第8話久遠の夜の吸血鬼
深夜。寝室を占領する大きなベッドの上でナハトと浦戸が眠っていた。ブランケットの繭に包まれて、まるで胎児のように丸まった彼女は浦戸の左腕を抱きしめて眠っている。片腕を少女に差し出した男は仰向けのまま眠っている。手持ち無沙汰な右腕が自身の腹の上に乗っている。
ふと、ナハトが目を覚ました。
「……聴こえる。」
酷く迷惑そうな顔で彼女は身を起こした。そして、そばで眠る愛しい人の顔をしばし堪能すると。蕩けた顔のままその唇に一つ。首筋の並んだ傷穴に一つ。可愛らしい口付けをする。僅かな離別を惜しむように長く長く。
そして彼女が顔を上げた時。そこには蔑みと悪意だけを煮詰めたような。少女の造形に似つかわしくないほどの邪悪さが宿っていた。分厚い遮光カーテンを開き、窓を開ける。そのままベランダに出ると後ろ手で窓を閉じた。夜風が彼女の髪を動かし、細いが均整の取れた肢体が月光に輝く。彼女の姿が一度ブレたかと思うと、そこには白銀の羽根を広げるフクロウがいた。二度三度羽根を羽ばたかせ、フクロウは満月の夜へと飛び立ってゆく。
寝室で男は寝返りをうった。そして主のいない繭を抱きしめた。
どこかのビルの屋上で炎が踊っていた。赤いドレスを纏った少女が、暗い蘇芳色の靴を履いて、鮮やかな赤色の髪留めで飾られた、長い紅の髪をたなびかせて踊っている。歌を歌っていた。声を張り上げて、歌っている。尽きることのない感情の奔流が、言葉に乗って夜空に響き渡る。溢れ続ける情動が、彼女の身体を突き動かす。
それはまさに炎であった。
その身にある全てを使い尽くして。ただ、ただ、全力を尽くす。その歌も、その舞も、その存在すらも炎であった。満月が照らすステージの上で、炎はただただ燃え揺らめいていた。踊りが、歌が、最高潮にまで燃え上がってゆく。
そこに、甲高いフクロウの鳴き声が響いた。
赤い少女が不満そうに顔を上げると、月を隠すように夜空に羽根を広げる白銀のフクロウが、獲物に飛びかかるように落下してきた。
「ちょっと。久しぶりだっていうのに随分なご挨拶ねっ?」
軽く身を躱した赤い少女が振り向けば、そこには豊かな黒い髪で白い肢体を覆うナハトが立っていた。
「"赤"ね。何の用?」
両手を組んで"赤"と呼んだ少女に一瞥もくれずにそう言った。会話をする気など無いと言外に語るナハトに。少女は怒った顔で、ナハトの正面に回り込んでから言葉を続けた。
「"黒"!失礼じゃない!
ちゃんと相手の顔見て話せって、そんなことも知らないのかしら?」
「大丈夫よ。相手は選んでるから。」
「久しぶりに会った妹よ!?私!」
「どうだっていいわ。
で、わざわざ耳障りな声で呼んだ理由は?」
怒りで顔まで真っ赤に染めた少女が喚き散らす。体格で言えば赤い少女の方が頭一つ分は大きいのだが、その行動はまるで幼子のようであった。その声を耳から耳へと通り抜けさせながらナハトは溜息を零した。
(長くなりそう。本当嫌になるわ。)
漸く少女の怒りが収まる。スッキリとした顔になった少女が改めて口を開いた。
「さて、久しぶりね。姉さん。今はなんて呼ばれてるの?なんて呼べばいいのかしら?」
「好きに呼んで頂戴。」
「じゃ"黒"姉さん。」
ニッコリと吸血鬼らしくもない、ひまわりのような笑顔で赤い少女が言った。
「吸血鬼の国を造るから、手伝ってくれない?」
路傍の石を視界に入れたナハトは、傲慢なまでの無関心さを込めて言った。
「興味ないわ。」
そして、背を向けて歩き出した。
「ちょっ、ちょちょちょちょっと待ってよ!"黒"姉さん!」
慌てて赤い少女がその肩を掴んだ。もしそうでもしなければ今頃、白銀のフクロウは愛しい止まり木へと戻っていただろう。
「吸血鬼の国よ!?最近世界中では吸血鬼はペットみたいな扱いだし。私たちとか、"黒"姉さんたちは大丈夫だけれど、そうじゃない同胞の方が多いの!だから安心して居られる場所を造ろうって…。
あっ!も、もちろん。人間だって歓迎よ?愛し合う二人は側に居なきゃいけないじゃない?それで血を供出しろとかも言わないし。そりゃ働いてはもらうけど、少なくともこんな国で働くより何千倍もマシよ?あっ!強い!強いって!力強いっ!待って待って!まだ…まだ…。えーと…。
そう!今吸血鬼を人間にしたり、人間を吸血鬼にしたり、もしくは、その間の存在になれる研究もしてて。種族なんて関係なく愛する人と…。」
ピタリとナハトの動きが止まった。その反応を見た赤い少女が嬉しそうに言葉を紡いだ。
「今までずうっと、これが問題だったものね。
だから、どうにかしましょう!一緒に!愛し合える時間がないのなら作ればいい!愛し合う場所がないのなら作ればいい!愛し合う相手がいないのなら見つけられるようにすればいい!対等に!平等に!愛し合えるようにしましょう!」
「…他の姉妹はどうなの?」
ナハトからの言葉に、赤い少女はますます嬉しそうに言葉を続ける。
「まず、"緑"姉さんでしょ?場所を見つけてくれたのよ!"橙"姉さんは色々な研究をしてくれているわ。"青"姉さんは交渉とかをしてくれているの。"黄"姉さんは別ルートで仲間に声をかけて来てもらってるの。」
「"水"はどうせ母さんのところでしょ。
……"紫"は?」
「少し前に乗ってた船が沈んだから……まだ海底じゃない?」
「それは良かったわ。あの娘、乱暴だから嫌い。」
「それで…その"黒"姉さんも手伝ってくれたり…?」
ナハトは肩に置かれた少女の手に自身の手を重ね、そっと退けた。そして改めて赤い少女と向き直る。その顔にはこれまでのような無関心さが消えて、見た目にそぐわない年長者らしい威厳に溢れていた。
「"赤"」
「うん!」
笑顔で。心の底からの笑顔で赤い少女が頷いた。
「勝手にしなさい。」
赤い少女の目に涙が浮かんだ。
「えええええええええええええ!?なんで!?どうして!?
良いじゃない!連れてきたい人がいたら誰でも何人でも…あっ!お仕事のこと?それともお金?家族とか?それなら大丈夫!ちゃんと家とか用意するし他に必要なものも…。」
赤い少女の唇を、ナハトの白魚のような指が抑えた。
「いい?"赤"」
優しい声であった。子供に言い聞かせる親のように優しく。興奮した相手を宥めるように穏やかな。それでいて断固とした口調でナハトが言った。
「必要ないの。そんなもの。」
「そ、そんなもの!?」
「えぇ。人間になる?吸血鬼にする?要らないわ。
それに…場所?対等?平等?どれもこれもなにも、要らないわ。」
呆然としていた赤い少女が、やっとの思いでその口を動かした。
「だ、だって…でも…一緒になりたいじゃない!」
涙を零しながら赤い少女が言った。膝をついて泣きじゃくるその姿は、容姿相応かそれ以下の様に見えた。彼女は一番下の妹で。恐らく最も多く長く人と関わって生きてきた姉妹だ。最も人間じみていて、最も傷つき、最も理想屋で。何よりも、最も愚かであった。
「いい?"赤"」
赤い少女が見上げると。ナハトは笑っていた。口端は耳元まで釣り上がり、両手を広げ、頬を赤く染めて、悪魔のように笑っていた。
「私はね。あの人が好き。あの人が大好き。
私を見つけてくれたあの人が好き。私に血をくれるあの人が好き。私のために頑張るあの人が好き。辛くて震えるあの人を抱きとめるのが好き。褒められて喜ぶあの人が好き。少し恥ずかしそうに甘えてくるあの人が好き。料理の味を真剣に答えてくれるあの人が好き。嫌いなものが出ると不機嫌になるあの人が好き。好きなものが出ると喜ぶあの人が好き。私の料理を食べてくれるあの人が好き。私と映画を観るあの人が好き。好きな映画を語り合うのが好き。意見が合わなくて喧嘩してるときのあの人が好き。謝ると許して抱きしめてくれるあの人が好き。申し訳なさそうに謝ってくれるあの人が好き。血を吸うときに痛みを耐えてるあの人が好き。可愛がると反応してくれるあの人が好き。私をいじめて愛してくれるあの人が好き。毎朝私に日焼け止めを塗ってくれるあの人が好き。血を用意してくれるあの人が好き。どんな姿でも私を見てくれるあの人が好き。私のために無理をするあの人が好き。そして疲れて私に甘えるあの人が好き。えっちな目で私を見るあの人が好き。私と一緒にいてくれるあの人が好き。
だから、全部奪ったの。私以外愛せないようにしたわ。私以外では満足できないようにしたわ。
だって、だって!私はもうあの人に何もかも差し出したもの!これまでも!今も!これからも!全部!」
ナハトはその身を貫く甘い感覚に陶酔した。そしてどうしようもない寂しさを感じた。自分がここにいるのにあの人がここにいないからだ。
「だから、要らないわ。何も。私のものは全部あの人にあげたから。あの人のものを全部もらったから。
ね?」
そう言って背を向けたナハトを赤い少女は追わなかった。彼女とて人を愛したことはある。その結晶を抱きしめたこともある。他の仲間の話を聞いたこともある。しかし、これほど大きく重く熱く暗く、複雑な形は見たことはなかった。まるで違う生き
白銀のフクロウは夜空に飛び立つ。たった一つ。望まれた場所へ帰るために。
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