新武道伝来記 小輪

泊瀬光延(はつせ こうえん)

小輪

新武道伝来記(しんぶたうでんらいき)より



その一


 武道の華は艶なる契りなり。そのかほりは遠く天台の古(いにしへ)から漂つて来る。



     *  *  *


 今は昔。遠い唐の時代の天台宗、密教寺院に「小輪」といふ稚児がおった。

 都の貴族の女が不義をして生まれた子で、赤子のころに寺に入れられた。

 十二歳で人の世話などが出来るようになると、その時に修行していた外国僧の円戴(えんたい)という高僧に付けられた。彼は唐のめぼしい寺、招提、蘭若(仏教施設。蘭若は招提より規模が小さい)にあるお経を殆ど書き写しており、しきりに朱筆で注釈などを付けていた。また、方々の寺から尊い書物や文物を取り寄せ、保管している。

 小輪は非常に可愛い男の子であったので、円戴は可愛がり、頭を剃らせず前髪を垂らした美しい長黒髪を後で結わえさせていた。これは故国のしきたりであったらしい。


 小輪は利発で明るく、かつ僧達の間で修行する拳法、棒術の天分をも早くから示していた。

 僧達の中に小輪に恋をするものがあったが、小輪はそれを理解するに幼すぎた。あるとき数名の僧に押さえつけられ欲望を遂げられようとされたことがあった。しかし機敏な小輪は痛烈な打撃を彼らに与え危うきを脱した。


 だが、稚児の宿命、主である円戴(えんたい)に十四の時に抱かれた。円戴は優しい気性だったので、小輪は嫌いではなかった。ある夜、請われた時に務めという気持ちもあって、円戴のするままになった。


 最初は口を吸われても乳をいじられても気持ち悪いやらこそばゆいやら。円戴の一物が中に入ってくると痛みに叫びを上げ、逃げだそうとした。だが、儂が嫌いかといふ円戴の言葉に、優しさを感じ、いいえと答えた。


 一年も円戴の伽をしていると喜びを覚え、快感を感じるようになった。円戴は齢三十九、求道の意思強く身体は壮健であったが静和であり、宮廷、官僚に知友多くたびたび顔を出すため不在のことが多かった。心ならずもこの道を知った幼い小輪を常に満足させることは出来なかった。

 小輪は疼く身体を持て余したが、他の僧に抱かれる気持ちはない。その鬱憤を武術の修行に向けた。



 激しく鋭い小輪の技に、その寺の高段者でさえもたじろぐことが多くなった。

 棒術の高段者の中に馬王といふ若者がいた。六尺あろうかという上背で筋骨逞しくその棒に敢えて立ち向かおうという他の高段者もいなかった。


 稽古に小輪は馬王と手を合わした。

 激しく小輪が突いたかと思うと、馬王は手元で躱(かわ)し棒を絡(から)め取ろうとする。小輪の棒が手の中で滑るやうにすうと後に引かれ、その直後に大きな弧を描いて馬王の頭に打ち落とされようとした。その早さは実戦さながら、おそらくは手加減する由も無し。居並ぶ者は皆、馬王の頭が割られると思った。

 瞬間、馬王は足を横にばっと開き、自らの棒を頭の上に右斜めにかざす。小輪の棒がその棒に打ちつけられ馬王の棒はそのまま背に食い込む。だが、馬王は頭を低くし棒を背負うた。背中を少し前に向けると、小輪の棒は馬王の左下に勢い余って地を打ってしまった。

 自らの首を軸にして馬王の棒がくるりと周り、小輪の左足をはっしと打った。

 打撃を避けるため左足を棒と同じ方向に流そうとしたが、棒は強かに足を打っており、さらに掬われ、小輪は無様に尻餅を突いた。



 小輪は夜具の中で考えていた。今夜は円戴は伽を命じず、隣の部屋で寝ている。

 足が痛んで眠れない。だが、小輪は試合の後、心配そうに肩を抱いて薬坊に連れて行ってくれた馬王の顔を思っていた。馬王は厳つい四角の顔をしているが、骨が折れていないことを知って安心して笑った顔は、なんとも優しそうで頼りなさそうなものだった。

 小輪は夜具の中でくすと笑った。




その二


 ある夜、小輪は円戴を風呂に入れ、着物を着せて閨に送った後、自分も風呂に入った。


 山寺の風呂は小さな離れの小屋で、地面に身体を横たえられるぐらいの穴を掘り、そこに湧き水を引いてある。穴は版築で突き固めて砂利を敷いてある。水の流れの上と下に板の戸がありそれを開けることで使った水を入れたり流したり出来る。

 側に炭を燃やした炉がやはり掘ってあり、その中に焼けた石が数個入っている。湯を沸かすときには、太い鉄箸でその焼け石を風呂に入れるのだ。

 既に寒風が吹く季節であり、戸外の寒さは辛かったが、ここは湯気が立ち、暖かい。

 裸になり湯を浴びようと桶を持つと、大きな蝋燭の炎が揺らいだ。


 小輪は戸のつっかい棒を取ると戸を大きく開けた。

 戸の横からどすんどすんという音がして数人の者の気配がした。小輪は寒さも取りあえず裸足で外に出た。薄暗い中を藪に向かって走る数人の僧の後ろ姿が分かった。小輪の裸体を盗み見しに来たのだろう。前にも見つかって怒った小輪に棒で打ち伏せられた者がいる。

 だが一人、腰でも打ったか、取り残された者が小屋の高窓の下に尻餅を突いていた。


 小輪は棒を突きだして問うた。

「誰じゃ!」

 暗くて顔は分からない。

「・・・俺は馬王じゃ」

 小輪はびっくりした。寝るときにちらちらと頭に浮かぶ顔を思い出した。負けて悔しいのか、あの笑った顔が懐かしいのか、自分でも分からなかったが。


「・・・ふうん、お前様ともあろう人が俺の裸を見に来たのか?」

 馬王は答えない。

「腰を打ったようじゃな。今は俺の棒に適わぬじゃろう。小屋に来い。お前の阿呆面をとくと見てやる」


 馬王は小屋の壁にすがってゆっくり起きるとへっぴり腰で戸を潜った。

 風呂場の板間に手と膝を突いて痛みを堪える馬王を見ながら、小輪は戸を閉め、つっかい棒をもとの位置に戻した。

 戸が締められたことを知ってびっくりして小輪を見た!小輪は馬王の近くに寄ってきた。

 馬王は目を開いて小輪の身体を見ると、仰向けになって腰を抜かしたように後ずさりし始めた。


 髪を解いた小輪の頬に前髪が垂れ、艶やかな長髪は長い首から肩と胸に別れていた。まだ、大人になる前の柔らかい脂肪に覆われた肩と胸、腰。足には毛の跡もなく腰の丸みと同じぐらいの太さの大腿がをのことは思えない妖艶さを放っている。

 外の寒さに触れたからか小輪の乳首は堅く立っている。

 馬王は経験したこともない興奮と同時に、高貴なものを見てしまったという恐れを味わっていた。


 眉に怒りを込めて小輪の美しい瓜実顔が近づいてくる。小輪は片膝を馬王の股の前に突いて両腕を前に交差させて脇腹を手で押さえた。小輪の小胸が腕で絞り出されたような形になり、馬王の目にさらに尖った乳首が見えた。


「・・・俺の身体なぞ見てなんとする?」

「・・・す、すまぬ。お前が身体まで美しいと皆に言われて、その気になった。見たのは間違いじゃった・・・儂なんぞが・・・」

 小輪は怒った。

「お前は俺を見たのが間違いじゃと!俺の身体がなんじゃ!・・・ははん、お前は女と寝たこともないんじゃろ?」


 馬王はかっとなって、

「・・・馬鹿にするな!女ぐらい知っているわ!」

「へえ、修行僧の身で女を抱いたことがあるのか?」

 馬王は怒りに釣られて墓穴を掘っていた。師匠に知られたら破門となる。

「・・・分かった・・・なんでもする。このことは言わんでくれ・・・」


 小輪は勝ち誇ったようにくっくと嗤った。その顔は美しい悪魔の様に見えた。

「では聞く。お前は女をどう抱くんじゃ?」

 馬王は意外な質問にあっけにとられた。

「答えろ!俺は円戴様の稚児じゃから女とは縁がない。だから女がどんなものか教えろ」

 馬王は小輪が女を知りたいと思っていると考えた。いつか抱くときに知っておきたいのだろう。

「まず・・・優しく抱きしめて・・・口を吸う」


 小輪の顔から笑いが消えて馬王を睨む。それからと促す。

「・・・それから・・・首や乳房を吸って行く。身体のあらゆる所をさすりながらな・・・そうせんと女のあそこが濡れて来ぬ」


 小輪は片膝を突いた身体を少し引いた。けがわらしいもののことを聞いたように。馬王は改めて蝋燭の炎に慣れた目で小輪の身体を見た。少し早めに呼吸する胸。片膝に押された柔らかそうな腹。絹のような肌。そして寒さに縮こまった玉茎。この華奢な体のどこにあのような武の力があるのか。


「・・・あそこがどのように濡れてくるんじゃ?」

「手をあてがってゆっくりと襞を撫でてゆく・・・そのうちに内側からねっとりとしたものが出てきて、指が滑るようにそこに入って行くのじゃ」

 小輪の顔に脅えが見えた。馬王は次に軽蔑が来るのではないかと思った。


「・・・もういいじゃろ。帰してくれ」

「駄目じゃ!・・・お前の俺の身体を隠れて見ようとした罪は重い!俺は都の貴族の子だぞ!お前など俺の一存で殺すことも出来るのじゃ!」

 馬王は突然、小輪が怒り狂ったことに驚いた。


「やってみろ!」

「え・・・?」

「お前が女にしたことと同じことを俺にしてみろ!」

「・・・ど、どうして・・・そのような」

「お前なんぞが女を抱いたなぞ許せん!同じ事を俺にして俺が女のようによがると思っているんじゃろ!してみろ!お前なぞ俺に何も出来ぬことを思い知らせてやる!」


 小輪は馬王に覆い被さり、口を合わせた。

「う・・・!?」

 馬王の欲望にも火がついた。そして小輪に支配されるということにも怒りが沸いた。

(くそ!こうなればこれまでの想い、とくとつぎ込んでやるわ!)



 馬王の心はそう思ったことで少し落ち着き、下腹に怒りとともに力が湧いてきた。小輪を抱き返すと舌を入れた。深い口づけだった。お互いに貪り、だが馬王が小輪の髪を後から大きな手で掴み腰を引き寄せたとき、形勢が逆転した。

 馬王の愛撫に小輪の心が浮遊し始めたのだ。

 ようやく口を離すと首を吸い、乳首に吸い付いた。小輪はあっと声を上げると、

「・・・俺のそこは女みたいに大きいじゃろ。ご主人様にずっと吸われて大きくなった。どうじゃ女と同じじゃろ?」


 馬王の手は小輪の陰部を鷲掴みにして揉みしだいた。小輪は握られるたびに身体を仰け反らせ声を上げる。そして馬王の手の平は大量の小輪の愛の滴に濡れる。


 馬王はそれを自分の長大なものに塗りたくり、すでに理性を奪われた小輪を俯せにして膝を立たせて、その蕾から中に入っていった。小輪の柔らかな臀部は皮膚の他の所と同様にすべすべし、蕾も綺麗な桃色をしていた。


 女を犯すのは孕ませることにあり、その人生最高の悦楽は子孫を残すという生きるものの本能から来るのだ。しかして、仏門に入った以上はそれらの欲望を捨て自ら仏になることを第一(だいいつ)とせねばならない。だが、僧侶も男であり、その欲望は男根を持っている以上、現実である。女性を犯すことなく仏に近づくのに必要なものは、犯しても犯しても罪にはならぬ同性の少年である。


 だが、馬王は小輪に女でも男でもないものを見ていた。

 このものと共に生き、死ねるならば他の全ての欲望を一切捨て、仏になる欲までも捨てられる!

 小輪は我の観音、菩薩なのだ!


 風呂から立つ湯気も二人の交わった身体から立つ熱気に揺らぎ、朧な蝋燭の火も二人の炎のような契りの舞台をただ照らすだけだった。




その三


 馬王は寺の大師の前に引き出された。後ろ手を縛られ、縄目は背後の大きな二人の警護の僧に握られている。


 大師は居並ぶ高僧の中の円戴を、横目で見ながら言った。

「馬王。お前は円戴殿の稚児である小輪を誘惑し肉の欲を貪った。身分の違う高僧の稚児と交わることは許されぬことである。よってお前を百叩きにして破門放逐する」


 円戴は目を伏せて師と馬王を見ない。自分の稚児が、若い男に寝取られたということに身の置き所がなかった。

 馬王は首を回して仕置きを眺める者達のなかに小輪を探したが、認めることは出来なかった。

 かくて馬王はその罪により百、背を革鞭で打たれ瀕死となり、寺の山の麓の邑に捨てられた。



 表向きは馬王に誘惑せられたことになっている小輪は、山門の奥の古い堂に押し込められた。中に太い格子が嵌められた罪を犯した僧が入れられる牢屋となっていた。

 朝夕の膳を差し入れられるのみで暖を取る施設もなかった。だが、小輪は毅然として静座していた。

 数日経った夕方に小坊主の代わりに円戴が膳を運んできた。小輪は円戴を見ると格子に寄りすがった。


「円戴様!馬王は・・・馬王はどうなったのでしょうか!」

 自分の身がどうなるのか案じもせず馬王のことを質問する小輪に、円戴は馬王への強い嫉妬を感じた。

「お前はもとより身分の高い方の子じゃ。これから修行して出世し、尊い僧として生きれば親御達は鼻が高い。そのためには下賤のあのような者と交わってはいかん」


 小輪は円戴を見つめたが、凛として言った。

「私は馬王に恋をしました。円戴様には申し訳ないことですが、私の心は馬王のものとなりました。でも馬王が許されるのでしたら、私は馬王と共に生きることは諦めます。馬王が生きてさえいれば、私も生きることが出来ます。馬王は・・・生きているのでしょうか?」

「馬王は死んだわ!」


 背後から大声が飛んできた。大師がいつの間にか戸口に来ていたのだ。

 小輪の目は目尻が裂けんばかりに開き、恐怖の表情となった。後ろに手を突き、力無く膝を崩した。


「・・・ど、どのように・・・?」

 小輪は小さな震える声で聞いた。

 円戴は大師の顔を仰ぎ見た。これ以上小輪を傷つけたもうなと願った。この戒律一筋に生きてきた大師は、人間の心の機微は分からぬと。


「百叩きの後、村の奴隷の邑(むら)に捨てた。罪の傷から体が腐り、そこで朽ちたのじゃ!」

 小輪は呆けたように聞いていた。

「・・・よいか小輪!お前の罪は馬王が償った。これから円戴殿のお世話を一所懸命にして修行に打ち込め!」


 大師が去った後も円戴は小輪と格子を挟み対峙していた。

 胡座を組み、手には印を結んでいた。

 小輪は膝を横に崩して俯いている。

 闇の中に一つ、燃え揺らぐ蝋が小輪の姿を朧気に映し出していた。小さく肩を震わし泣いているのか。

 円戴は小輪に声を掛けたかったが何を話して良いやら。馬王のことも詳しくは聞いておらず、死んだと言うことは本当かも知れぬ。


 円戴が諦めて帰ろうとしたとき、小輪が小声で言った。

「円戴様・・・櫛を持っておいでですね?」

 長い髪を艶やかに保つために稚児は櫛をいつも持っているが、今は取り上げられている。もしや心を戻してくれたらと、小輪の櫛を円戴は懐に入れて来た。小輪は円戴が夕暮れの残光の中に堂に入ってきたときに、懐から少し見えていたそれを目敏く見つけていたのだ。


「・・・それをお返し下さい。もう分かりました。明日には身と心を整え、円戴様にお仕え致します」

 円戴は喜んで櫛を格子の中に入れた。



 明くる朝、膳を運び入れた小坊主が悲鳴を上げた。大師、円戴等が堂に入ると、格子の下からこちらまで血が寄せていた。


 小輪は正座をしたまま蹲り、顔を少し横に向けて事切れていた。首には木の櫛が深々と刺さり、そこから血の海が出来ている。


 先も尖っていない木の櫛を首に刺し、事切れるまでなんと苦しんだことであろう。だが、美しい髪を丹念にといており、その蒼白の顔は従容として眠っているようであった。

 例え一夜のしとねとて、契りを遂げる者の凄まじい一途さを、居並ぶ者どもは思い知った。




 その後、小輪と馬王を救うことの出来なかった円戴の心は重く、師の最澄に命じられた天台仏教の研究を納めることが空しく感じられた。なぜ二人を許してやらなかったのか?師の理想とする衆生を救う僧がなぜ、己の欲を捨てられなかったのか?


 二十三年前、師は延暦寺で目を掛けていた彼に入唐を言い渡すと、明くる年入定(亡くなること)された。

 それから朝廷に願い出て、遣唐使の順番を十七年待った。難破しそうになって揚州に辿り着いた。唐の言葉を必死に勉強した甲斐があって、兄弟子の円仁(えんにん)を差し置き、一人台州(天台山がある浙江省東部沿海の都市)に行った。

 そのときの円仁の恨めしそうな目が忘れられない。


 僧といえどもこのように醜く嫉妬する。円戴は故国より遠い異国の空の下で人の醜さと弱さを知った。




その四


 その年の会昌五年、あまりに僧籍の者が多くなり、農業に従事する者が少なくなり、国家存亡の危機感を持った武宗によって、仏教を中心に拝火教、景教なども含めた僧侶の還俗令が出た。

 世に言う『会昌の滅法(845年)』である。


 全ての寺院が廃されたのではなく、各州都には決めれらた数の僧のみが許された。その中でも唐の建国に功績のあった少林寺(河南省洛陽の東の嵩山にあった)などはこの害を逃れたそうだ。


 円戴の滞在している寺はその免除に入っていなかった。五台山にいる円仁から、彼も唐における僧籍を剥奪された旨知らされ、日本に一緒に帰らないかと言ってきた。運がよく朝廷まで顔を出せるようになった円戴を苦々しく思っていた円仁が、最後の寛容を持って誘ってくれたのだ。

 円戴は、還俗するつもりで修行が足りない自分が日本に帰る資格はない、と丁重に文で答えた。



 円戴は寺を出る用意をしてしていた。


 廃寺となっても官庁の管理下に置かれ、彼の収集した法典、書籍は彼の懇意にしている高官の家で保管されることになっていた。入唐(にっとう)してから七年、その間に唐の高級官吏に知り合いも出来、持ち前の人の良さと教養で一目置かれるようになっており、入居先も確保出来た。

 還俗すると聞いて、彼らは驚いていたが、円戴自身は小輪のことで心に迷いが出来てから、僧として生きる自信がなくなった。ただ、在家として信仰は捨てず、小輪と馬王の菩提を弔うつもりであった。


 書院の玄関から声がする。付き添いの小僧が来たのかと思い出ると、そこには馬王がいた!


「お、お前は・・・!生きていたのか!」

 円戴は少し救われた気持ちになった。

「・・・はい。虫の息の俺を邑の者達が介抱してくれたのです。ここが廃寺になると聞いて上ってきました」

「・・・小輪は死んだ」


 馬王は暗い目をして頷いた。

「はい。聞き及んでおります。俺が死んだと聞いて自らを・・・私はどうしても小輪の菩提を弔ってやりたいのです」


 円戴は持って行く首下げの袋から小さな壺を出した。

「・・・これが小輪の骨じゃ。お前の骨も拾って一緒に弔おうと思ったのじゃ」

 馬王は円戴の手から壺を受け取ると胸に掻き抱いた。

「小輪!・・・会いたかったぞ!もう一緒じゃ!離さぬ!」


「・・・許してくれ。儂はこんなことになるとは思わず・・・なんと言うことをしたのか!」

 二人は抱き合って号泣した。

 馬王は円戴の前に傅(かしず)いて言った。

「円戴様、私を従者として使って下さい。小輪の為に泣いてくれた方にお仕えしたく・・・」



 翌年、武宗が死に、還俗の令は解かれた。


 円戴は再び僧籍に戻り、一心に数多の経文を読み解き、衆生に天台の心を説いた。同じ遣唐使の仲間や商人の口から、円仁が天台宗第三代座主となり最澄の跡を継いだことを知った。

 昔ならば心が騒いだことだろう。だが、今の円戴の心はただ求法(ぐほう)のみ。そして小輪の一途な面影が、常に円戴の心の隅にあった。


 あの身を捨てて馬王を思う心こそ仏の心。尊き御仏は、小輪を私の側を通り過ぎる一陣の風として送ることにより、私に求法の目的をお示しになったのだ。




 二十五年の歳月が経った。

 円戴は齢六十四にして全ての経文に通じ、師が志した全ての衆生を救う大乗の教えを悟った。聖(ひじり)の域に達していた。何事にも動ぜず、寺に一時押し入った野党の前でもその目は遠方を望み、その気はその身体の中に閉じこもってはおらなんだ。馬王が慌てて駆けつけて来た時は、円戴に感心した野党どもと大笑いをしていた。


 馬王は四十三になっていた。


 天竜八部将神が纏うような皮の鎧を着た馬王と弟子達を伴い、万巻の法典と仏具を持って黄河を下った。そして貿易船に乗り渤海に乗り出した。


 だが、順調に思えたその矢先に嵐にあった。大波に翻弄される船内で、円戴は馬王に言った。

「これで儂の旅は終わる。だが、お前は生きるのじゃ。小輪と共にな」

 円戴は書きおいた書面を油紙で幾重にもくるみ、馬王に渡した。

「円戴様!」

「小輪は儂を赦してくれるかの?」

 馬王は年老いた師に抱きついた。



 嵐が収まったとき貿易船の影は微塵にもなかった。





 その後、九州に一人の唐人が流れ着いた。

 仁王の様な六尺の偉丈夫で棒をよく使い、背に凄まじき傷跡があった。円仁宛の書状を持っていた。片言の大和言葉がしゃべれたので、一人で京まで行き、比叡山に登った。だがすでに円仁は入滅していた。朝廷から大師の称号を賜り諡号を慈覚大師と云う。その亡骸は遺言で奥羽の立石寺(りっしゃくじ)に葬られたと云う。


 その後、比叡の僧侶は棒術、杖術を良くし、朝廷にその兵力で影響を与えるほどになっていった。またその男は東(あずま)に下り、山寺立石寺に至ってから常陸の国で武芸を伝えたともいう。


 馬王と小輪の伝説は、遙か後の世の延暦寺僧弁慶と九郎義経の主従の契りの伝説に映し出されたといえり。


 今は昔。ここに武道の伝え、契りの誉れを書き残す



小輪 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新武道伝来記 小輪 泊瀬光延(はつせ こうえん) @hatsusekouen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ