第5話 密告
翌日、午後。ローゼンタール通りで僕はヴァイオリンを弾いた。
通行人が足をとめて目と耳を僕にむける。青空の下、陽気なメロディーがひびく。やがて聴衆は増えていく。あんまり人があつまると、警察がやってくるかもしれない。一瞬の危惧のあと、僕はええいままよ、と弦をひいた。
つぎの瞬間、人ごみの向こうから怒声がひびいてきた。
「誰か、そいつを捕まえろ!」
掏りだわ――。前列の女性がとなりの男性にそうささやいた直後、僕はインゲを見た。
淑女らしく背をのばし、スカートの裾をかすかにゆらしながら、僕のローレライがやってきた。
日差しが彼女を照らし僕に知らせた。あわいピンクの唇が、かすかに微笑んだのを。
翌日の新聞にはこんな記事が載っていた。
『掏りグループ逮捕される――。主犯格の若い男がヴァイオリンを演奏しているあいだ、集まった聴衆のふところから財布を盗みだしていた掏り集団が逮捕された。彼らのねらいは金品よりも配給切符であり、ターゲットにされたのは主に買い物中の主婦だった。
警察は主犯格の男を二ヶ月にわたって捜索しつづけ、有力情報をもとに、数人の私服警官を現場に待機させ、五人ほどの掏り犯をつかまえた。彼らはレジスタンス活動のメンバーでもあり、潜伏中の反体制派たちに食料をわけあたえていたらしく、背後には大がかりな亡命組織も存在しており、なかには多数のユダヤ人もふくまれているようである。
なお、「金髪のヘンゼル」と呼ばれていた主犯格の男は現在も逃走中』
インゲは朝食の席でその新聞を読み終えると、ていねいに折りたたんでつぶやいた。
(ごめんね、ヘンゼル……)
「それじゃ、パパ、ママ、きっと向こうで会いましょうね。元気でね」
「ああ、おまえも身体に気をつけて」
旅装の中年の夫婦はたがいに愛娘にわかれのキスをした。彼らの顔には絶望と、かすかな希望がにじんでいた。
「わたしも後からかならず合流するから」
ドアのところで両親を見送ったインゲは、しばらくしてからスーツケースを手にして、瀟洒なアパートを出た。だがめざす方向は両親たちが向かった駅とはべつの道だ。
風がつめたくなりはじめた時季である。落ち葉が道のうえで踊るのを見たインゲは灰空色のコートの襟をよせて身震いした。
寒さだけではなく、こみあげてくる不安が背をこわばらせるのだ。
「わたしは絶対負けないわ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「時代のせいになんかしない。かならず生きのびてみせる」
そのためなら、どんなことでもする。なんでもする。卑怯者と呼ばれようが、密告者と影口をたたかれようが、もうそうやって生きていくしか道はないのだ。
すらりとした姿に金の髪と碧の瞳。閉店直前のショーウィンドゥのガラスにうつった自分を見てインゲはさらに小声でつぶやいた。
「ユダヤ人に生れたのは、わたしのせいじゃないわ。わたしはこんなにもきれいなんだもの。わたしには生きる資格があるわ」
インゲは十三歳のときまで自分がユダヤ人であることを知らなかった。ともに片親がドイツ人の両親は、ユダヤ教もユダヤ人の生活習慣も破棄し、ドイツ人になりきっていたのだ。
政府が大がかりなユダヤ人迫害をおこなったときも、大金をはたいて戸籍を改竄し、一家はなんとか難をのがれてきた。だが、とうとうそれがもと婚約者だった男の密告で暴露され、警察が家にやってきた。
婚約者の一家はその情報とひきかえにアメリカへの移住権をいちはやく獲得したのだ。彼はユダヤ系ではないが、目先の利にさとい実業家だった彼の父親は、今後のドイツの難局を予想し、さっさと祖国に見切りをつけ、安全なアメリカへ一家で移住してしまった。
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