第3話休日の朝の吸血鬼
着信音が真っ暗な寝室に鳴り響いた。布団から這い出した右腕がサイドボードの上を彷徨い、振動しながら着信音を鳴らす携帯に辿り着く。男は寝ぼけた頭のまま携帯を掴んで耳元に当てる。
「はい、浦戸です…。」
『あ、もしもし。寝てた?ごめんごめん、でさー今日飲みいかね?』
「あー…あぁ?今日?」
『そうそう。で、それまでなんかして遊ぼうぜ。』
「…ちょっと待ってくれ。」
浦戸は予定を確認するために、寝ぼけたままの頭が携帯を探してベッド上を目と左手で探索している。手がベッドの端まで行った辺りで何者かによって捕獲されてしまった。男がそちらに顔を向けると、何かが飛びかかってきて唇に噛み付いてきた。
熱い舌が無理矢理に唇を、歯を開かせて口腔内に侵入してくる。歯を一本一本磨き上げるかのように、熱い蛞蝓ようなものが這い回る。彼女から送り込まれる熱い吐息が肺いっぱいに流し込まれていく。甘いものが気道から肺へ、肺から脳へと到達し、意識が覚醒し始める。生理的反射で動き出した男の舌は蛞蝓に容易く捕らえた。舌尖が嫐るように弄ばれる。かと思うと舌根までつつつと進み、ひらりとその姿を消す。所在なさげに残された舌がまたすぐに捕まり、先程より激しく襲われる。彼女から施された唾液を赤子のように飲み干して、彼女の思うがままに口腔内を蹂躙され、彼女に与えられた吐息だけを吸わされる。
そんな幸福が不意に終わった。
携帯の液晶からの光が、黒い少女を照らしていた。男の肩に両手をかけて、その開いた口から赤い舌が見える。男と少女の間を繋ぐ銀の橋が光できらめいている。少女は男の手から携帯をつまみ上げた。
「もしもし?」
『おっ!ナハトちゃんじゃーん!俺だよ俺!』
「あぁ…中野さん。」
『中野でいいよ中野で。あ!
「それで中野さん、今日のご用件は?」
『飲み行かない?あ、
ナハトは喋り続ける画面を遠ざけて男の耳に囁く。
「宅飲みだって。今日予定はないけれど?」
浦戸は考えた。だが蕩けた頭が上手く動かない。ようやく出た結論は二つ。あの二人と飲みたい。そして、ナハトと一緒にいたい。
「ナハトは?」
「そうね、夜なら構わないわ。」
「じゃ、それで。」
男が伸びをしながらベッドを降りた。その後ろから喋る少女の声が聞こえた。
休日にすることはあまり無い。たまに友人と旅行するくらいだが、年々回数は減っている。浦戸とナハトの二人で遠出というのも、浦戸は車を持っていないし、ペーパードライバーなので運転する気もないのでほとんどない。実はナハトが運転できるのだが、法律上運転免許証を持つことができないので無理。日差しの問題もある。それでも月に一度は電車に乗って近くの温泉地に行く。それが習慣になりつつある二人の生活であった。
男がシャワーを浴びて戻ってくると、通話が終わったナハトが飛び付いて来た。
「おかえり。はい、これ。」
そう言って携帯を渡された。メールが八件。メルマガと通知だった。
「おはよう、ナハト。」
「おはよう、弦。」
遅い朝食を済ませた浦戸がテレビ台を動かす。寝室に画面を向けてPCを接続。会員制のページに飛び、ずらりと並ぶ映画のタイトルを眺める。結局男はオススメされている映画野中から邦画を選んだ。漫画が原作の映画で評判はかなり悪く星一つが並んでいる。が、浦戸はそういう映画が結構好きだ。こういう映画を仲の良い相手と休日にダラダラ見るのはピッタリだと彼は考えている。
寝室では分厚い遮光カーテンが風に揺れていた。蛍光灯で照らされた室内はほとんどベッドに占領されている。
「まーた変な映画見るー。」
不満そうな声がベッドの上から上がる。裸のまま長い黒髪をベッドに広げ、両肘を付いた上に顔を乗せている。持ち上がった白く細い足が揺れている。
「いいじゃないか。どうせ何本か見るんだし。」
浦戸が準備を終えると画面一杯に配給会社のマークが掲げられる。いそいそとベッドの上に急ぐ。ヘッドボードと壁を背もたれ代わりにして、たっぷり一メートル以上画面から離れて映画を観る体勢を整えた。
ナハトはというと、浦戸を背もたれ代わりにして足の間にその腰を落ち着けた。
「そういえば何時からになったんだ?」
画面の向こうでは人々が恐ろしい吸血鬼から逃げ惑っている。野良着で編笠を被って鍬や鎌で武装した吸血鬼たちが一人、また一人と人間を捕まえていく。
「八時から。だから…七時過ぎには出ましょ。」
音楽が変わる。丸太を持った主人公達が現れて吸血鬼を撃破していく。巨大な丸太を片手で自在に操り鍬や鎌を弾き飛ばし、心臓を、頭を文字通り潰して回る。軽快な音楽が終わる頃には動いているのは主人公達と生き残った一人のサラリーマン風の男だけであった。
「七時か…どこの店?」
「宮原くんの家だそうよ。」
「宅飲みか。」
緊張感のある音楽。女性がサラリーマンの元に走る。助かったはずのサラリーマンが顔を上げる。その顔は白く、口からは牙が。吸血鬼となったサラリーマンが女性を襲うべく飛びかかる。
瞬間、丸太がその頭を圧し潰した。
重々しい雰囲気の中主人公達が戻っていく。カメラが彼らから後方へ離れる。赤い花咲く林へ、竹藪へ、寂れた町並みへ、鉱山へ、そして島の全景へ。
「じゃ、腹に入れてから行くか。」
「そうね。何が良い?
ちなみに冷蔵庫には冷蔵のハンバーグとお米と卵とチャーシューと…ハムがあるわ。それとレバー。」
「…炒飯。」
「炒飯とレバーの甘辛煮ね。」
映画ではちょうど吸血鬼が丸太でまっ二つに引き裂かれて内臓がばらまかれたところであった。
「頼んだ。」
「えぇ。じゃお腹空いたら言ってね。作るから。」
映画は続く。前評判の通り原作の味を完全に潰してはいるが、所々入るアクションシーンは邦画にしては珍しくゴアなシーンが多く、楽しめる。浦戸は視線を落としてナハトの頭を眺める。
不思議なほどに彼女は吸血鬼の出る作品を忌避しない。一度浦戸が彼女に聞いてみたところ。
「それを言うなら人間だって映画の中で殺人鬼にもなるし、ヒーローにもなるでしょう?」
と言われたのであった。気を遣う必要がないと分かってからは二人で観る映画の種類と数がずいぶん増えた。浦戸は自分の好きな映画を選ぶ。無茶苦茶な展開の映画。名作をパロディしたコメディ映画。人と他の生き物の友情映画。ナハトも好きな映画を選ぶ。ラブロマンス物であれば異性同性ゾンビ動物吸血鬼なんでも観る。ゴア表現の多いスプラッター映画。愛と勇気の物語。
二人が楽しめるものもあれば、趣味が合わないものもある。だが、一緒に映画を観ることは辞めない。文句をつけて、言い合いをして、そしてまた映画を観る。それが二人のコミュニケーションであった。アレが好きだ。コレが嫌いだ。でもこういうのは良い。お互いのことを知ることができ、映画も観れるので、二人に合っていた。
そうして二人は時間が来るまで、寄り添いながら映画に浸った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます