第3話 残り15cm
――燃えている。俺のアパートが燃えているのだ。俺の部屋も、ベッドも、テレビも、全て燃えてしまっている……。
彼は、燃え盛る建物の前で、ただ立ち尽くしていた。アパートが全焼したのだ。
アヴニールで”距離”を売ったその日、五十万円もの大金を手に入れた隆真は、ひどく酔った状態で自分の部屋に帰ってきた。とにかく眠かったが、それでも煙草を一本だけ吸った。これは彼の習慣なので、仕方がないことだ。そして、そのまま眠りについたのである。それから暫くして、彼は、顔に異常な熱を感じて目を覚ました。慌てて飛び起きると、部屋は炎で包まれていた。ベッド脇に置いた灰皿から出火したらしい。必死に消そうとしたが、炎はすでにカーテンから天井へと燃え移り、手に負えるものではなくなっていた。どうしようもなくなり、彼は部屋を飛び出した。
なんとか持ち出せたのは、いつものカバンと、財布、携帯電話だけだった。傘は持ち出せなかった。というより、部屋にあったのかさえよく思い出せない。どこかで置き忘れてきたのか、数日前から無くなっていたような気がした。
それから、数日が経った。住居を失った隆真は、現在、駅前のビジネスホテルの一室を借りている。幸い、あの火災で死者は出なかったものの、隆真は火災の原因の当事者として、多額の賠償責任を負った。大家に対するものだけでも、数百万円もの負債を負ってしまったのだ。さらに、まだ額は決まっていないが、隣家や他の居住者への賠償もしなければならないらしい。とんでもない話だった。
また、不幸はさらに続く。この火災の一連の処理に追われた結果、彼は仕事を無断欠勤してしまった。これで職場での信頼は完全に失墜。日頃の勤務態度もあまり評価されておらず、あえなくクビを宣告されることとなってしまったのだ。最後の給料も、火災で焼失した制服代などを控除された結果、雀の涙ほどの額しか支給されなかった。
しかし、彼にとっては幸運なことに、持ち出せた財布の中には、まだ数十万円がそっくり残っていた。”距離”を売った金の残りである。だが、それも、数日ホテル暮らしをするうちに、もう残りわずかな額となってしまっていた。
さて、新たに部屋を借りるにも、資金は必要だ。彼はもう一度、アヴニールへ立ち寄ることにした。
店に入ると、いつものように彩実が出迎えてくれた。隆真は、ゆっくりとカウンターに歩を進め、話を切り出した。
「あの、ごめん、買取……」
「はーい、どれにします?」
彩実は、変わらず快活に受け答えしてくれる。一方、これから売るものの後ろめたさのせいか、隆真は歯切れが悪い様子である。
「とりあえず、”親”を……」
彩実は表情を変えることなく、笑顔で「はいっ」と一言だけ応えて端末を弄りだした。しばらくすると、すまなそうにその額を提示した。
「あー、すいません。前回より価値下がっちゃいました。入枝さんの”親”は四十万円になってます」
「えっ」
「すいません。買い手市場なんですよ。この頁は特に」
まあ、すでに居なくてもいいような親だ。四十万円なら御の字だろう。しかし、まだ心もとない。もう百万、いや、二百万は貰っておきたいところだな。そう考え、隆真は口を開いた。
「じゃあ、それでもいいです。あと……」
次の言葉を口にしようとしたとき、不意に不安が彼を襲った。火事のことを思い出したのだ。あの5cmの”距離”を売った日の夜、あの火災に見舞われた。何か関係があったのではないだろうか? 一瞬、そんな突拍子もない考えが頭を過ぎった。
いや、しかしそんなことはありえるだろうか? 今や、背に腹は代えられない。彼には、あらゆる不安を払拭するだけの十分な資金が必要だった。
「”距離”、売ります!」
「わ、ありがとうございます」
彩実の目が、ぱっと輝いた。
「とりあえず、20cm、売ります」
これで”親”を売った分と合わせて、二百四十万円。新居を借りて、再出発するには、十分すぎる額だ。すると、彩実が端末を弄りながら「あ」と呟いた。そして、眉毛をハの字にして、口を開いた。
「すいません、入枝さんの”距離”、残り15cmしかないみたいです」
「え、そうなの?」
「こればかりは個人差があるので、申し訳ないです」
距離に限りがあるとは想定外だった。一体何の距離なのか、まったく分からないのがまた不安ではあったが、それでも、15cmなら百五十万円になる。今の彼には、答えはひとつしかなかった。
「じゃあ、15cmでいいや。お願いします」
隆真は、雑居ビルから外へ出た。カバンの中には、百九十万円。これを元手にすれば、何とかなるはずだ。光が見えた気がした。その時だった。
突然、見知らぬ男が駆け寄ってきた。隆真が気付くよりも早く、その男は隆真のカバンをひったくったのだ。そして、脱兎の如く、その場から走り去った。
ひったくりだ! 隆真がそう思った時には、もうその背中は遥か彼方。カバンの中には、百九十万円と、財布と、携帯電話が入っていた。今、彼が持つ全てが、あのカバンに入っていたのだ。
数時間後、隆真は、憔悴しきった様子で、再び店の入り口をくぐった。結局、ひったくりを捕らえることはできなかった。交番に駆け込んだが、隆真が住所不定ということを知っただけで、警官のやる気が削がれたのが見て取れた。ひどいことに、すべて虚言であると疑われたのだ。被害が百九十万円ともあれば、なおさら信憑性が無い。仕方なく実家に電話をしてもらったが、それも繋がらなかった。
全て失った隆真は、またこの店に頼る他なかった。鳥の声と、店員の声がやさしく出迎える。彩実は、隆真に気付くと、先刻同様、明るく応対した。
「あ、またいらしたんですね。こんばんわー」
「買取を……」
「はい、会員証を預かりますね」
「えと、財布、盗られちゃって、会員証は……」
「あら」
彩実の目が丸くなった。
「再発行してもらっていいかな?」
「えー、とぉ……」
彩実の表情が、明らかに曇った。笑顔ではあったが、これまでとは異なり、それが作った表情であることは隆真にも読み取れた。
「その、会員証も無くされた、ってことですよね?」
隆真が頷くと、突然、彩実の表情から笑みが消えた。そして、冷静に、淡々とした口調で語りだした。
「申し訳ありません。会員証を無くされたお客様とは、もうお取引できません」
「えっ」
隆真は、耳を疑った。そして困惑した。その言葉の内容にも、彩実の突然の変化にも。「なんで」「どうして」と何度も繰り返した。
「何か買い取ってもらわないと困る! もうどうしようもないんだ!」
彩実は、黙って首を振った。隆真は、必死に訴えた。
「服はまだ売ってないぞ。靴もだ。その金で、なんとかなるかもしれないんだ」
彩実は、隆真を見据えると、強く「いいえ」と言い放った。さらに続けた。
「入枝さん、残念ですけど、もう貴方から買い取るものは何もないんです」
そして、端末を手に取り、それを操作しながら話を進めた。
「確認ですけど、傘も、カバンも、携帯電話も無くされましたよね?」
「なんでそれを」
「ご両親とも音信不通です。違いますか? もっとも、まだ売られたばかりなので、お気づきになられてないかもしれませんが」
隆真は絶句した。なぜそれを知っているのか。この女、一体何者なのか。
混乱する隆真を他所に、彩実は、一度深く溜息を吐いた。そして、続けた。
「入枝さんが、これまで売ってきたものですよ?」
「いや、でも……」
「全て、入枝さんが、ご自身の意思で手放したんです」
隆真の中で全て繋がった。ひとつを除いて。
「じゃあ、”距離”は!? ”距離”はどういうことなんだよ!?!?」
「もう5cmを失っておられるので、ご理解されてるはずです」
「意味が分からない……。なんだよ、5cm……?」
彩実の目の冷たさが増した。彼女は、面倒くさそうに髪をかき上げ、端末を操作する。「特別に教えますけど」と呟くと、その画面に表示されたであろう文言を読み上げた。
「”灰皿と吸殻の距離”だそうです。何か、心当たりありますか?」
隆真の頭の中で、あの夜がフラッシュバックした。燃え盛る部屋から逃げ出す時、確かに目の端で見ていたのだ。燃え盛る炎の大元を。
思い返すと、そこは灰皿のあった場所ではなかった。その時点で、灰皿はまだ炎に包まれていなかったのだ。その時激しく燃えていたのは、陶器製の灰皿の、5cm隣。――確か、あそこにあったのは、読み飽きて放り投げた週刊誌だった気がする。記憶は無いが、あそこに吸殻を置いたのだ。灰皿の5cm隣だ。そうに違いない。
彼は確信した。あの5cmだったのだ。あの5cmを手放したのだ。だとすると、”距離”とは何だ? 何の”距離”なんだ……?
そこで彼は気付いた。すでに俺は15cmも手放している。そして青ざめた。膝が震えた。そして、蚊の鳴くような声で、彩実に問いかけた。
「じゃあ、15cmは……?」
「それは、まだお支払いされてないので、私の口からはなんとも……」
「なんだそれ! 15cmって何だ!? 何の”距離”だ!!」
「申し上げられません」
「服だ! 服を売る! その金で買い戻すよ、”距離”を!!」
「残念ですが、売るものが無くなった時点で、”会員証”を喪失する仕組みになっております。入枝さんの持ち物には、もう買い手はおりません」
そう言うと、彩実の姿が煙のように消えた。忽然と消えたのだ。隆真は、慌てて部屋の中を見渡した。店の外も探してみた。しかし、彼女の姿はどこにもない。店の入り口の外で、隆真は呆然と立ち尽くした。すると、店の照明がフッと消えた。薄暗い雑居ビルの通路だけがそこに残った。
どれだけ時が経っただろうか。隆真は、暗闇に包まれた雑居ビルの通路の奥に立ち尽くしたまま、必死に頭の中を整理した。そして、ようやくひとつの答えを導き出した。
「そうだ、”会員証”だ。あれを取り戻せばいいんだ。確か、財布に入ってる。財布、財布を探さないと……」
そう呟きながら、隆真はビルの通路から飛び出した。あのひったくりが、きっとどこかに財布を捨てていったはずだ。金は諦めよう。だが、あの会員証さえあれば、まだ何とかなる。あれが最後の頼みの綱なのだ。ひったくりも、まさか財布から会員証まで抜き取ってはいまい。そう信じよう。いや、そう信じるしかないのだ――。
やがて、日が変わった。街中を駆けずり回ったが、どこを探しても財布は見つからなかった。空が白み始めてきた頃、隆真は精魂尽き果て、トボトボと路地を歩いていた。すると、正面から強い光が迫ってきた。新聞配達だろうか。スクーターのヘッドライトだった。危うくぶつかりかけたが、隆真はうまく身を翻して、道の脇へと避難した。だが、それが良くなかった。
彼は側溝に左足を取られた。側溝の深さ、15cm。バランスを崩して、倒れこむ。そして、そのまま受け身を取る間もなく、彼の頭はアスファルトへと打ち付けられた。
恐ろしく深い衝撃音が、彼の頭蓋から奥まで響き渡る。
目の前が、真っ暗になった。
アヴニール 阿山ナガレ @ayama70
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