吸血鬼がいる日常

第7話誓いの夜と吸血鬼

　浦戸たちが住むアパートには屋上がある。管理上の問題で立ち入ることができないのだが。そんな秘密の場所への鍵をナハトは持っている。偽造などと言った非合法的な手段は使っていない。ここの管理人とナハトが知り合いであったのだ。同居者が増えたことを知らせに訪れた時、管理人の年配の男性が彼女の姿を見た途端に丁寧な対応になったのは、今でも二人の話題の種になっている。ちなみに、顔を合わせた当日。なんだか不満の残る浦戸を、実に嬉しそうな顔で可愛がるナハトの姿があった。

　そんな管理人から渡された屋上の鍵。たまに見て異常がないかをチェックする、という名目こそあれど実質好きに使っていいと言われているようなもので。二人はよく屋上に上がっている。

　夕暮れの屋上。そこに二つの影が並んで、備え付けの色褪せたベンチに座っている。

　空には夜と夕焼けが広がっていた。浦戸には夕陽が当たり、赤く染まって見える。彼の影になっているナハトの上には夜空が広がっている。西へ沈んでゆく太陽が、まるで最後の抵抗だとでも言わんばかりに空を赤く紅く染める。だがしかし、すでに空のほとんどは黒い夜の闇に覆わている。じわりじわりと押されていく夕陽を、忌々しそうにナハトは睨んでいた。とうとう夕陽が空から完膚なきまでに追い出されると、即座にご機嫌になって勢いよくベンチから立ち上がる。

「ほら見て！」

　彼女の指差す先へ顔を向ける。満ちきった月がその全貌を誇らしげに夜空に掲げている。星々はその輝きにひれ伏すようにその姿を隠し、まるで月だけが夜空というステージに立っているようだ。月の光を全身で浴びるように、少女は大きくその身を伸ばした。夜の闇と同じ色の裾が揺れて紛れて見えなくなる。愛らしい顔と細い手足だけが夜の闇から抜け出している。

　まるで夜の闇を着ているようだと浦戸は思った。

「綺麗な月だな…。」

「えぇ、本当に！」

　楽しげな少女を見ていると、男の表情も自然と笑顔へと変わっていく。そして、何かを思いついた男は一つ咳払いをしてから真剣な面持ちで口を開いた。

「……月が、綺麗ですね。」

　月を見ていたナハトが振り返った。ベンチに座る男に飛び乗って、男の胸にしなだれかかる。男の耳に少女は顔を寄せて、答えを言った。

「私、死んだっていいわ。」

　少女が耳から顔を離す。するとナハトと浦戸が互いの顔を見つめ合った。少し照れのある笑顔と喜びと興奮に染まった顔。どちらともなく二人の陰は重なった。啄むような口付けを何度も繰り返して。それが終わった時、浦戸は少しだけ寂しそうに口を開いた。

「俺のが先だろうな。」

　吸血鬼の一生は、永い。一つの文明が始まり滅ぶまで寄り添った者もいるという。それと比べれば人との生活は花火のように短い瞬間だろう。

　そんな男をナハトが見つめる。その顔に浮かぶのは母親のような優しい顔でも、姉のような奔放な顔でも、妹のような無遠慮な顔でも、娘のように甘える顔でもない。妻のような理解ある顔でも、恋人のような蕩けた顔でも、愛に溺れたような顔でもない。

　男を見つめる蒼白な顔に艶やかな黒髪がかかっている。月光が空から彼女を照らし、その眼の中に浦戸は自分の顔を見た。どうしようもないほどに彼女に惹かれる男の顔だ。

「このまま、屋上にいましょうか。あなたの首に私が噛み付いて、日が出るまでずうっと。」

　ナハトの指先がそっと浦戸の首筋に触れた。生命の鼓動が指から伝わる。この律動が止まるまで、そして自身の身が溶けるまで。それでも、ナハトは構わなかった。

　浦戸の手がナハトの腰に回された。二人の体が触れ合う、夜風も彼女の体も冷たい。同じように冷たくなるのも悪くない。浦戸弦はそう考えていた。

　思い詰めたような二人の表情が破顔した。

「まだいいかな。」

「そうね、まだいいわ。」

　コロコロ笑うナハトが浦戸の膝の上でくるりと回る。彼の背中を背もたれのようにして、彼の太ももを台座にして。少女はとても座り心地の良い椅子に腰掛けた。

「もういいかって思ったら言うよ。それまでゆっくりしようぜ。」

「ずぅーっと一緒ね。」

　死んだくらいで離しはしないけれど。とナハトが言った。心の底からの言葉だと浦戸にはよく分かっていた。

(吸血鬼って……やっぱ不器用だな。)

　人間を遥かに凌ぐ生き物。それが吸血鬼だ。だが彼らは人間がいなければ子孫を作ることすら出来ない。また、不老長寿であるが死なないわけでもないのだ。身動きの取れないようにして、太陽の下に置いておけばいい。そこまでが難しくとも、それさえできれば、ただの大学教授でも殺すことができる。

　あるいは、吸血鬼自ら命を断つことも。

　だからこそ吸血鬼は縁を求める。家族を、姉妹を、兄弟を、愛する人を。例え吸血鬼であっても、孤独に生きてゆくのにはこの世界は辛すぎる。寄り添い合って眠りにつけるような、そんな誰かを探している。見つけたとしても、その誰かに遺されてしまう。そしてまた誰かを求めるのか、あるいは歩みを止めてしまうのか。

　吸血鬼も人間と何の変わりはない。同じように彷徨い歩く存在にすぎない。そう考えると、死という終わりが人よりも遠い彼らは、その永い永い道程を何を持って行けばいいのだろうか。遠い思い出が重い枷となり、希望が絶望となり、死は苦痛を伴う。人ならば身体が耐えることのできない年月を、彼らは容易に耐え抜いてしまう。

　上機嫌に聞き慣れた、聞いたことのない言葉の歌をナハトが口ずさんだ。

　いつか、聞いたことがあった。彼女がどんな人生を歩んできたのかを。長い話を聞いた。いい話ばかりではなく、むしろ、かつて彼女は人間の敵ですらあった。しかし、浦戸には怯えながら悪行を告解する少女の震える肩を抱きとめる以外の選択肢を選べなかった。既に罰はもう十分に受けていたのだ。気が狂うほど幽閉され、その身を切り刻まれ、親しいものは死に。ただ一人で永劫を背負う彼女に、これ以上何を持たせろというのか。罪も罰も彼女はすでに十分に持っている。だから浦戸は彼女と一つ約束をした。そして寄り添い生きようと決めたのだ。

「ねぇ。」

「ん？」

　ナハトが浦戸の胸に頭を当てて見上げる。

「永久の夜闇に。夜の女王の御座に。健やかなる時。病める時。喜びの時。悲しみの時。富める時。貧しき時。互いに愛し、敬い、慰め、助け、死が二人に訪れるまで、真心を尽くすことを。

　誓ってくれますか？」

　浦戸はナハトの小さな手をしっかりと握った。

「永久の夜闇に。夜の女王の御座に。太陽には日傘を。流水には自転車を。君には血を。良い時も悪い時もそうでない時も。死が二人に訪れるまで、愛し慈しみ合うことを。ここに誓います。」

　二つの影がそっと離れた。立ち上がって向かい合い、再び影が重なり合った。何度目かの二人だけの誓約式を、月だけが眺めていた。月は無関心に光だけを贈り、星々は微かな明滅を贈る。永い永い誓いの接吻に目もくれず、月は空で輝いていた。