吸血鬼がいる日常

ノーマッド

第1話朝の準備と吸血鬼

 耳元から不快な電子音が響く。

重い目蓋を開くと、枕元で嫌な音を響かせる目覚まし時計が目に入った。蛍光板は朝六時半を示している。

(八時に出社、準備に十分、移動が二十分…後一時間は…)

 再び重くなる目蓋が閉じかけた時。リビングから聞こえるテレビの音、微かに香る珈琲の匂い。頭が急激に冴えていくのを感じた。

 布団から這い出ると分厚い遮光カーテンを開けた。朝日を全身に浴びながら大きく伸びをする。

「今日も頑張りますか。」


 午前六時半。リビングには四脚の長方形のテーブルがあり、座椅子が二つ並んで置いてある。その一つを専有するのは少女であった。夜の闇が染み付いた長い黒い髪は床の上にまで広がり、一度も陽の光を浴びたことのないような肌はシミ一つない純白だ。

 少女は寝室から出てきた男に気が付いたのか。立ち上がって湯気の出るカップを差し出した。身長は百三十と少し。体重は三十に行くか行かないか。小学生の低学年くらいの体格だ。艶やかな黒髪がその肌の上に垂れ下がる。

「はい、珈琲。入れておいたわ。」

「ありがと。ところでさ。」

「何かしら?」

 男は珈琲の入ったカップを受け取ると。一口飲み込んだ。熱々の珈琲が口内を、喉を、焼き尽くしながら胃へと突き進んでいき。眠気ごと飲み込まれていく。

 そして、布一つ纏っていない少女に向かって言った。

「服くらい着ろ。」

 少女は、驚いた表情で男を見る。そして自分の体を見て、不思議そうなになると男に向かって言った。

「着てる方が――好みかしら?」

「関係あるか?その質問。」

「あるわよ。」

 当然のように言う少女に頭を痛める。

「……………着てる方が好みだ。」

「じゃ、着てくるわ。」

 そう言うとさっきまで座っていた座椅子へと少女は歩いていった。座椅子の横には一枚のボタンが止まりっぱなしのワイシャツが置かれており、少女はそのワイシャツをかぶるように着ると、先程までと同じように座椅子に座った。

 男の記憶が確かであれば。あのワイシャツは男がたまに着るスーツ用のワイシャツであり。確か彼女のために恥ずかしい思いをして、一緒に買った女児用の服が。そして下着が。クローゼットに入っているはずであった。

『時刻は朝、六時四十分!モーニングスタジオの時間だよ!』

「……まぁ、いいや。朝飯にしよう。」

 テレビから目を離さない少女に背を向ける。冷蔵庫から食パンを取り出し、両面にバターを塗ってトースターに入れる。焼く前後にバターを塗るのが男の好みであった。コーヒーの入ったカップを適当に置き、ついでにフライパンを温めて油を入れる。二枚ほどハムを置いて塩胡椒をかけ、その上に玉子を落とす。下が軽く焦げた辺りで火を弱める。食器棚から大きめの平皿を取り出すと。トースターからパンが飛び出す。片面にバターを薄くひくように塗って、皿に置いてその上にハムエッグを乗せる。

 置いておいたカップを持つ。少し冷めて飲みやすくなった珈琲と、朝食の乗った皿を持ってリビングに戻る。

 そのまま定位置である、少女の横の座椅子に座った。

 少女はちらりと男の朝食を見ると可愛らしい眉をひそめた。

「ちょっと、少しは野菜を取りなさいよ。」

「大丈夫だろ。この前の健康診断も問題なかったし。」

「あるわ、問題。」

 そう言うと少女は立ち上がって、冷蔵庫へと向かった。冷蔵庫の下段、野菜室からパックの血液を取り出す。ラベルには昨日の日付と時刻が書かれている。

 専用のストローを突き刺して、口に咥えると。中身を押し出すように両手でしっかりと掴んで、飲み出した。

 その光景を横目に眺めながら男は自分の朝食を食べ始める。

 最後の一滴までしっかりと吸い出すと、少女は満足そうに血生臭い息を吐いた。真紅の唇から血の付いた鋭い犬歯が覗く。口の中いに残った血の一滴も取り逃がさないように、赤い舌が動き回る。動く度に膨れたりしぼんだりする小さなほっぺた。その姿がまるで見た目相応の少女に見えて、何かの冗談のようであった。

 たっぷりと味わい尽くし終わった少女は男を指で突き刺す。

「やっぱり、味が濃すぎるわ!

昨日お昼にラーメン食べたでしょ?」

「食べてないです。」

「食べたでしょ。」

「食べてません。」

「食・べ・た・で・し・ょ・?」

「………食べました。でも、ニンニクは入れてないぞ。醤油ラーメンにしたし。」

「違う!野菜が足りてないわ!

今日のお昼しっかり食べなさい。最悪でも、野菜ジュースやグリーンスムージーとか…。とにかく、今のままだとしょっぱすぎるの。どうにかしなさい。」

 いい?と念を押す少女に男は肯定の返事をする。それで満足したのか飲み終わったパックを専用のゴミ袋に入れて自分の座椅子に戻った。そして男の左腕を掴んで抱き締める。

 男の朝食が終わるまでその腕が返還されることはなかった。


 七時五分前。食器とフライパンを水にさらし、男はユニットバスでシャワーを浴びると仕事用の服に着替える。とはいえスーツではなく、使い古しのチノパンの上に適当に着るだけだ。

 そして仕事用の鞄を持てば準備は終わる。と、少女が男の元へとやってきた。

「ちょっと。」

「あ……あぁ!すまん、今やるよ。」

 手に持った鞄を放り投げ、テレビの下の台から日焼け止めクリームを取り出す。専用の手袋を付けてクリームを手のひらにたっぷりと取る。

 いつの間にかワイシャツを脱いでいた少女が髪を手で束ね持って背を向けて立っていた。

「さ、丁寧にね?」

「はいはい、お任せあれっと。」

 首筋と手を重点的に塗っていく。市販されている人間用と違い、吸血鬼用の日焼け止めクリームは塗るとほとんど半日は持つ。SPF40+前後のものだけである。ちなみに人の肌に使うと肌荒れする上、長期間使うと健康被害まで出る代物だ。高級なものだと人鬼兼用もあるのだが。日常的に使えるほどの稼ぎはないし、この男は日焼けを気にしないので買う予定はない。

 首筋と手が終わると次は顔だ。少女の顔に日焼け止めクリームを塗り込んでいく。しっかりと目と口を閉じたその姿はまるで人形のようで、その肌が男の手で捏ね回され自在に変化していくのが面白い。が、いじられているのが分かったのだろうか、少女の眉根が歪んだ。詫びるように指先で軽く押してほぐすと、声をかけた。

「…よし、ちょっと髪しっかり上げといてくれ。」

「はぁい。」

 少女がその手で長い髪を折り曲げ積み上げ、肌に触れないようにする。最後に身体全体に日焼け止めクリームを塗る。服の下になる部分だが、きちんと塗っておかないと低温火傷のような症状が起こるので油断はできない。塗り残しのないように丁寧に塗ってゆく。

 そして、最後の最後に耳にも塗って終わりだ。


 手袋を洗い、お湯の入った洗面器に入れる。そして念のために自分の手もしっかりと洗っておく。爪の間、指の股までしっかりと洗って壁にかけたタオルで拭く。

(シャワーの前に済ませとけばよかったな…)

 軽い反省をしながらユニットバスから出る。

「じゃーん。」

「そっちも着替え終わったか。」

「えぇ、どう?似合っているでしょ?」

 長袖のシャツにロングスカート。足元もしっかりと靴下が履いてある。これなら日が当たる心配はないだろう。男は演技かかった様子で言う。

「今日もお綺麗です、お姫様。」

「でしょう。」

 自慢げに胸を張る。その首元には分厚いなめし革のチョーカーが巻かれている。銀に輝くタグには"Nacht"と印字されている。ドイツ語で夜を意味する彼女の呼び名だ。

「じゃ、ナハト。また夜にな。」

「えぇ、いってらっしゃい。」

 点けっぱなしのテレビがニュース番組を垂れ流していた。

 『――今年で十年目となりました、吸血鬼を対象にした愛玩生物保護法。これまで人でも動物でもないとされ被差別的存在でもあった吸血鬼は法的に保護され、人の庇護下に置かれることとなりました。このことを記念した式典が現在都内にて行われております。現地には吸血鬼のみで構成されたアイドルグループVMPなどが来ております。また吸血鬼出身の役者やモデルなども多数参加しているようです。VMPも記念ライブは本日午後二時から開催され、ライブの模様はインターネット動画サイトMetubeやスマイル動画でも配信される模様です。それでは現地の―』

 首輪を付けた少女は微笑みながら言った。

「気を付けてね?」

 

 

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