×××

 放課後、僕は由比さんに言われた通り、校舎裏の桜の木の下にやってきた。


 彼女の姿はまだ見えない。少し早く来すぎただろうか。焦っているみたいで、なんだか少し恥ずかしい。でも、胸がドキドキして、いてもたってもいられなくて、帰りのホームルームが終わってすぐ、大急ぎでここまで走ってきたのだ。

 僕は桜の木の幹に寄りかかり、上がった息を整えながら、じっと由比さんを待った。


 校舎裏のこの場所は昼間でもあまり人目がなく、放課後になるとほとんど人は通らない。そんな場所に満開の桜の木がぽつりと一本佇むように植わっていて、何となくセンチメンタルな気分にさせられる。そのため、ここは花倉高校での告白のメッカなんだ、と姉貴が以前話していた。


 演劇部で人気の男役だった姉貴は上級生下級生を問わず人気があり、在学中は何度もここに呼び出されたとか。もちろん相手は女の子。姉貴は『面倒臭いだけ』と言っていたけれど、男の僕からすると、非常に羨ましい話だ。

 不意に強い風が吹いて、桜の枝がサラサラと小さな音を立てる。散り行く桜の花びらは風に乗って舞い踊り、その桜吹雪の向こうに、風に乱れる前髪を押さえながらこちらへ歩いてくる由比さんの姿が見えた。


「ごめん、待った?」

「ううん。全然。今きたばかり」

「ごめんね、変なところに呼び出しちゃって」

「ううん。全然……」


 彼女が『ごめん』という言葉を繰り返すのは、もしかして緊張の証だろうか、と僕は思った。何故ならば、僕が同じ言葉を繰り返してしまうのも、緊張のせいだったから。

 それからしばらく、お互いに無言の時間が続いた。昼休みはあんなにたくさん話ができたのに、今はまともに目を見ることすらできない。ここに呼び出されたことの意味がわからないほど僕は朴念仁じゃないつもりだ。


 話を切り出したのは、やっぱり由比さんだった。


「ねえ、今川くんって、彼女はいるの? ……彼女っていうのは、つまり、ガールフレンド、という意味の」


 来た。

 心臓がドクドクと激しく脈打つ。


「いないよ」

「そう……でも、モテるんじゃない?」

「ううん、全然。運動神経悪いし、見ての通りナヨナヨしてるから、小学生の頃は全然モテなかったし……中学は男子校だったから出会いがなくて。だから、恥ずかしいんだけど、まだ女の子と付き合ったことも、デートしたこともないんだ」

「そうなの? そんなに綺麗な顔してるのに」

「そんなことないよ……由比さんだって、綺麗だよ」


 すると、由比さんは恥じらうようにふっと目を伏せた。彼女の頬がほんのりと、紅を差したように赤くなる。

 『綺麗だよ』なんて歯の浮くような台詞が、この僕の口からすらすらと出てきたことに、誰よりも僕自身が一番驚いていた。


「昨日、お昼ご飯に誘ってもらえて、私、すごく嬉しかった。まだクラスに親しい友達もいないし、どうしようかって思ってたの」

「あの、それ、実は……」

「わかってる。武田くんに言われたんでしょう?」

「……えっ」

「だってあの時、今川くん、『俺』とか『食べようぜ』とか言ってたけど、そのあとあんなにお話したのに、一度もそんな言葉使わなかったもの」


 鋭い。彼女はあれが武田の差し金であることに気付いていたのだ。

 やっぱり女の子の観察眼は侮れないな、と思った――まあ、僕の演技がそれほど酷かったのかもしれないけれど。


「ははは……バレてたか」

「でも、いいの。私も今川くんに、その、結構興味があったし、渡りに船っていうか……実際にお話してみて、やっぱり可愛かったし、楽しかったし」


 『可愛かった』

 僕にとって、これはコンプレックスを刺激される一言のはず。なのに、彼女に言われると不思議と不快には感じなかった。


「僕も、由比さんと一緒に食べる昼飯は美味しかったし、話しててすごく楽しかったよ」


 再び沈黙が流れる。でも、今度は長くは続かなかった。


「私、今川くんのこと好きになっちゃったかも」


 由比さんの一言に、僕は心臓が破裂するかと思った。まるで校庭十周走らされたあとみたいに、バクバクと早鐘を打っている。


「僕も、由比さんのこと、好きになった……かも」

「かも?」

「い、いや、ううん……好き……だ……好きだよ、由比さんのこと」


 由比さんの……いや、更紗の両目から、大粒の涙が零れ落ちた。


「……葉太郎くん」

「さ……更紗……」


 『更紗さらさ』。なんて素敵な名前だろう。こんなに上品で、語感が美しい名前があるだろうか――声に出して呼んでみて、僕は改めてその名前の美しさに感動した。


 更紗の顔が近付いてくる。

 僕の目の前で、彼女はそっと目を閉じた。 


 そして僕たちは、強く吹き付ける春風と狂ったように舞う桜吹雪の中で、長く短い口付けを交わした。

 僕にとっては、これが人生初めてのキスだった。


 それからどれぐらい時間が経ったのだろう。いつの間にか、澄んだ海のように青かった空に、西からほんのりと薄桃色が差し始めている。


「そろそろ、帰らなきゃね」


 更紗がぽつりと呟く。


「……うん」

「なんだか、急に恥ずかしくなってきちゃった……キス、しちゃったんだね、私たち」

「う、うん……」

「私、葉太郎くんの彼女になったんだよね」

「う、うん……由比さ……じゃなかった、更紗ちゃんが、僕の彼女……」


 彼女。ガールフレンド。初めての。なんて甘美な響きだろう。


「明日も一緒にお昼ご飯食べようね、葉太郎くん」

「うん。約束する」

「じゃあ、また明日」


 更紗はにこやかに微笑んで、手を振りながら僕に背を向け、西日の差すグラウンドの方向に駆け出して行く。


 しかし、不意に体が浮き上がるかと思うような突風が吹きつけてきて、胸のあたりにズキンと不可解な痛みが走る。

 それはこれまで経験したことのない痛みだった。

 そして僕は、まるで何かに導かれたかのように、全く無意識のうちに上を見た。そこには、開け放たれた窓、靡くカーテン、ゆっくりと落ちてくる植木鉢。


 全てがスローモーションのように見えた。

 その真下に、突風に吹かれて立ち止まった更紗の姿を認めるまでは。


「更紗! 危ない!」


 必死に叫んだ僕の声は、さらに強く吹き付けてくる突風にかき消された。

 加速度をつけて降ってきた植木鉢は、無回転シュートのように不自然な放物線を描きながら、更紗の頭に


 グシャッ


 と直撃した。僕の声をかき消した突風は、まるで果物を握りつぶしたみたいな、その独特の嫌な音までかき消してはくれなかった。


 更紗の体がくずおれるのとほぼ同時に、僕は駆け出した。


「更紗! 更紗!」


 どんなに声を振り絞っても、彼女は仰向けに倒れたままぴくりとも動かない。

 更紗の横で屈んだ僕は、彼女の変わり果てた姿に愕然とした。


 四方に投げ出された手足。扇状に広がった黒髪。中途半端に開かれた瞼は瞬きをやめていた。

 あんなに気にしていた前髪は血に汚れて額に貼りつき、さっき僕と口付けをかわした柔らかい唇からは、長い舌がだらしなく飛び出している。

 視界の端に、赤く染まった彼女の細く長い小指が。


「あ……あ……さら……さ……」


 その時ふと、背後に人の気配を感じて、僕は振り返った。


 そこには、若草色の着物を赤黒い血に染め、短い刀を持った女が立っていた。綿埃と見紛うほどに縮れた長い髪。大きく見開かれたその目が、僕と、動かなくなった更紗をじっと見下ろしている。


「うわああああああああああああああああああ!!」


 僕は絶叫し、そのまま意識を失った。

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