信仰とは神からの恩恵を得たいがために行うものだが、当の神は何もしない。当の神は何もしないが、神を想うことによって、何かしらの恩恵は得られる。「神を想うこと」というのは、信仰とは違うようにも思えますが、どちらにせよ、パラドクスのように見えます。神は無慈悲だが慈悲がある、というように見えます。この作中のキリストは、その神という曖昧な概念を把握し、二人の盗賊、そして読者に説こうとしているのだろうと考えられます。やはり、彼は救世主なのですね。
全ては過去。案外、こんな会話や思いだったのではないかと思えてしまう。そう考えるとひどく清々しいですね。ねぇ、神様と内心でにやり、としてしまいました。
自らを救わぬと分かっている神。だが信じれば救いはある。人を救うのは神ではなく、神を信じる人の想いなのかもしれませんね。考えさせられる短編でした。
この言葉を、遠藤周作は「旧約聖書 『詩編』 第22編」を暗唱していたにすぎない、と解釈していた。その解釈との差異におや? と思ったのだが、とは言ってもね。救われるのが宗教だし、救われるのが信仰ってもんでしょう。この物語におけるナザレのイエスと、二人の盗賊は救われて死んだ。それが一番大切なこと。神は、彼らを救ったのだ。
題名を見て、もっと暗くて重い話を想像しましたが、違いました。歴史より現代ドラマの感覚で読むことができます。神様について話すとう作品ですが、難しい話ではありません。宗教色も弱いです。 会話がメインになりますが、その状況は過酷で、ラストには感動です。もし歴史が苦手だからという理由で、読むのをためらった方がいれば、是非ご一読ください。
生きるということは、いつだって辛く苦しい。ならば、この生の責任くらいは神に背負ってもらおう、と彼は言う。本作のキリストはなかなかにロックだ。彼が人を惹きつけた理由は、案外こんなところにあったのかもしれない。彼のそばにいる人は、少しだけ気持ちが楽になったことだろう。人生にイエス・キリスト。神の子は最後まで陽気だった。