更紗
由比さんに引っ張られながら売店につくと、既に大勢の女子生徒がレジに並んでいた。昼食の予算は七百円。七百円もあれば、生姜焼き弁当とかソースカツ弁当とか肉の入ったゴージャスな弁当も買えるのだけれど、貧乏性なせいか、そこまで行くとなんとなく贅沢すぎるような気がしてしまう。色々悩んだけれど、結局おにぎり二つとペットボトルのお茶だけを買ってコンビニを出た。
由比さんは前髪を気にしながら売店の前に立って待っていた。ピアノを嗜む彼女の指は細く、そしてとても長くて、爪も綺麗に短く切り揃えられている。さっき武田と別れるときには『売店を見てみたかった』と言っていたはずなのに、実際に売店の中まで足を踏み入れることはなかった。
売店から中庭へ戻る途中、僕たちはゆっくり歩きながら話をした。
「今川くんって、たしかご両親がいないんだよね。お姉さんは? お弁当とか作らないの?」
「いや、今住んでるアパートがすごい古いところでさ……部屋にキッチンがないんだよ。姉貴は飲食店でバイトしてたこともあるし、料理ができないわけじゃないんだけど」
「そうなんだ……でも今川くん男の子だもの、おにぎり二つだけじゃ足りないんじゃない?」
「う~ん、いや、まあ……」
図星だった。おにぎりとお茶で持つのはせいぜい二、三時間ほどで、五時限目ぐらいになると次第に空腹を感じ始める。僕は窓際の一番後ろの隅っこだから目立たないけれど、もしこれが真ん中の席だったりしたら、きっと午後になると腹の音が周りの女子達に聞こえてしまっていただろう。
「じゃあ、私のお弁当も食べていいよ」
「……え?」
「だって、おにぎりだけじゃかわいそうだし……私、少食だから」
「いや、それはいくらなんでも……」
「だったら、今川くんの買ったおにぎり、一つ私にちょうだい。お弁当は半分ずつ。それならどう?」
こうまで言われるとなかなか断りきれないのが僕の悩み。
「う……うん……じゃあ、お言葉に甘えて……」
なんとなく僕と由比さんが一緒にお昼を食べる流れになってしまったけれど、元はと言えば、武田のために由比さんを呼び出したんじゃなかったっけ……?
でも、そもそも由比さんを誘ったのは僕なのだから、これでいいのか……?
迷いながらも、僕は由比さんに連れられて、そのまま教室まで戻ってきてしまった。武田の姿はない。
由比さんは、空いている武田の椅子を後ろ向きにして座り、僕の机の上で弁当箱を紐解いた。教室にはクラスメイトたちがまだ何人か残っていて、向かい合って弁当を囲む僕たちに視線が集中する。これ、絶対あとで武田にバレるだろうなあ。
由比さんのお弁当は、お母さんの愛情がこもった立派なものだった。たこさんウインナーに、ミニトマト、玉子焼き、きんぴらごぼう。ごはんの真ん中には梅干しが乗っている。まだ両親が健在だった小学生の頃、母親に作ってもらった手作り弁当の味が思い起こされて、危うくよだれが落ちるところだった。
「おにぎり、どっちがいい?」
由比さんはそう言って、売店のビニール袋からおにぎりとお茶を取り出し始めた。大人しそうな見た目に反して、実は結構仕切りたがるタイプの子なのかもしれない。
僕が買ったおにぎりは梅と筋子だったから、僕が筋子を食べてしまったら、弁当にも梅干しが入っている由比さんは梅を二重に食べることになってしまう。それでは何だか申し訳ないので、僕は梅を選んだ。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
由比さんは手際よくフィルムを剥がしておにぎりを口に運ぶ。
実は、僕は毎日のようにこのタイプのおにぎりを食べている。理由はもちろん、姉貴がコンビニからもらってくるからだ。にもかかわらず、不器用な僕は、未だにこのフィルムをすんなり剥がすことができないのだった。ああ、カッコ悪い……。
人によっては幻滅されてしまう場面かもしれない。でも、フィルムに悪戦苦闘する僕を、由比さんは呆れもせず、にこやかに見守ってくれた。
「おかず、好きなだけ食べていいよ」
彼女はそう言って、お弁当と箸を差し出した。箸も弁当箱もディズニーのキャラクターがプリントされた可愛らしいもので、『ディズニーランドの年パスを持つヘビーユーザー』という武田の言葉が思い起こされる。
ここまでしてもらって食べないのはかえって失礼になってしまう。僕はおかずを一通り、一口ずつ食べた。
「もういいの?」
「うん、ありがとう。おいしかったよ」
すると、由比さんはそのまま、僕が口をつけた箸を使っておかずを食べ始めたのだ。これっていわゆる……。
「由比さん、その箸……」
「お箸、これしかないからさ。しょうがないしょうがない。……あ、お茶少しもらっていい?」
彼女はそう言って、返事も聞かぬまま、僕のお茶をぐびぐびと二、三口飲んだ。
僕が口をつけたお茶を。
つまりこれは、二重に間接キスをしてしまったことになるのだが……。
同じものに口をつけても平然としている由比さんを見ていると、そんなことをいちいち気にしている僕のほうがおかしいような気がしてくる。僕は少し緊張しながら、さっき由比さんの唇が触れていたお茶を飲んだ。
ごく普通の烏龍茶のはずなのに、ほんの少し、フレーバーティーのような甘い香りがする。
僕は何だかとてもドキドキした。烏龍茶のカフェインの興奮作用にしては、随分効きすぎているような。
おにぎりとお弁当を平らげるのにそれほど時間はかからなかった。さっき由比さんは自ら少食と言っていたけれど、あれは嘘だな、と僕は思った。
「今川くん、お弁当、おいしかった?」
「うん、とっても。」
「よかった。ねえ、もし嫌じゃなければ、明日も一緒にお昼食べない? お母さんに頼んで、明日はもう少し多めに作ってもらうから」
『嫌じゃなければ』という質問の仕方は、なかなかずるいと思う。もしこの提案を断ってしまったら、それが嫌だったという意味になってしまうからだ。こんなにおいしいお弁当を食べさせてもらって、嫌だなんて言えるわけがないじゃないか。
断ったところで、どうせ明日は一人で昼食をとることになるだろうし、僕が一人で食事しているところを由比さんに見られたら、余計に由比さんを傷つけてしまうだろう――そんな言い訳じみたことを考えながら、その実、本音では彼女の申し出を断りたくないという気持ちが芽生え始めている。
「でも、そんなに御馳走になっちゃったら、なんだか申し訳ないよ……」
申し訳ない、という言葉は、由比さんに対してだけではなく、武田への負い目も半分はあった。彼は今どうしているのだろう。中庭で僕たちを待ちながら一人寂しく弁当を食べているのだろうか。
武田に『由比さんには手を出さない』なんて言ってしまったことを、僕は早くも後悔していた。でも、少なくともその時は、由比さんと親しくなるつもりなんて全くなかったのだ。ああ、僕はもう、武田との約束を破ることを考えている。
「いいのいいの。気にしないで。じゃあ、約束ね!」
彼女はそう言って一方的に会話を打ち切り、自分の席へと戻って行った。
由比さんとの新しい約束。それは、武田と交わした約束と背反するものだ。しかし、僕の心は確実に由比さんの方へと傾きつつあった。
よくよく考えれば、武田に恩があるわけでもないし、まだ友達と呼べる間柄ですらない。どちらかといえば、押しつけがましい嫌な奴だと思っているじゃないか。二人を天秤にかけたとき、どちらの約束に重みがあるかは考えるまでもない。ただ順番が前後してしまっただけなのだ――そうやって、心境の変化を正当化しようとしている自分がいた。
武田が戻ってきたのは、昼休みが終わる少し前のことだった。
彼は僕に何も言わなかったし、目すら合わせようとしなかった。ほんの少し前まで、その椅子に由比さんが座っていたことに、彼は気付いただろうか。いや、気付かないはずはない。何故ならば、武田の席に微かに残った由比さんの香水の匂いが、後ろの僕の席にまでふわりと漂ってきていたのだから。
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