第4話 時代の風

「将来、音楽家になれるわ。いいえ、今だって立派な音楽家よ」

「なんだか……」

 どうしてそんなことを言ってしまったのか、後になって僕はすこし不思議に思ったけれど、そのときはごく自然に言葉が口からこぼれた。

「なあに?」

「インゲ、なんだか君って……かわいそう」

 案の定、インゲはびっくりして目を見開いて、すこし後ずさったかと思うと、奇妙な生き物でも見るように僕を見上げた。

「どうして、わたしがかわいそうなの?」

「ごめん」

「……どうして?」

 白い陶器のような頬に夕焼けが映える。

「ごめん。変なこといって」

 都会の名門私立校にかよう裕福なお嬢さまを、家族も住むところもない放浪者の大道芸人ふぜいが哀れむというのは、たしかに奇妙な話で、言われた方としては腹がたつだろう。

「どうして、わたしがかわいそうなのよ? 教えてよ」

 出会ってからはじめて見るインゲの本気の怒り顔だ。金色の眉をゆがめてインゲが僕につめよってきた。

「その……、なんだか、いつも無理をしているみたいで」

 それは僕といるからかもしれないけれど。

「わたし、無理している?」

 僕はうなずいた。シナモン色の石畳のうえに映ったインゲの影は、うすくて長くて、しょんぼりしているように感じられた。

「なんだか、無理に笑っているように見えるんだ。無理して明るくふるまっているようで。見ている僕の方がつらくなるんだ」

 観客のいない舞台で、ひとりぼっちで最後まで芝居をつづけさせられている売れない女優のようだ。口に出して言うとまた怒りそうなので、心のなかでそっとつけたした。

「そうかもね。わたしって、かわいそうなのかもね」

 インゲは泣き笑いの表情をうかべてから、夕焼け空へ顔をむけた。 

「以前ね、好きだった人がいたの。親同士がふるい友人で、わたしたちも子どものころから仲良しで、将来は一緒にさせたらどうか、なんていう話も両親たちはしていたの」

 良家の子女ならめずらしい話でもない。

「うまくいかなかったのかい?」

「彼は家族と外国へ引っ越してしまったの。婚約の話はなかったことにしてくれって、彼のパパが手紙をおくりつけてきたわ」

「連絡はとってみたの?」

 インゲは首をふった。

「彼はわたしに手紙ひとつくれなかったの。引っ越していく前にも、なにも言ってくれなかったわ」

「みんな大変なんだよ。こんな時代だし」

「時代のせいにするのは、卑怯じゃない?」

 僕は苦く笑ってみせて、内心つぶやいた。

 そんなことを言えるのは、君がまだ本当の不幸や悲しみを見ていないせいだよ。

 僕は故郷の村で行きだおれになった浮浪者や旅人、捨てられた子どもたち、飢えや病で死んだ人をたくさん見てきた。

 皆、生きるために必死になって戦って、争って、もがいて、そうして最後はまとめて〝時代〟ってやつに流されていく。

 いつもこの〝時代〟っていう怪物は、けっして弱い者を見逃してはくれない。

「その人ね、すこしあなたに似ているの。だから最初にあなたを見かけたときから気になってしかたなかったの」

 複雑な心境だ。

「そいつも金髪だったのかい?」

「いいえ。彼は栗色の毛をしていたわ。今ごろ、あたらしい土地で可愛い女の子を追いかけているでしょうね」

 風がぼくらのあいだをとおりぬけていった。

この風は、インゲの愛した人のもとへと、彼女の憂いとともに吹いていくのだろうか。

 将来、彼女がもっと大人になったときには、彼女の想いとともに新しい風が僕のもとへ吹きはこばれてくることがあるだろうか。そのとき、彼女と僕はどこにいるだろう? 

 けっこういろいろ世のなかっていうものを見てきたけれど、それでも明日どうなるのか、未来のことはわからない。

「……キスをして」

 ほら、数秒後のことだって予想つかない。

 僕は背をすこしかがめた。

 茜色の光が僕らのうえにふりそそぐ。もうミモザの季節は終わって、菩提樹ぼだいじゅ緑葉りょくはが石畳に影をおとす。 

 季節は、時は、なんてはやく流れていくんだろう? 

 インゲはじきに純白の制服のブラウスを脱ぎすて少女の時代をふりすてていくだろう。きっと彼女はこの苦しい時代を勇ましく生きぬいていける気がする。

 でも僕は? きっと明日も明後日も、街のどこかでヴァイオリンを弾きならして、通りすがりの人の投げてくれるコインをひろいあつめ、警察の手からのがれるために走る。

 僕だけは永遠に大人になることもできず、青年の群れにも入れない。そんな僕を、いつかインゲは軽蔑の目で見るようになるかも。

 そうなるまで会いつづけることもないかもしれない。もともと、僕らは住む世界がちがい過ぎる。出会ってはいけなかったのだ。

「明日もこの公園に来るの?」

 互いの唇がはなれた瞬間、甘いささやきが僕の耳にひびいた。彼女こそローレライだ。

「いや、明日は公園じゃなくて、ローゼンタール通りへ行くつもりだよ」

 彼女の瞳には僕がうつっていた。ああ、僕は彼女に囚われてしまっている。

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