第3話 囚われのお姫様
その後も、インゲは何度か公園にやってきた。会えたときは、やっぱりうれしい。
「今日は駄目かなと思ったわ」
聴衆が去ってしまってから、彼女はすこし怒ったような顔をして近づいてきた。
「あなたったら、おなじ公園では絶対つづけて演奏しないんだもの」
学校が終わるやいなやすぐ走ってきたのだろう。半袖の制服のブラウスが僕の目をひいた。僕でも知っている名門私立校の制服だ。
「警察に見つかるとやばいんだよ」
帽子のなかに放りこまれたコインを数えてみて、僕は肩をすくめた。ま、仕方ない。今どき大道芸人にコインを投げてくれる人がいるだけでも幸運というものかもしれない。
それでもおなじこの街のどこかでは、今日も一流の楽士と一流の客をあつめた音楽堂で、世界有数の演奏会やオペラがくりひろげられているのだから大都会とは不思議だ。
何回かこっそり建物のなかへしのびこんでみたことがあったけれど、燕尾服やドレスに身をつつんだ紳士淑女が腕をくんで笑いながら赤いカーペットの敷かれた階段をあがっていくという夢物語のような場面が現実にあるとは、この目で見るまで信じられなかった。
演奏が終われば彼らは高級酒片手に「今日のワーグナーは格別だったな」、などとクラシック談議に花を咲かすのだろう。うらやましいというより、あまりの差にあきれた。
「わたし、すこしぐらいならお小遣いがあるけれど」
「いいんだよ」
僕はあわてて首をふった。
「第一、今日は君すこしも僕の音楽を聞いてないじゃないか。それにね……、コインよりも一番欲しいのは、実は配給切符なんだよ」
僕は力なくうちあけた。それは今の時代、この街に生きる僕のような最下層の貧乏人が喉から手が出るほど切実に欲しいものだ。
「配給切符は、無理ね」
髪とおなじ
「今度はどこで演奏するの?」
「言ったろう? 内緒なんだよ」
インゲはちょっと悔しそうに唇を噛んだ。
「今度会うときは、秋になってしまうかも」
「かもね」
「……ねぇ、ふつう、男の子の方が苦労して女の子に会いにくるものじゃない?」
「そんなお話があったね。『ラプンツェル』だったかな? 魔女にとらわれた女の子に会うために、王子さまが女の子の垂らした長い髪をよじのぼっていく話だったね」
「そうよ。ふつうは、男の子の方が女の子に会うために苦労するものよ。わたし、この一ヶ月、毎日学校が終わると、街の公園をまわっているのに、いつもすれちがいで、ずっと会えなかったのよ」
つんと胸をそらして彼女は拗ねた。
僕だって、けっしてインゲと会いたくないわけじゃないけれど、やっぱり警察につかまると厄介なことになるので、しょっちゅう場所を変えているのだ。
それに……僕はインゲと会うのを、心のどこかで恐れていた。会えば、会うほど、きっとインゲを好きになってしまう。
インゲを好きになってしまったら、つらい結果が僕らを待ちうけているのが、僕には今から目に見えるようにわかるのだ。
「あのお話と、ぼくらはちょっとちがうね。あのお話では女の子は赤ん坊のときに魔女にさらわれたふつうの娘だけれど、君はお姫さま。それに僕は王子さまじゃなくて、ただのゆきずりの大道芸人」
お姫さまの相手は王子さまでないと。僕は王子さまにはなれないんだ。言わんとするところがわかったのか、インゲは悔しげに噛んだ唇を、今度はちょっと悲しげに噛みなおした。大人の女性のような仕草だ。
最初に会ったころより、インゲはなんだか大人っぽくなった気がする。もしかして、彼女の季節をせかしているのは僕の存在なのだろうか?
心のなかで自分に問うと、すまなさとうれしさが同時にわきあがってきて、僕をいたたまれなくもすれば、ほんのすこし幸せにもする。
「王子さまと結婚する百姓娘だっているんだから、その逆だってあるんじゃない?」
僕の季節もひとつめぐる。苦く笑った。
そうだね。世界のどこかの街ならそんな夢物語が起こりえるかもしれない。けれど、今のこの街ではけっして起こらないんだよ。
インゲは湿ってきたムードを変えたくなったのだろう、あえて陽気に笑ってみせた。
「ね、今日はどんな曲を弾いたの?」
「僕のオリジナルだよ。クラシックは好きじゃないんだ。故郷の音楽はちょっと悲しいんで、あまり弾かないんだ」
「あなた、作曲もするのね」
「すこしだけね」
エメラルドの瞳にちらつく崇拝の光が僕をあわてさせた。
「たいしたもんじゃないさ」
「ううん! たいしたものよ。だって、あなたがヴァイオリンを弾きはじめると、こんな小さな公園にだって人があつまってくるんだもの。あなたのヴィアオリンは人の心をひきよせるなにかをもっているのよ」
「そうかな? だったら、いいんだけれど」
インゲの言葉こそ、どんな天才的な奏者や作曲家がつくりだす音律よりも素晴らしいメロディーとなって僕の耳と心にひびいてくる。
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