ローレライたちの王国 暗黒童話

平坂 静音

第1話 ミモザの木の下で

「ローレライって、あなたのこと?」

 甘くとろける蜂蜜のような声でたずねられた僕は、びっくりして声の主をふりかえった。

 そこには、ぱっちりした碧色の瞳をきらきら輝かせた少女が立っていた。

 ミモザの木が鬱金うこん色の綿毛のような花をあたりに散らす黄昏どきの公園、人気が失せた灰色の石畳のうえには、彼女の影がうすく浮かびあがっている。

「その呼び名はあんまり好きじゃないな」

 商売道具のヴァイオリンを、古ぼけたケースにしまいながら僕はむっつりしてみせた。

「あら、そうなの? でも評判よ。アレクサンダー広場のローレライ、金髪のヘンゼルって。わたし、何度もアレクサンダー広場へ行ってみたんだけれど最近見かけなくて心配していたのよ。こんなご時勢だから、もう大道芸人なんていなくなってしまったのかしらって、悲しく思っていたの」

「ご時勢? 大人っぽい言い方をするね」

「あら、こう見えて、わたしもう十六よ」

 笑うと白い肌がかがやく。純白の薔薇がひとあしさきに季節をかけぬけて、満開になったような笑みだ。

「もう一度あなたのヴァイオリンを聞きたいと思っていたら、ちょうど学校の友だちが、最近この公園であなたらしき人がヴァイオリンを弾いているって教えてくれたの。今日、学校が終わってから大急ぎでやってきたのよ。そうしたら、やっぱりあなたなんで、びっくりして。うれしかった。ああ、わたしのローレライがいたわ」

 〝わたしのローレライ〟と言われて、僕はすこし熱くなった頬をかくすように、茶色の帽子をふかくかぶった。こんな、子どもの言葉を妙に意識している自分が恥ずかしい。

「だから、そのローレライっていうのはやめてくれないかな? 金髪のヘンゼルっていうのは事実だからいいんだけれど、ローレライっていう仇名は好きじゃないんだ」

「どうして? 素敵じゃない」

「その仇名が流行ったせいでアレクサンダー広場へは行けなくなったんだよ。いったい誰がそんな名前で呼びはじめたんだろう?」

「さあ、誰かしらね?」

 少女が首をかしげて微笑むと、白いブラウスとカーディガンに金の巻き毛がふれて、天使のように清純で可憐に見える。焦げ茶色のスカートからのびる足をバレリーナのように後ろへのばして、ブーツの踵で石畳をかるくなぞったりする様子が、女学生らしく小粋で洗練された雰囲気を彼女にあたえている。いかにも都会の裕福なお嬢さんだ。

 一方、僕はといえば、よれよれの帽子におなじくぼろい黒靴、シャツもズボンもこれ一着の着たきり雀で垢じみている。ヴァイオリンのケースも中身も、持ち主とたがわずぼろくて貧乏くさい。おまけに田舎生まれでいまだに言葉はかすかになまっている。

 けれど、僕がその古ぼけた年代ものの楽器をとりだし、ひとたび弦をあやつるや、そこに小さな奇跡が起こることは、この街の住人で、ちょっとでも音楽に興味のある人なら誰もが知っている。

 不本意だが、アレクサンダー広場のローレライ、金髪のヘンゼルの名は、最近では都市伝説となりつつあるという。

「ローレライって、ロマンティックで好きよ、わたし」

「縁起悪いじゃないか」

 僕は憮然としてみせた。

 ローレライ。

 ライン川の岩山にひそむ魔女。美しい声とすがたで船頭や船客をまどわし水底にさそいこむ悪しき精霊。

 人魚やギリシャ神話のセイレーンにも通じるものがあり、詩や歌や芝居、絵画の素材として、おおくの芸術家やロマンチストたちの胸をさわがせてきた伝説の妖女の印象は、とても麗わしいけれども、魅入られた者にかならず破滅をもたらすところが不吉で怖ろしい。

 いくらきれいでも、そんなイメージをかさねられると僕としては不愉快だし、今後の活動にも支障をきたす。

「もう広場では弾かないの?」

「最近は警察がうるさいからね。最後に弾いたときには、ちょっとした騒ぎになってしまったし……。もうあんまりにぎやかなところでは弾かないことにしたんだ」

「ふうん」

 すこし不満そうに彼女は唇をとがらせた。

「まだ自己紹介してなかったわね。わたし、インゲ」

「あらためて名乗るよ。僕はヘンゼル」

「音楽が好きなのね」

「僕にとってはヴァイオリンがゆいいつの家族で友だちなんだ」

「家族は、いないの……?」

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