがするね」


 北条先生が黒縁で細身なフレームの眼鏡を中指でクイッと直しながら言った。

 客観的に見ても、僕は体育会系どころか運動とは無縁のイメージだろうと思う。体は大きくないし、引っ込み思案だし、実際に運動神経も悪いし、体育の時間はずっと憂鬱だった。岡部さんには悪いけど、武田に無理矢理誘われなければ、全く興味すら持たなかったはずだ。


「体験入部だったんです、今日。それで、今川くんにテニス部に入って欲しくて、ちょっと張り切り過ぎちゃって……今川くんにとっては初めてのテニスなんだから、ちゃんと加減しなくちゃいけなかったのに」


 岡部さんが俯きながら答える。それはいつも快活な彼女が初めて見せる表情だった。ずっこけたのも怪我をしたのも僕の自己責任。岡部さんが落ち込むことなんて何もないのに。


「いや、僕だって、岡部さんに褒められて、ちょっと調子に乗って無理しちゃったんだよ。僕、昔から運動神経悪くてさ、体育の授業でもあんなに褒められたことなかったから、それで舞い上がっちゃって」

「でも……」

「だからさ、もう気にしないで。そんなに落ち込まれちゃうと、僕もちょっと気まずいしさ」


 すると、岡部さんは表情を緩め、細い目をさらに細めて微笑んだ。


「優しいよね、今川くんって」

「い、いやぁ、そんな……」


 今度は僕が俯く番だった。苦手なんだよなぁ、褒められるの。そんな僕たちの様子を見て、北条先生が口辺に意味ありげな笑みを浮かべながらぽつりと呟く。


「モテるねぇ、今川くんは」

「はっ? いや、まさか」

「またまたぁ。ちょっとぐらいは自覚してるんでしょ?」

「有り得ないですよ! 僕、トロいし、学歴も特技もないし、中学の頃はいじめられてたし……」


 進学校で挫折し、彼女ができたこともなく、中学ではいじめられてきたスクールカースト最底辺の僕が、モテるわけがないじゃないか。花倉では男子が少ないから、そりゃあちょっとだけ優しくしてもらってるとは思うけど、それとこれとは別物だと僕は思っている。しかし――。


「そんなことないよ!」


 突然鋭い声を上げた岡部さんに、僕も北条先生も驚いて目を見張った。


「今川くんは、優しくて、かわいくて……あ、今川くんはかわいいって言われるのあんまり嬉しくないみたいだけど、そういう意味じゃなくて、ちょっと母性本能をくすぐられるっていうか、その……」


 と、声の勢いは次第に消え入るように小さくなり、ちょっぴり頬を赤らめる岡部さん。


「あの、岡部さん……?」

「と、とにかく、今川くんは、充分魅力的な男の子だよ、っていうことを、言いたかったの!」

「は、はいっ……」

「だから、今川くんにはそんなに自分のことを卑下してほしくないし、テニスだって、練習すれば絶対上手くなれると思う!」


 岡部さんはそう言うと、僕の方にずいっと身を乗り出してきた。ちょ、顔が近いって……。

 そんな僕たちを見て、北条先生は笑いを噛み殺すような不思議な表情で言った。


「若いって、いいねぇ……。まあ、怪我の方は大したことないから、もう帰っていいよ。今川君、途中まででも送ってやりなよ、彼女を」



 というわけで、僕は岡部さんと一緒に下校することになった。

 とは言っても、岡部さんはバス通学だから、学校近くのバス停までの、ごく短い距離でしかないのだけれど。

 校舎を出た僕たちは、いつもよりたっぷり時間をかけて歩きながら、色々な話をした。学校生活のこと、クラスメイトのこと、そして僕の姉貴のことも、少しだけ。部活については、岡部さんは意外にも話題にしなかった。時間がかかったのは岡部さんが僕の怪我を気遣ってゆっくり歩いてくれたからで、その分だけたくさん話ができたのだ。

 中でも、岡部さんが特に興味を持ったのは、姉貴の話だった。岡部さんは一人っ子らしく、姉妹のいる家庭をいつも羨ましく思っているという。


「いいなぁ、私も綺麗なお姉さん欲しかったなぁ」

「そういうもの? まあ、たしかに、同性の兄弟が欲しいっていう気持ちはわかるかも」

「でしょ? 私、メイクとかファッションとかあんまりよくわからないから、相談できる相手が欲しかったなぁって」

「たしかに、同じ趣味のある兄弟がいたら楽しいだろうなぁ。でも、うちの姉貴、メイクもファッションもあんまり詳しくないと思うよ? メイクなんて普段してるところ見たことないし、服だって、身長が止まった高校の頃からずっと同じ服着てるし……」

「そうなの? でも、入学式で見たときは、ビシッとスーツを着こなして、バッチリメイクもしてたよね? すごい綺麗なひとがいるなあって思いながら見た記憶があるもの」

「ああ……。あれは、入学式だから特別だよ。メイクは藍子さんにしてもらったらしいし、スーツも藍子さんからの借り物だったんだ」


 昔から、姉貴のことを褒められると、自分が褒められる以上に照れ臭く感じてしまうのは何故だろう。


「藍子さんって、今川くんのお姉さんと一緒に語り草になってる織田さんって人だっけ? 演劇はわかんないけど、噂はちらっと聞いたことへぇ……でもさ、花倉に通ってた頃はメイクしてなかったんでしょ? それでも美人で噂になってたってことは、すっぴんでも相当綺麗なんだよね。すっぴん美人って反則じゃん! ずるいなぁ……」


 岡部さんはそう言うと、ほんの少し口を尖らせて、地面に転がっていた小さな石ころを軽く蹴飛ばした。石ころは二、三度地面を跳ねながら、1mぐらい転がって止まった。

 たしかに、岡部さんはあまり美人というタイプではないかもしれないけれど、でも、ちょっぴり拗ねたような彼女の横顔と仕草が、僕にはとても可愛らしいものに思えた。


 校門を出ると、道路を挟んだ向かいにあるバス停までは直線距離にすれば50mもなく、そのバス停に行くには、左手に進んですぐそこにあるT字路の交差点で反対側に渡る必要がある。交差点に着いたのとほぼ同時に信号が赤に変わり、僕たちは歩道で足を止めた。

 僕の右側に立った岡部さんは、ショートカットの髪を揺らしながらこちらを振り返る。


「今日は、今川くんと色々話せて楽しかったな」


 彼女の笑顔は向日葵のように朗らかで、そのあまりの眩しさに、僕は思わず目を逸らさずにいられなかった。あてもなく視線を泳がせながら、僕は答える


「う、うん、僕も、楽しかったよ」

「テニス、次はいつ来る? 今川くんの都合が良ければ、私は明日でもいいけど……あ、でも、怪我の具合にもよるか……」

「いや、これぐらい、全然何ともないって!」

「本当? でも、無理はしないでね。明日でも、明後日でも……ふふっ」


 と、目を細めて微笑む岡部さんの横顔に、実はまだ少しだけヒリヒリしていた肘の痛みは一瞬で吹っ飛んだ――しかし、その瞬間。


 突然、背筋に悪寒が走る。

 風邪気味の時みたいな寒気とも明らかに違う、悪寒という一言では表現しきれない悍ましい感覚、でも、確かにどこかで感じたことがあるような……。

 体中が痺れたように動かなくなったが、不思議と首だけは動かすことができた。背後から何者かの気配を感じた僕は、まさか、と思いつつ、おそるおそる後ろを振り返る。


「……!」


 そして、『まさか』という予感は、『やはり』に変わった。そこには、更紗が死んだ日に現れた、あの女が立っていたのだ。

 赤黒い血で汚れた若草色の着物、乱れた蓬髪。忘れもしない、こいつは――。


(お紺――!)


「ん? どうしたの? 今川くん」


 僕の異変に気付いた岡部さんが、怪訝な表情で僕の顔を覗き込む。


「あ……あ……」


 すぐに逃げて、と叫びたいのに、僕の喉は情けない呻き声しか上げられない。


「やっぱり、どこか痛めてた? 学校に戻ろうか? もう一回、北条先生に診てもらって……」


 無表情のお紺は音もなく岡部さんの背後に忍び寄る。


「あ……おこ……にげ……」


 その時、ついさっきまで車なんて一台も通っていなかった目の前の道路に、大型トラックがやってきた。交通量が少なめの長い直線道路だから、ここは結構スピードを出してくる車が多い。あのトラックも、どうやら法定速度を大きく超過する速度で交差点へ近付いてくる。丁度信号が黄色に変わり、赤信号に変わる前に走り抜けてしまおうと、トラックはさらに速度を上げた。


 地響きを立てながら近づいてくるトラック。

 背後に立つお紺に気付かない岡部さん。

 トラックが僕たちの前に差し掛かるその刹那、お紺は、


 岡部さんの背中を両手でそっと押し出した。


「……えっ?」


 岡部さんが一瞬だけ見せた困惑の表情が僕の脳裏に焼き付き、

 そしてそれが、彼女の最期になった。


 ドンッ


 という大きな衝撃音の後に、骨が砕け、肉が潰れる細かい音が続いたが、それはすぐにトラックのブレーキ音にかき消された。

 僕の体が自由を取り戻したとき、そこにはもうお紺の姿はなく、岡部さんは変わり果てた姿となって道路に転がっていた。十輪トラックの前輪と後輪に踏み潰された彼女のセーラー服は血に染まり、腕も足も、壊れた人形のようにあらぬ方向にねじ曲がったまま、ぴくりとも動くことはなかった。


「う……うわあああああああ!!!」

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