第6話いつもの週末と吸血鬼

 耳元から不快な電子音が響く。

重い目蓋を開くと、枕元で嫌な音を響かせる目覚まし時計が目に入った。蛍光板は朝八時半と表示している。

(八時に出社、準備に十分、移動が二十分…後…あ、と…。)

 血の気が引いた。一瞬で冷めた思考。浦戸は慌てて跳ね起きる。まず携帯を探した。ベッドの横のサイドテーブルの上。即座に起動する。着信履歴から仕事先の番号を探し。謝罪の言葉を考えながら着信をかけようとしたその時。

 ナハトの呑気な声がかかった。

「……何してるの?」

「仕事先に電話。あー、くそっ寝坊しちまった…。」

「休出だったの?」

「あ?休し……あ!」

 手元の携帯には日曜日と表示されている。念のため予定を確認するが、何の予定もなく真っさらであった。なんとも言えない徒労感が全身に襲かかり、浦戸はベッドの上に逆戻りした。

「なんだよ…あー…良かった。

朝から肝が冷えたぜ。」

「ならちょうど暖かい御飯が用意できてるわよ?」

 言われて気付いたがいい匂いがする。浦戸の嗅覚が正しければ食卓には恐らく…レバニラ、ほうれん草のおひたし、味噌汁、炊きたての御飯。腹の虫が哀れな鳴き声を上げるとナハトは嬉しそうに笑った。

 人間は吸血された後、その身体は血を求める。普段はあまり好きではないレバーも、血を吸われた後の浦戸にとっては垂涎のごちそうであった。味噌汁もいい。浦戸が好きな具が揃っていた。細切りの大根が入っていない味噌汁を彼は味噌汁と認めたくない。そして正面にナハトが座っていた。

 手料理を振る舞うときのナハトはいつもこうだ。正面に座ってやや緊張した面持ちで食事する浦戸を見つめる。吸血鬼ゆえ味見の出来ない彼女は複雑な調理が出来ない。味見や匂いでの味の調整が出来ないからだ。彼女からすれば人間の食料は砂と泥のようなもので、それだけならばまだしも、彼女には毒にすらなりうる。しかし、調味料と電子レンジ、そして愛情があればおよそ調理不可能な料理はなかった。

「ねぇ、今日の料理の出来は?」

「ん~百点!」

「最近はいつもそれね。」

「美味しんだからしょうがないだろ。」

 言葉は不満気だが、実に嬉しそうな顔である。見た目相応の童女のようなたまらなく愛らしい笑顔。一緒に生活し始めたばかりの頃は米すら炊けなかった彼女だが。今では文明の利器と日夜の努力によって素晴らしい腕前となっている。

 ナハトの笑顔が不意に老獪なものへと変わった。半月状に持ち上がる口端。策謀を巡らせる暗い瞳。その愛らしい口から出る声は先程までと変わらない。

「人間の血液が入れ替わるのが大体四ヶ月かかるのよね。」

「へぇ、そうなのか。」

「全身が入れ替わるのが六年くらいなの。」

 そう言って、ナハトがテーブルの上に身を乗り出してくる。浦戸の頬に手を当てて、まるで脆い物を愛でるように優しく。

「貴方の全部が私だけで出来ていればいいのに。

食べるものも、飲むものも、吸うものも、貴方の身体の中に入るもの全てが私だったら…。」

 夜の闇よりなお昏いその瞳に浦戸が映っていた。同じように浦戸の瞳には堪えきれないものに耐えようとするナハトが映っていた。彼女の全てが彼の中に。彼の全てが彼女の中に。無限に続く合わせ鏡の中に二人が閉じ込められて。きっとそれは幸せだけがある世界。

 だからこそ、二人はそこに行かない。

「ご飯、冷めちゃうわね。早く食べちゃって!」

「あぁ、分かったよ。」

 いつでもいけるならいきたい時にいこうと二人は決めていた。それがどこであっても、二人が並んでさえいればいいのだから。結局はどこも変わらないのだし。 


「ご馳走様でした。」

「お粗末様でした。

片付けておくからゆっくりしてて。」

「あぁ、ありがとな。」

 笑顔で返事をするナハトを浦戸は座ったまま見送った。珍しく彼女は服を着ていた。近くのスーパーで売っていた濃い青のエプロンを無造作に纏っている。紐が緩く縛ってあるのか、それとも彼女の体格からか、動く度にその肢体を垣間見ることが出来る。尚後ろから見ると彼女の背面は黒髪が絹のように覆っている。

(後ろから…いや、横からも良いな…。)

 いつまで経っても飽きることのない少女の身体を眺める。垣間見える幼い肢体からは信じられないほどの力を持つ彼女であるが。こうして見る限りではやはりただの子供だ。あの身体に思う様組み伏せられ、もしくはあの身体を乱暴に組み伏せる。互いに貪り合った夜が嘘だったかのように、純粋で無垢すら感じる姿だ。

 浦戸とナハトの休日の朝はこうして始まった。

 じゃんけんで順番を決めて。適当な映画を観て。お腹が空けば適当につまんで。気が付けばお昼の時間だ。しかし、ほとんど腹は減っていない。ありあわせのサラダとスープを用意して、画面の前に二人揃って映画の続きを。続けて三本ほど観終わると、疲れた二人はベッドの上で寝転がる。ナハトが浦戸を枕代わりにすれば、浦戸はナハトを布団代わりにする。結局二人共仰向けで眠ることにした。薄手のブランケットが二人を橋渡し、冷えないようにと臍を隠す。その下では彼の左手と彼女の右手がしっかりと絡み合って繋がっている。並んだ寝息が静かな室内に響いた。


 欠伸を噛み殺しながら目を開けたのは浦戸だった。少し体が冷えている。どうやらブランケットが何処かに行ってしまったようだ。探してみれば、足元の方に無残に丸まったブランケットが見える。そして、まだ暢気に眠っているナハトが男の左腕を抱きしめていた。夏にはちょうどいい彼女の体温も、この時期には少々厳しいものがある。時計を見ればもう夕暮れ時であった。彼女を起こそうと声をかけて揺さぶるが、ナハトはますます腕にしがみついてくる。潜り込むように深く深く抱きついてくる、寝起きの悪い彼女を抱き上げた。左腕で持ち上げて右腕で下から支える。見た目相応通り、いやそれ以上に彼女は軽かった。羽根のように軽い身体を抱え上げてリビングへ向かう。電気の消えたリビングには夕陽が微かに差し込んでいる。光に背を向けて適当に座る。胡座の上に乗って幸せそうに眠る少女へ声をかける。

「ほら、いい加減起きろって。」

「む~…あと三年…。」

 浦戸は彼女が起きるまでの代金として、その柔らかな頬をいじることにした。

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