第2話日常に潜む脅威と吸血鬼

 『―吸血鬼は非常に強力な生物である。彼らは一般的に原種、混合種として区別される。原種に近いほど伝承通りの力を発揮する。

 人間の十倍近い握力、心臓や脳といった重要部位ですら修復する回復力、速力、自由に姿を変える能力、光に依らない視力、数え出せばキリはない。

 人類が遭遇した中で最も原種に近いと言われるエリザベス・フルシュトは世界保健機関WHOの特殊生物部門の長としてヒトの側で同族の保護を責務としている。好んで三十代の精悍な男性に姿を変える彼女は、記録のための身体能力測定の際にこう言った。

「測れないものを測れるように。」

 彼女は彼女のために用意された全て測定器具で、全て測定不能という結果を叩き出した。それ以降、彼女のために測定器具が毎年新調され、その全容を暴くために世界中の企業と研究機関が活動を行っている。

 しかし、その全貌は未だ知れていない。

 また、彼女ほどではないが原種に近い吸血鬼達による特殊部隊が先進国には存在している。血塗れ帽子ブラッドキャップと呼ばれる彼らは国家の安寧のために活躍している。

 では、混合種はどうか。一般的に吸血鬼の遺伝子が三割を超えると原種と呼ばれ、それ以下は混合種と呼ばれる。産まれ方は人類との交雑によって、極稀に人間か吸血鬼が妊娠することがあり、その結果産まれる胎児は吸血鬼としての形質を持つ。その遺伝子を検査することで混合種か原種かを調べることが出来る。とはいえ極稀な先祖返りを除いて、少し身体能力が高い程度でしかない。また、混合種は血を吸うこともなく、人間の食事でしか栄養を補給できず、一般的な人間と変わらない存在であるといえる。

 かつては、吸血鬼との間の子供を鬼子と呼び。中世の魔女狩りのようなことや、差別などもあったが。現在ではプロのスポーツ選手になっている混合種も数多く存在する。

 そもそも、全世界に七万いる吸血鬼の中で三割を超える原種は百に満たず。その中で七割もの純血を保っているのはエリザベス・フルシュトのみであり、殆どは五割すら超えていない。

 それでも彼らを恐れる者は多いが。現代においては、単純な数の暴力、発達した武器、これらによってもはや吸血鬼は恐れる対象ではなく、むしろ保護する対象ですらあるのだ。

 過去二度の大戦によって彼らの数は急激に減少し、オランダでの吸血鬼人権裁判以降、世界的に彼らを保護、共生する活動が起こっている。日本でも愛玩生物保護法が制定され先進各国ではスポーツ選手や歌手、役者などに彼らの姿を見ることが出来る。

 彼らは恐ろしい怪物ではなく、この地球に共に住んでいる仲間であるのだ。

 吸血鬼近代論 トマス・G・バートン』


 午後五時四十五分。早帰りで会社の外に出ると勢いの良い雨が降っていた。

「雨かぁ…。」

 まるでその言葉を待っていたかのように携帯が鳴り出す。男が懐から携帯を取り出して開けば、液晶にはナハトの文字、予想通りの相手からの着信だ。

「もしもし?」

『あ、良かった。仕事終わってた?アパートの近くのスーパーマルシアにいるから。』

 吸血鬼は流れる水を渡ることはできない。彼女の数多い欠点の一つである。

「あぁ、すぐに行くよ。」

 常備している折りたたみの傘を広げて、荷物になった自転車を押していく。予想外の強い雨であった。ゲリラ豪雨の中、スニーカーに染み込む雨水に耐えながら進む。男の願いはただ一つであった。

(頼むから家に着くまで止むなよ…雨…。)


 スーパーマルシアは男とナハトの住むアパートから徒歩一分の場所にある。道路を一本超えればマルシアに着くのだ。しかし、逆に言うのならばその道路を超えねば、マルシアにもアパートにも辿り着くことは出来ない。一度雨が降れば流れる雨水が壁となって、少女は道路を通ることができなくなってしまうのだ。そのため、入念な天気予報のチェックを欠かすことは出来ない。

 だが、最も難しい問題はゲリラ豪雨によって身動きが取れないことではない。

 スーパーマルシアが男の視界に入る。自転車を引っ張りながら歩いている最中に雨は上がっていて、重苦しい雲が空にたてこめている。

(なんとか間に合ったか。)

 スーパーマルシアの前、自動ドアの横で買い物袋をぶら下げたナハトが立っていた。曇りということで手足の出た服装だ。とはいえ、日焼け止めクリームを塗っているので直射日光であれば傷つくことはない。こちらに気が付いたのか、空いた手を大きく振っている。

 応えるように手を振ろうとして、男は一条の日差しに気が付いた。切れ目から真っ直ぐに伸びる夕陽が、激しく振られる彼女の白い腕に命中する。

「あっ。」

 こぼれた声は悲鳴へと変わり、夕方の閑静な住宅街で甲高い悲鳴が上がった。

 すぐさまナハトの側に駆けつける。赤く染まった肌が痛々しい。

「大丈夫…か?」

「大丈夫…な…わけ…ないでしょぉ~。」

 涙目でナハトが縋り付いてくる。遮光性の高い黒の折りたたみ傘を彼女の側で広げて日差しを遮る。

吸血鬼は日光を浴びると死ぬ。専用の日焼け止めクリームで軽減しているとはいえ、その痛みは激しく。本人曰く、箪笥の角に小指の爪の間を突き刺したような痛みらしい。彼女を抱き上げてその背を撫でて慰める。小さな身体を震わせて健気にその痛みに耐えている。

「ほら、荷物くれ。カゴに入れとくよ。早く戻って手当しよう。」

「うぅ…いたぁい…。」

 ナハトが荷台に腰掛けさせる。痛々しく赤く腫れた左腕をおさえながら、空いた手に渡された傘を広げて日差しを防いでいる。それを確認してから男は自転車を押した。流れる水をナハト自身が渡ることはできないが、乗り物に乗っていれば、アスファルトの上に流れる水くらいならなんとかなるのだ。


 アパートに着いて自転車を所定の場所に止めるとナハトを抱き上げた。ここからの乗り物は男自身である。自分の荷物に買い物袋、そしてナハトの三つを抱えながら部屋へと向かう。

 自室に戻り、スイッチを入れると電気がつく。電灯の下でようやく息をついた。

「ナハト、大丈夫か?」

「えぇ、もう治ったわ…。まだちょっとヒリヒリするけど。」

 ナハトが言うように、もう左腕に腫れも痕もない。日光は彼女を痛めつけるが、日さえ当たらなければ数分で治る。

「一応痛み止め塗っておくか。」

「いいわよ。こんなの大したことじゃないわ。」

「いいから、腕出せって。」

 男が救急箱を持って来ると、大人しくナハトは左腕を伸ばした。もうどこが赤く腫れていたのかも分からないほど、真っ白で華奢な腕だ。とはいえ、念のためにしっかりと痛み止めをしっかりと塗っていく。

 ――吸血鬼の弱点は多い。日光を浴びると死ぬ。炎に焼かれると死ぬ。ニンニクの匂いで吐く。更に食べると酷いアレルギーを起こす。流水を自分で渡ることができない。中に誰かがいる場合、招かれないと入ることができない。

 また、その吸血鬼の信教によっては十字架や数珠で身動きが取れなくなるし、鏡に映らないというやつもいる。ちなみにナハトは着ている服だけが映る。ちょっとした透明人間、いや吸血鬼だ。

「……よし、これで大丈夫だろ。」

「全く、心配症なんだから弦ったら…。」

 男―浦戸弦ウラトゲン―は膨れる頬をつついた。柔らかく、ふにふにとして、冷たい頬だった。

(温まるまでつついてやろうかな。)

 その考えを読んだかのようにナハトはするりと弦から離れた。そして少し距離を取ると肩越しに振り返る。

「ほら、何してるの?

身体が冷えてるじゃないシャワー浴びてきなさい。」

「あぁ、分かったよ。」

「その前にその濡れた服をさっさと脱ぐ!」

「はいはい…そうだ、服を洗濯機に入れた後にさ。」

「お米ならもう炊いてあるわよ?」

「ホント助かるよ。

冷蔵庫にハンバーグ入ってるから電子レンジで温めといてくれるか?」

「分かったわ。」

 頼りになる同居人に濡れた服を預けて風呂場へと向かった。

「ちょっと。」

 その背中に声をかけられて男が振り向く。ふかふかのバスタオルが飛び込んできた。男は難なく受け取った。

「ありがと。」

「いいのよ。」

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