アヴニール

阿山ナガレ

第1話 アヴニールへようこそ

 ――終電が、行ってしまった。


 隆真りゅうまは呟いた。そして、ひとしきり後悔した。帰りの電車賃のことなど、まったく思慮の外だったのだ。一駅分の運賃三百三十円。そんな僅かな額ですら、彼の財布には荷が勝ちすぎたのである。静かに降る雨の中で、彼は一度だけ大きく深呼吸した。そして、これまでの己の行動をゆっくりと思い起こした。


 午後六時、彼はこの駅前ロータリーに立っていた。懐には一枚の万札と、いくつかの千円札の入った財布(二十五歳の若者としては情けない話ではあるが、これでも彼にとっては全財産であった)。この時の彼の心中は、まさに飛び立つばかり。悪夢の六連続勤務を乗り切り、明日は待ちに待った休日である。この一週間で溜まりに溜まった鬱憤うっぷんを晴らすべく、今宵は鯨飲げいいんせんとばかりに、駅前繁華街へと繰り出していったのだ。

 そして、六時間が経過した。一体何軒の居酒屋を渡り歩いたのだろうか。酔いが深まると共に梯子酒はしござけは進み、ふと気付けば、財布の札入れはまったくの空っぽ。小銭入れには僅かな金額が残されただけ、と相成った次第である。

 

 後悔先に立たず。そんな格言が思い起こされた。彼は己の愚かさを呪った。

 ――四十七円。それが彼に残された全財産である。そして、黒の上着ジャケット、ベージュのTシャツに、着古したデニム、使い古した型落ちの携帯電話スマートフォン、茶色いスウェードの靴、合成革で出来たショルダーバッグと、安っぽいビニール傘が、彼の持つ全てである。さらに、煙草一箱とライター一本も加えておこう。

 雨は止む気配が無い。隆真は、駅の軒先で、つい先ほど購入したばかりの煙草の箱を開封し、一本取り出して火を付けた。

 やがて一本の煙草を吸い終わる頃、駅の構内は閉鎖された。さて、このまま軒先に立ち続けるのは大変だ。この夜雨をしのげる場所はどこかに無いだろうか。隆真はふらふらと、まばらに明かりの残る繁華街へ向かって歩き出した。


 ふと、立ち止まった。とある雑居ビルが目に入ったのである。

 飲み屋の看板がきらきらと光る街の中、それはひっそりと隠れるように佇んでいた。明かりの消えた看板から推測するに、テナントとして飲食店が数軒入っているようだ。だが、まだ夜を彩っている周りの建物に逆らうかのように、そのビルからは一切の光が出ていないのである。隆真は、しばしその暗がりを見つめていたが、やがて、ふらつく足でその入口へ進んでいった。


 一階の通路にはカギがかかっておらず、入るのは容易だった。屋内は静かで、畳んだ傘から水が滴り落ちる音が聞こえるようだった。幸いにも、床は濡れておらず、これなら人目を気にすることなく、朝まで横になることができるだろう。朝には雨も止む。ひと眠りしてから、ゆっくりと朝日の中を散歩がてら帰宅すればいい。そう隆真は考えた。楽観的な姿勢も、彼の数少ない長所のひとつだ。呑気とも言えるが。


 カバンを下ろし、床に座りこんだところで、隆真は通路の奥にうっすらと明かりが漏れていることに気付いた。行き止まりだと思っていた通路の奥、よく見ると、突き当りの右側に、さらに通路があるようだ。L字型の建物だったのである。

 さて、こうなるとこのまま横になるのははばかられる隆真である。まだ営業中の店が、この奥にあるのだ。下手にここで寝てしまうと、その店の利用客、従業員ないしは店主に見つかった時が億劫だ。最悪、警察やら、救急車やら呼ばれた場合、何故ここで寝ていたか問われることになるだろう。この残金四十七円の体たらくを、世間に晒すことになってしまう。彼のちっぽけな自尊心には、とても耐えられるものではない。残念ながら、ここは安住の地ではなかったのだ。仕方なく重い腰を上げた隆真だったが、ここでふと思い出した。表の看板には、営業中であることを示す照明が、どこにも入っていなかった。さては、あの奥の明かりは、お手洗いか、または非常灯ではないだろうか? お手洗いならしめたもの、この地は守りも鉄壁。小田原城もかくやあらん難攻不落要塞と化す。ここはひとつ、L字の奥まで確認するべきだろう。そう思い、彼は通路の奥へと進んだ。


 彼の甘い期待は、あっさりと打ち破られた。営業中の店があったのだ。綺麗なガラスの扉から、真っ白な光が差している。店の入口には、ライトアップされた小さな看板が掲げられていた。


 ”リサイクルショップ Avenirアヴニール

          なんでも買います。なんでも売ります。”


 要塞崩壊の衝撃で脱力してしまった隆真だったが、その店の看板を読むや、首を傾げた。居酒屋しかない繁華街の、小さな雑居ビルの奥に、どうしてこんな店があるのだろうか。しかも、時刻はすでに午前一時を回っている。こんな時間まで営業しているリサイクルショップがあるだろうか。

 ははあ、さては、店主が帰り際に照明を落とし忘れたのかもしれない。もしくは、防犯のために、夜間も照明を付けたままにしているのかもしれないな。隆真の脳内で、要塞再建のための都合の良い仮説が展開した。ならば、残るは実証のみ。店のドアを叩いてみるしかない。本当に営業しているのか、――この城を諦めるのは、それを確かめてからでも良いだろう。


 隆真が扉の前に立つと、そのガラス戸はゆっくりと右へスライドした。自動ドアだったのだ。店内の白い光が、彼の目に飛び込んだ。同時に入口のセンサーに反応して、店内に鳥の声のチャイムが響く。続けざまに、女性の声が出迎えた。

「いらっしゃいませ。アヴニールへようこそ」

 扉の中は六畳間ほどの広さしかなかった。店内には、小さなカウンターとレジ。それだけである。とてもリサイクルショップとは思えないほど、スッキリとした店内に、隆真は少し戸惑った。入口から一歩入ったまま、周囲を見まわしていると、カウンターの横に立っていた店員が声を掛けてきた。

「何かお探しですか?」

 小柄な女性だった。緑のエプロンを付け、左胸には大きな名札が見えた。

「ああ、いや……」

 隆真はしどろもどろになった。まさか営業していたとは。いや、万が一、営業中であっても、そこがリサイクルショップであれば、適当に棚を冷やかして立ち去ろうとでも思っていたが、この店には、そもそも棚が無い。完全に予想外の展開である。答えに困っていると、店員が「あっ」と声を上げた。そして済まなそうに尋ねた。

「すいません……。当店は初めてですか?」

 店員が少し困った顔をしたので、隆真は僅かに落ち着きを取り戻した。「いや、」と前置きしたところで、一度だけ咳ばらいをした。

「――こんなところに、こんな店があったんだねぇ……。知らなかったなあ」

「皆さん、そう仰いますね。小さいお店ですけど、一応24時間やってますよ」

「へぇ……」

 24時間営業とは、さらに驚きだ。隆真は、もう一度店内を見渡してみた。と言っても、余りに狭い店内。見渡すまでもなく、答えは一つ。何もない。やはり、この店には商品らしきものは何もないのだ。一体どういう店なのだ? そんな疑問を解消するべく、彼は口を開いた。

「何も無いけど、オープンしたばかりなのかな?」

店員が答えた。

「うち、結構独特なシステムでやってるんで、店頭に商品とか置いてないんですよ」

 ふむ、そういうこともあるかもしれないな、と彼は思った。純真なのだ。単純であるとも言うが。

 次いで、彼の視線は、レジの置かれた小型のカウンターと、その傍らの店員へと移った。

 

 ”スタッフ : 狐塚こづか 彩実あやみ


 店員の左胸の名札には、彼女のフルネームがサインペンで手書きされていた。年齢は20代前半だろうか。小柄な体躯も相まって、やや幼い印象も受ける。

 ふと、彼はレジ上に置かれた小さなPOPが気になった。


 ”なんでも買取! 24時間受付中!”


 赤地に白抜きで描かれたその文字にふと興味がそそられた。隆真は思った。今持っているもの(例えば、カバンなど)を売れば、タクシー代くらいは貰えるのではないか、と。ダメで元々。ここはひとつ、聞いてみるに限る。

「あー、買取……、できる?」

 彩実の表情が、パッと明るくなった。

「あ、買取にいらしたんですね。何を買い取りましょうか?」

 余りに屈託なく微笑まれたので、隆真は思わず目をそらした。

「つか」

 咳ばらいをした。

「――何を買い取ってくれるの?」

 彩実は”きょとん”とした目で隆真を見つめた。

「なんでも、買い取りますよ?」

 レジ上のPOPを指さして、彩実が続けた。「ほら、ここに書いてますから!」と言うと、子供のように笑った。すると、「あ!」と何かを思い出したかのように大きな声を上げると、カウンターの下から、巨大な赤い表紙の本を取り出し、台の上に置いた。ドサッと大きな音がした。

「気付かなくてすいません。初めてだと、分からないですよね。一応リストにしてるんです。本当になんでも買い取っちゃうので、こんなの作っても、あまり意味が無いんですけどね」

 巨大な本の表紙には”商品リスト”と書かれていた。サイズはA3。何ページあるのだろうか。厚さ10cm以上はある。その大きさに圧倒された隆真は、恐る恐る本に手を掛けた。前から三分の一ほどのページを開くと、大きな紙面に張り合うかのような大きな文字で、単語が羅列されていた。

 ”太陽、星、月、川、海、山、……”

 そんな単語が目に飛び込んできた。商品リストにしては、違和感のある文字ばかりだ。隆真は小首を傾げながら、一度本を閉じた。そして、確かめるように、表紙から1ページだけ捲ってみた。すると、やはり大きな文字で、単語のみがひたすら羅列されていた。

 ”ビジネススーツ、靴、ベルト、各種カバン、カッパ、傘、ハンカチ……”

 先ほどよりは、まあ分かる。分かるが、どうも分類が大雑把であるような感じが否めない。これだと、大概の商品はこの本の半分以下のページ数で書ききれてしまうのではないだろうか。後半のページには一体何が書かれているのだ?

 疑問に感じた隆真だったが、1ページ目のある項目に手が止まった。”傘”の項目だ。「あ」と思わず声が出た。”カバン”の項目もある。顔を上げ、彩実に問いかけた。

「傘、買い取ってくれるの?」

「買いますよ?」

 しめた、と思った。今持っているのは、百円ショップで買った安物のビニール傘だ。決して高くは売れないだろう。まあ、その時はカバンを手放せばいい。いざとなれば、携帯電話スマートフォン上着ジャケットだってある。まずは、手放しても全く惜しくない、このボロ傘から見てもらおう。――隆真は、持っていたビニール傘を軽く挙げて聞いた。

「じゃあ、この傘って、いくらになるかな?」

「ちょっと待ってくださいね」

 彩実がカウンターの下から、書類とペン立てを取り出した。

「うち、会員制なんで、一旦、会員カードを作ってもらってもいいですか? 登録は無料なので、お願いします」

「え、作んなきゃダメなの?」

「会員じゃないと、お見積もりできない仕組みなんですよ。ごめんなさいー」

 屈託のない笑顔で、且つ両手を合わせて頼まれては、断り切れない。まあ、書類には、氏名と住所、生年月日を記入するだけだったので、隆真はさらさらと空欄を埋めていった。

「はい、ありがとうございます!」

 書き終わるや否や、彩実は素早い動きで、隆真の手元から書類を掠め取った。そして、内容を一瞥いちべつすると、どこから取り出したのか、ノート大の情報端末タブレットに何やら入力を始めた。

「えー、入枝いりえだ 隆真りゅうまさん、ですね。はい、確かに、ご利用は初めてですね」

 どうやら端末に隆真の情報が登録されたようだ。彩実は、時折画面を指でタップしながら、端末の画面に表示された内容を読み上げていく。すると、隆真にとって、驚くべき結果が伝えられた。

「えぇと、入枝さんの傘ですと……、五千円になります!」

 隆真は耳を疑った。思わず、「ええっ!?」と叫んだ。

「この傘が……?」

 信じられない、といった表情で、隆真は、自身のくたびれたビニール傘をまじまじと見つめた。彩実が答えた。

「多分、その傘だと思いますけど」

 隆真はこの時の彩実のニュアンスが気になったが、すぐに忘れた。百円ショップで買った傘に、五千円もの高額査定がついた幸運に酔いしれたのだ。

「買取を希望されますか?」

「そ、そりゃ、もちろん!」

 当然即答だ。五千円もあれば、自宅までタクシーで帰ってもお釣りがくる。彩実は端末を素早く操作し終わると、手慣れた手つきでレジから五千円札を取り出した。

「はい、ではこちら、五千円です。お納めください」

 青いトレーに五千円札が恭しく載せられ、隆真の元へと差し出された。信じられないが、現実である。隆真はそれをそそくさと財布へしまい込み、持っていたビニール傘をカウンターの上に乗せた。

「じゃあ、この傘を――」

 と、言い終わる前に、彩実が口を開いた。

「あ、言い忘れてましたね。うち、店頭には商品置かないので、そのまま持ち帰っていただいて結構ですよ」

「え……?」

 一瞬、どういう意味か理解できなかった。もちろん、彼はそれを口にする。

「え、いや、意味がよく分からないんだけど……」

 戸惑う隆真を他所に、彩実がビニール傘を隆真に手渡した。

「見た感じ、この傘、まだ使えますし。どうぞ遠慮せず使ってくださいね」

「う、うん……?」

 ますますよく分からない展開に、隆真は激しく混乱した。確かに、この傘と五千円をトレードしたのだ。そういう契約の元で話が進んでいたはずなのに、何か間違えたのだろうか? とすると、間違えたのは彼か、それとも彼女か……。

 完全に理解の範疇を超えて、フリーズしてしまった隆真に、「ただし、」と前置きして、彩実は続けた。

「――傘に限らず、同じ商品の買取は、お一人様につき一度限りとさせて頂いてますので、ご了承ください」

 まだ理解が追い付かない隆真。彩実は構わず続ける。

「つまり、入枝さんの傘の買取は今回だけ、ということです」


 隆真はとりあえず頷くしかなかった。彩実は「あ」と思い出したかのように呟き、人差し指を顎に当てながら微笑んだ。

「”距離”だけは何度でも買い取れますので、覚えておいてくださいね」


 

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