第2話 最後のページ
「いや、しかし……、千円くらいは……」
そう呟き、祈るような気持ちで、枕元に置いた財布に手を伸ばした。中を開いてみると、札入れに残っていたのは一枚のレシートだけだった。溜息が出た。隆真は、それを取り出し、黒インクで書かれた無機質な文字列を眺めた。『ビール』『菓子』『弁当』『週刊誌』といった商品名の羅列を、上から順に眺めていき、最後に書かれた『計 3,118円』の行を見て、その紙切れを、財布と一緒にベッドの下へ放り投げた。そして、さらに深く溜息を吐き、ベッド横の床の上に雑然と置かれた、空の弁当容器、ビールの缶、開かれたままの週刊誌を、恨めしそうに一瞥した。
「くそう!」
一声上げると、隆真は枕に顔を埋めて、さらに後悔を深めた。まったく馬鹿なことをしたものだ、と己を責める。昨夜は、あれからタクシーを拾い、千円余りの運賃で自宅のアパートの前まで辿り着くことができたのだ。そこまでは良かった。しかし、彼はアパートの
彼は、枕に顔を埋めたまま、ベッド下をまさぐり、もう一度財布を手に取った。今度は小銭入れのファスナーを開いてみる。五百円玉がひとつ目に入った。昨夜の四十七円よりはまだマシであるが、これが彼の全財産であることに、依然として変わりはない。次の給料日まで、まだ十日余りある。彼は今日三度目の溜息を吐き、ゆっくりと身体を起こした。残った酒が、頭痛となって彼を襲う。眉間にしわを寄せながら、携帯電話を手に取った。時刻表示は、午後一時二十分。四度目の溜息を吐いて、彼はうなだれた。
午後四時を少し過ぎたころ、隆真は再び駅前へと訪れた。運賃三百三十円を支払ったため、財布の中身は残金二百円を切っている。隆真は、目的の場所へと歩を進めた。昨日見つけた、あの店、『アヴニール』を探すのだ。
昨夜は酔っていたため、記憶が曖昧だ。だが、そう広くはない歓楽街。彷徨いながらも、十五分ほどで昨夜の場所を発見することができた。入店すると、鳥の声のチャイムが響き、店員の「いらっしゃいませ」の声がした。店員は、昨夜と同じ女性、
隆真の顔を見て、「あっ」と彩実の表情が
「こんにちは。また買取ですか?」
彩実が笑顔で問いかけた。隆真は、若干バツが悪そうに顔を掻いた。
「あー、うん……」
目線が、店内を一回りした。やはり何もない店だ。逆に、ここで物を買うときはどうすればいいのだろうか? あの分厚い本で注文するのだろうか? と、疑問に思ったものの、
「カバン、売りたいんだけどー」
そう言って、会員証と、愛用のショルダーバッグとを提示した。
彩実は、笑顔でそれを受け取り、「少々お待ちくださいねー」と一言断ると、カウンター下から取り出した
「えと、入枝さんのカバン、五千円ですね!」
隆真にとっては、やや期待外れの額だった。昨夜は、元値百円のビニール傘が五千円で売れたのだ。今回は量販店で二千円程で買ったカバンである。百円の傘よりは高く評価されるものとばかり考えていたので、また元値を上回ったとはいえ、喜びの感情よりも落胆が先に訪れた。
「五千かー。もう少し乗せられないかな?」
試しに、愛想笑いを浮かべながら、彩実に交渉してみた。しかし、彩実は「うちのシステムだと、この金額しか出せないです」の一点張りだ。隆真は、仕方なくその金額で了承した。金を受け取り、カバンを手渡そうとしたのだが、今回も断られた。前回の傘同様、このカバンも自分で持っていて良いのだ。
さて、五千円は手に入れたものの、次の給料日までまだ十日もある。五千円ではやや心もとなく感じた彼は、他に売れるものが無いかと懐を探った。持っていたのは、タバコと財布、自宅の鍵と携帯電話だけだった。どれも手放せない物ばかりだ。
だが、ここでふと思った。この店は、どういう訳か、売った品物を渡さなくていいらしい。では、これらを売ったとしても、俺の生活になんら支障は出ないのではないか? そこで、彼は一か八か、さらに取引を持ち掛けてみることにした。
「あ、このスマホと財布だと、どうかな」
財布と携帯電話を取り出し、カウンターの上に置いた。査定は、二つで三万円だった。即OKし、彼の元にはさらに三万円が支払われた。これでしばらくは大丈夫だ。いや、大丈夫どころか、何度か夜遊びできるほどに懐が潤った。彼は満面の笑みを浮かべて、財布と携帯電話をカバンへ放り込んだ。
彩実に礼を言い、軽い足取りで店の出口へ向かった彼だったが、ここで少しばかり不安に襲われた。そこで、一度振り返って、彩実に確認した。
「えーと、今売ったスマホとかカバンとかも、俺が持ってていいんだよね?」
「もちろんですよ。大事にしててくださいね」
彩実は笑顔でそう答え、明るい声で見送ってくれた。
さて、予想外に三万もの金が手に入った隆真である。そして、ここは歓楽街。時刻は午後五時を回ろうというところで、街の居酒屋は次々と灯りを点し始めた。酒好きの彼にとって、この状況から真っすぐ帰宅するなんて選択肢は、まずあり得ないことだ。手近な居酒屋へと入り、一杯五百円のビールを注文する。金はいくらでもあるのだ。
三日後、休日を貰えた隆真は、
この日、隆真は手ぶらだった。この店の妙なシステムなら、たとえ現物が無くても物を売れるのではないか、と考えたのもあるし、下手に財布やカバンを持ち込んだら、それを渡すよう要求されるかもしれない、と考えたのもあった。事前に全部を駅のロッカーに押し込んでからここに来たのだ。既に売ってしまった物とはいえ、まだ使えるのなら、使えるだけ使いたい、というケチな考えである。
分厚い表紙の本をペラペラと捲っていくと、10
ここで隆真は、ふと思いつき、彩実に話しかけた。
「えーと、この、”兄弟”を売りたいんだけど……」
彩実は「えーと、兄弟、兄弟、と」とブツブツ呟きながら、手元の端末を操作していたが、やがてその手が止まり、小首を傾げながら言った。
「あー、すいません。入枝さんの兄弟、ちょっと、うちじゃ買い取れないです」
それを聞いて、隆真は慌てた。
「あっ、それならいいんだ。ごめんね」
隆真に兄弟はいない。生まれた時から今まで一人っ子である。もし、存在しない物が高値で売れれば丸儲けだ、という狡い発想だったのだが、どうやらそういうことはできない仕組みらしい。無いものは売れないのだ。隆真は、そんな悪巧みを彩実に看過されたような気がして、赤面した。そして、場を取り繕う意図も兼ね、すぐ横の項目について質問した。
「じゃ、じゃあ、この”親”だと、どうかな?」
答えはすぐに返ってきた。
「”親”ならOKですよ! 五十万円です!」
その高額に驚いた隆真だったが、やはり親だとそれ相応の値段なのだな、と逆に納得した。しかし、給料日までの一週間さえ乗り切れればいいのだ。五十万では多すぎるし、この場合、後から両親の元へ五十万円の請求が行くのではないだろうか、とも思えた。実は、隆真は数年前、親と口論の結果、勘当同然で家を追い出されており、以来、連絡も取っていない。口うるさいだけの両親とは、なるべくなら関わり合いになりたくないのだ。ここは断ることにした。
「あー、やっぱいいや」
「すいません。安かったですか?」
彩実が済まなそうに尋ねた。眉毛がハの字になっていて、少し微笑ましかった。隆真は笑みを浮かべて弁解した。
「い、いや、逆だよ。欲しい金額には、ちょっと多すぎてさ」
すると、彩実は端末の画面を見せながら言った。
「金額から指定もできますよ? いくらご用立てしましょ?」
画面の片隅に、『金額指定』の文字が見えた。なるほど、そんな機能があったのか。と隆真は感心した。
「じゃあ、二万くらいでいいんだけど」と隆真は指定した。すると、彩実はすぐに返答した。
「”信頼”が二万五千円ですね! どうします?」
”信頼”とは、また不思議なものを提示されたものだ。よく分からないが、隆真には友人も居なければ、恋人もいない。家族とも疎遠である。信頼すべき相手などいないのだ。ならば、これは売ってしまっても構わないのではないか、とも思えた。
そうして、二万五千円が、隆真の元へ支払われた。隆真は、受け取った金を二つ折りにしながら、ふと思った。
(思えば、この三日間で、俺は三万円近く遣っている。四日前のも含めれば、五万円近い。給料日まで、あと一週間だ。二万五千円で、本当に足りるのか……?)
金をポケットに押し込みながら、他にも売れそうなものがないかと、もう一度パラパラと本を捲ってみた。すると、本がパタン、と音を立てて一気に
”距離 買取金額 1cm=10万円”
「あれ?」と思わず声が出た。他の
「最後の
「あー、”距離”ですね。1cm、10万円で買い取ります」
彼女は笑顔でそう言った。意味を把握しきれない隆真が、呆気に取られていると、さらに彼女は続けた。
「うちらが売るときは、三倍になりますけどね。つまり、1cm、30万円でお売りしてます」
「高っ」
思わず反応した。彩実はさらに続ける。
「でも、買う人、意外と多いですよ。”距離”はいつも不足してるんで、うちも高値買取してるんです。どうですか? ”距離”、売ってみませんか?」
いまいち、話が把握できない。そもそも、”距離”を売るとはどういうことなのか? そこから聞かなければならなかったが、彩実は、まるで機関銃のように話し続ける。
「なんと! ”距離”は他の商品と違って、残っている限り、何度でも取引できるんです! 便利ですよ!」
そういえば、いつかそんなことを聞いた気がする。まだ理解できないが、彼にとって肝心なことは一つだけだ。
「その、便利ってのはよく分からないけど、俺でも売れる?」
”距離”が何のことかはよく分からないが、この店ではそんなことを気にしても仕方ないのだろう。買い取ったものを回収しないところからも、そのいい加減な経営姿勢が見て取れる。どうせ、その”距離”とやらも、今すぐ取られるようなことはないのだ。たとえ取られたとしても、”距離”なんてどうやって取るというのだ。それに、何かしらの距離が1cm程度変わろうと、どうなるということでもなかろう。
彩実は、端末を触りもせずに、即答した。
「もちろん、入枝さんの”距離”も売れますよ?」
隆真は、少しだけ考えるふりをしたが。すでに腹の中は決まっている。
「売っちゃおうかな」
彩実は両手を胸の前で合わせて飛び跳ねた。
「わあ、ありがとうございます」
「じゃ、とりあえず、1cm――」
「――あ! ごめんなさい!」
隆真が言うや否や、彩実が慌てて静止した。突然のことに、隆真は驚愕した。
「売るときは5cm単位なんですよ。説明不足でした。本当にすいません!」
よく分からないが、そういうことらしい。まあ、1cmが5cmになったところで、大したこともないだろう。隆真はそう判断し、笑顔で応えた。
「いいよ、いいよ。じゃあ5cm売るね」
「ありがとうございます! すぐ手続きしますね!」
彼女はより一層明るい声になった。
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