第4話午後の吸血鬼

『――吸血鬼は血を吸う鬼である。不浄や穢れとも揶揄される血。それだけを求める悪魔の具現。それが吸血鬼である。

頻度はおおよそ一日に一度。吸い出す量は最大二百ミリリットル。吸血鬼にとって同族の血や、人間の食料は味も食感も最悪で、酷いときにはアレルギーすら引き起こすので、吸血鬼の飼い主は定期的に血液を搾り取られることとなる。

 余談だが、吸血の前に吸血鬼は、吸血場所を麻酔効果のある唾液をしっかりと絡めた舌で、舐めしゃぶる習性を持つのだが。蚊みたいだね、というと非常に怒るので要注意である。著者はその怒りを鎮めるために海外の行楽施設にまで遠征することになった。

 How to live with 吸血鬼 著 蓮錬羽』


 浦戸弦は夢の中にいた。暖かな浜辺だ。寄せて返す波にその身を浸している。かすかな刺激が皮膚の上を走っていき、さっと引いてゆく。繰り返す微弱な感覚はもどかしいほどに浦戸の知覚を刺激する。霧に包まれたように覚束ない思考の中で、僅かな快楽だけを感じながら暖かい海に浸る。波が来れば暖かく、波が引けば少しだけ寒い、しかしすぐに波が戻ってきて。快楽も苦痛も暖かさも寒さも、あらゆる刺激が、ほんの少しだけの刺激が、男を包んでいる。

「………ん………!」

 声が、聞こえた。唯一置いてけぼりにされている頭の上からだ。目を向けても暗幕のような闇だけがそこにある。考えることもしない脳が快楽に浸り続けることを望んだ。

「……ぇん……!」

 声が近くになる。煩わしさを感じた脳がその声の主を探し求める。正面の上も下も右も左も見たが光のない闇だけが目に映る。脳は何かを結論付けようとして押し返す漣がそれを流し去った。

「弦!」

 突然目の前に青白い月が現れた。闇にあって尚輝く黒耀石のような瞳のナハト。

「うおっ!」

 驚いた浦戸は勢いよく上体を起こした。二人の額と額が急速に近付く。

「「あだっ!」」

 鈍い音が部屋に響いたのであった。

「あたた…。ごめんな。ナハト…呼んでたんだな。」

「えぇ、何度も。

…ねぇ、大丈夫なの?無理してない?」

「大丈夫だよ。」

 浦戸は自分の腕を見る。家庭用血液製剤キットのチューブが上腕動脈に挿入されている。マスキングテープでしっかりと固定されたチューブには赤い血が流れて、専用の血液パックに流れ込んでいる。パックには減圧処理がなされており、必要量の血液が溜まると圧力がかからなくなり血の吸引が終わる仕組みだ。

―吸血鬼は生きるために血を必要とする。そして、吸血というのは、単なる栄養補給にとどまらず、吸血鬼と人間とのコミュニケーションの一つでもある。例えるならば、犬を散歩に連れて行くようなものだ。しかし、浦戸は残業などもあるため吸血できない日がある。そのために予め血液パックを用意する必要があるのだ。

 どうやら、血を吸い出している間に微睡んでしまっていたらしい。

 ナハトが浦戸の血を吸い出されている腕を撫でている。上から見下ろしている彼女の顔は、まるで怒られる前の子供だった。どうやら膝枕されているらしい。浦戸の頭の下には柔らかで冷たい少女の太腿を感じる。

 曖昧な意識が血液は全身をくまなく巡る血管にエネルギーを酸素を送り届け不要物を二酸化炭素を引き取り帰る心臓は血液を押し出し引き戻し肺は酸素と二酸化炭素を交換し死ぬまで終わらない生の律動を続ける。途中で寸断された分、脳は混乱したように目眩を起こして知覚は鈍く思考は拙く頭の後ろが冷たく見上げる彼女は哀しそうで哀しそうで哀しそうでどうになにか伝えようと考えるが頭が血が足りなくてどうにか口を動かして。

「泣くなよ、ナハト。」

「泣いてないわ。」

 動かせる方の手で浦戸はナハトの頬を触る。冷たい。手が首筋へと進む。脈拍を感じない。胸元に当てる。鼓動を感じない。ナハトは抱き締めるようにその手を包み込んだ。

「弦は暖かいね。」

 男は何か答えようとした。言葉が浮かばなかった。代わりに表情を動かした。

 ナハトは何かを口にしようとして、その目が献血中のチューブに止まった。

「終わったみたいね。抜いておくわよ?」

「頼んだ。」

 それだけ絞り出して目を閉じた。

「ねぇ、晩御飯、何食べたい?」

「肉と………肉。」

「分かったわ。出来るまで…休んでて。」

 頭の下に枕が置かれ、体の上に布団がかけられた。押し寄せる睡魔に抗うこと無く、浦戸は意識を手放した。

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