第6話 死神
警察に連行されたとき、たまたまインゲを見かけた警察部長が、およそユダヤ人に見えないインゲの
「お嬢さん、あなたが我々に協力してくれるなら、あなたたちの安全を約束しましょう」
ほかにもこの街にはユダヤ系であることをひた隠しにし、なんとか生きのびているユダヤ人たちが大勢いた。そんな隠れているユダヤ人たちをさがしだし、秘密警察に通報するのが、彼がさししめした条件だった。
どうしてインゲにことわることができたろう。
両親を救いたい気持ちもあるが、なによりインゲは自分の生命と裕福な生活を守りたかった。
(だって、わたしはこんなにも美しいのだもの。収容所へ行くなんて死んでも嫌)
生きるためにはあらゆることをした。毎月、最低ひとりは隠れユダヤ人を通報しないことには、今度はインゲ一家が収容所送りになってしまうのだ。インゲはユダヤ人や反政府活動をしている人間たちに近づき、ときには自分がユダヤ人であることをうちあけ、彼らの信頼を勝ちとり安心させ、情報をさぐりだし、彼らの計画や居所をゲシュタポに報告した。
いつしかベルリンの街に隠れ住むユダヤ人や逃走者たちのあいだで、インゲは「金髪のローレライ」と呼ばれるようになった。
卑劣な密告者、民族の裏切り者、恐るべき死神、同胞を売った魔女。連行されていった不幸な犠牲者たちは彼女を指差してののしった。
彼女のすぐれた美貌がいっそう怖ろしいもののように語られ、ベルリンの気の毒な潜伏者たちを震えあがらせた。
だが、とうとうインゲもあたえられた義務をはたせなくなり、報告できる情報が底をついたとき、警察署長はいともあっさり、インゲ一家の収容所送りの書類をととのえた。
インゲはあきらめなかった。下級役人をたらしこんでゲシュタポの来る時間を聞きだし、それより先に、両親には亡命を手伝ってくれる人がいて、自分は後から追いかけるからと安心させて、駅へおくりだした。
実はそこにはあらかじめ通報して呼びだしておいた警察がはりこんでいるのだ。
警察はインゲたちが一家全員で逃げようとしていると思いこみ追いかけるだろう。そのあいだにインゲは、愛人関係になるおなじ密告者の男性のアパートにしばらくかくまってもらうつもりだった。つまり、インゲは最後に自分の両親を密告したのだ。
(ごめんね、パパ、ママ。……でも、わたしをユダヤ人に生んだあなたたちがいけないのよ)
インゲは頬に涙がながれたのを感じた。
「わたし、まだ人間……よね」
自分にむかってそうつぶやいた瞬間だった。
「さあ、どうだろうね」
ひびいてきた声におどろいてふりむくと、そこには古びた黒い上着を着込んだ、痩せた少年が立っていた。
どこかで見た記憶があるが、誰だったろう。思い出せずインゲは困惑した。
「おや、僕を忘れてしまったのかい? 残念だな」
帽子のしたにゆれる金髪と碧の瞳。たしかに見覚えがある。インゲは真っ青になった。
「……まさか、ヘンゼル?」
「久しぶりだね。やっぱり君は素晴らしい美人になったんだね、インゲ」
ヘンゼルの目には碧の冷気がにじんでいる。
「……おねがい。見逃して。あのときは、ああするしかなかったの。そうしないと、学校だって辞めなきゃならなかったし……。両親を守らないといけなかったの」
「その両親も君は自分のためなら見捨てるんだね。安心おしよ、君はもう逃げることはないんだ。昔のことも恨んでなんかないさ。あのときつかまった連中は、どのみち警察に逮捕されて刑務所か収容所送りになる予定だったんだから。そのつもりで僕が仕事をさせていたんだから」
「あなたも……密告者だったの?」
おどろいて声をたかめたインゲの質問を無視するように彼は言葉をつづけた。
「僕はね、君に仕事をたのみに来たんだ。僕の代わりをしてほしいんだ」
「仕事って?」
「簡単さ。今の君がやっているみたいなことだよ」
ヘンゼルは悲しげに笑って道路を指さし、意味がわからないインゲはとまどった。
次の瞬間、悲鳴をあげた。石畳のうえに影がないのだ。ヘンゼルの影だけでなく、インゲの影も。
「僕はね、昔自分が助かりたくて、妹だけを夜の森に置き去りにして、自分は目印の小石をたよりに家に帰ったんだ。両親はさすがに僕をもう一度捨てようとはしなかった。でも、そのせいか、天国にも地獄にもいけず、ずっとこの仕事をするはめになってしまった」
「し、仕事って、なんなのよ!」
「迷える死者の道案内。またの名は死神さ」
今度こそ恐怖のあまり失神しそうになったインゲにヘンゼルは笑みをむけた。
「じゃ、後をたのむよ。勤めをはたした僕はやっと妹のところへ行けるみたいなんだ」
「あ、あなたの妹って……?」
「グレーテルだよ」
それからも、ずっとベルリンの美しい死神は街をさまようことになった。
金髪のローレライ、インゲと、人は語る。
終わり
ローレライたちの王国 暗黒童話 平坂 静音 @kaorikaori1149
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