第2話 碧の瞳

 一見、勝気な雰囲気なのに、そうやっておずおずと上目遣いにたずねてくる彼女の様子がひどく気弱そうに見えて僕は微笑んだ。

「昔はいたよ。僕は田舎生まれでね。君なんかが想像もつかない山のなかで、両親と妹と暮らしていたんだ」

「今は、いないの?」

 夕暮れに消えていきそうなほど小さな声だった。僕は肩をすくめた。

「死んじまったよ。最初に妹が亡くなって、両親も、つきなみな言い方だけれどあとを追うように流行り病であっけなく」

「……そうなの。お気の毒に」

「べつに。今どきめずらしい話じゃないだろう?」

 死はけっして特別な悲劇じゃない。

 田舎でも都会でも貧しさや病苦のために死ぬ人間はおおい。

 長い不況に追いつめられた人々は生まれた土地を捨てて都会へ流れたり外国へ移住したりして、どうにか不幸からのがれようとするのだが、そこでも新たに恐慌や争いが待ちうけて彼らを追いつめる。

 田舎にいたとき、僕はいつも思っていた。

 いつか大きな街に出て、好きな歌をうたってヴァイオリンを弾いて、楽しく暮らしたい、と。

 流れ者の楽師が一夜の宿代のかわりにくれたヴァイオリンは、僻地では素晴らしい財宝だった。彼はすこしだけ弾き方も教えてくれて、筋がいいと誉めてくれた。妹が眠りにつくまで、よくせがまれて弾いてやった。その妹は、今ではきっと天国で美しい音色につつまれ幸せにまどろんでいることだろう。

「それで一人になったあなたは、この街に出てきたのね?」

「生きてるだけ僕は運が良かったんだ」 

「……わたしもすこしフルートを弾くのよ」

 しのびよる夕闇をふりはらうように、わざとらしくインゲは陽気な声を出した。

「へえ」

「ほんとうはね」

 きっと彼女は自分の一番のチャームポイントを心得ているんだろう、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳をきらめかせてささやいた。

「ジャズもけっこう好きなの。そっちを専門的にやりたかったんだけれど、パパがみとめてくれなくて諦めたのよ。家ではジャズの話もできないのよ。つまらないわ」 

「今でもジャズが好きなの?」

「ううん。今はもう音楽はあきらめているの。わたしには音楽で身をたてるのは無理だってわかったし、これからの時代、音楽なんてやっても意味がないし」

 うつむいた瞬間、彼女の碧の瞳にさしこんだ影が、目の色を、こんどは憂いの神秘的なエルムグリーンに変える。女の子というものは、光も影も化粧道具にしてしまうのだからすごい。

 そしてじゃじゃ馬から初々しい乙女、油断のならない魔女から囚われの姫君のように一日に何枚もの仮面をつけかえる。

 見ている方には、どれが本当の顔なのか、わからなくなってしまう。家族と住んでいたとき、妹がこんなふうだった。

「なんだか君、僕の妹と似てる」 

「きっと妹さんは美人だったんでしょうね」

「ああ、まあね」

 苦笑しつつも、賛同した。妹はたしかにあのまま健やかに成長していたら、インゲと劣ると優らずの美少女になっていたろう。

「……わたし、もう帰らないといけないわ。さようなら」

「ああ、さようなら。また来るかい?」

 答えるかわりにインゲは微笑んだ。


 この後もずっとお互い姓は名乗らず、僕の住んでいる所も、インゲの学校のこともいっさいしゃべらず、訊くこともなかった。

 彼女が裕福な学生だろうが、僕が貧乏芸人であろうが、そんなことは春の夕暮れではなにひとつ意味がなく、小さな公園で、インゲは塔からおりてきた姫君で、僕は放浪の吟遊詩人だった。

 それは、あのとてつもないどす黒い嵐が吹き荒れるまえの時代の出会いであり、水飴のようにやわらかな風が街をやさしく撫であげていった、まだ幸せな季節だった。 


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