第10話 吸血鬼の留守番

 玄関口で革靴に自分の足を押し込んでいる男がいた。

 半袖のワイシャツを着た青年と言うには老いていて、壮年というには若い男であった。最低限の清潔さだけを感じる髪、どこにでもいそうな顔。それと、しっかりと手入れのされたワイシャツとスーツのズボン。男は靴を履き終わると愛用の鞄と、ゴミ袋を引っ掴んで室内へと顔を向けた。

「じゃあ、ナハト。また夜にな。」

 ナハトと呼ばれた少女が笑顔で手を振る。身長は百三十を少し超えたくらい、小学生高学年程の体格の少女だ。彼女はオーバーサイズのジャージを着ている。黒地に蛍光の白いラインが入った上下揃いのジャージで、男が普段寝間着代わりにしているものであるが、今は彼女の物のようだ。なだらかな肢体は、床に届くほど長い艶めく黒髪と、羽織っただけのジャージの上がどうにか隠している。彼女はその下に何も着ていないのだ。

「えぇ、いってらっしゃい。

気を付けてね?」

 返事代わりに浦戸弦うらと げんが鞄を持っていない方の手を上げる。その姿が扉から見えなくなるまで見送りると、ナハトは部屋の鍵をしっかり掛けた。ナハトは大きく背伸びをして、身体中に残っていた眠気を肺に集め、吐き出した。すっきりとした頭を回して今日の予定を組み上げる。

「さてまずは……布団からね。」

 そう言うとナハトはまずベッドルームへと足を向けた。


 ナハトは吸血鬼である。日本の法律によって第二種吸血鬼として認定され、現在は浦戸弦によって飼われている。しかし二人の関係は飼い主とペットというよりは、恋人であり家族であるようなもの。ナハトが妹のように甘えたかと思えば、弦が子供のように甘え、互いのことを見つめ合う視線は熱いが、家計簿を眺めるナハトの頭は冷静で、そんな彼女のために弦がプレゼントを買えば、ナハトは嬉しさ半分、出費の悲しみ半分。そんな二人だ。

 少女がその手を壁に添わせながら歩くと、壁紙が揺れる。いや、そうではない。黒い細い糸のようなものが滲み出るように壁から天井から床から表れ、振動しているのだ。結果、部屋中の埃や汚れが剥離して部屋の一箇所に集められていく。

 そして部屋の様子だけでなく、少女の姿も変わっていた。身長が伸び、肢体は肉付きの良いモノへと変貌する。一瞬で三十センチほど身長を伸ばし、中学生か高校生くらいになった少女。それでもやや大きなジャージの前をしっかりと閉じて、ベッドの上の物をベランダへ次々と干していく。

  彼女は特に吸血鬼の持つ変化に長けており、特に姿を変えるだけでなく、その一部である髪を自在に扱うことができる。ある程度の量さえあれば本体であるナハトから距離があっても問題なく使うこともできる。この異能ともいえる能力はほとんど、部屋の掃除の手間を減らすためと弦のために使われている。彼のワイシャツやスーツは彼女の髪が忍ばせてあり、普段は大雑把な位置をナハトに伝えるだけだが、緊急時にはその身を守ったり、軽い怪我ならば圧迫したり包帯代わりになったりすることもできる。ちなみに、このことは弦もきちんとナハトに説明されて知っている。とはいえ、彼女を知るものが。例えば"赤"辺りが耳にすれば、正気を確認した後に今歴最大級に笑うであろう。

 登ったばかりの太陽はまだベランダを照らしておらず、今ならば専用の日焼け止めの上からとはいえ嫌な陽射しを受けることはない。

「さてシーツは……

…昨日の匂いが染み付いてる………洗濯ね。」

 二人の愛情の跡が残る厚手のシーツを片手に持ち、ついでに汚れた衣服の入った籠をリビングから拾い、洗濯機へと向かう。室内にある洗濯機に洗い物を入れていく。ふと、男物の下着を手に取った。白いTシャツは別で洗うので一旦退かし、トランクスを両手で広げて持つ。

 少女は悩んだ。心の中の天秤が揺れる。凡そ日が沈むまでの時間、浦戸弦が帰ってくるまでに、これは彼女にとって必要になるだろうか。洗濯機をもう一度回すべきだろうか。

 たっぷり熟慮した結果、トランクスは洗濯機の中へと入れられた。

「…………………うん。今日は止めておきましょう。」

 ナニを止めたのかは弦すら知らない、彼女の最重要秘密トップシークレットである。

 最後に洗剤を適量入れて洗濯機のスイッチを押した。室内が喧騒に包まれる。部屋中の壁から響く振動音、洗濯機の駆動音。もう聞き慣れた音だ。

 ナハトが洗濯機の横にかけてあったゴム手袋を嫌そうな顔で掴む。

「排水口の掃除はいつまで経っても好きになれないわね……。

最も、掃除なんてここに来るまでしたことなんてなかったけれど。」

 可笑しそうに少女が笑った。

 弦に出逢う前は家事は専ら他人に任せていた少女である。吸血鬼の数多い弱点は、水や陽射しと密接に関わる家事に向いているとは到底言えない。またこれまでは使う側の立場に居たため、家事よりもするべきことがあった。

 使い古しの歯ブラシをゴム手袋を付けた手に持ち、排水口を洗いながら少女は思う。

(最初に家事をしたのは暇潰しだった。

そうしたら、帰ってきた弦がやたらと喜んでたのよね。それまでは休みの日に弦がやってるのを私が手伝っていたけど。喜ばれるから私がやるようになって……。料理は確か未来みらが"健康的な方が血が美味しいから"とか言って色々お節介焼かれて、やり出した。

弦不味い物は不味いって言うし、美味しい物は美味しいって言うから。食べたときの嫌そうな顔を少しでも見ないようにするために、喜んでくれたときの嬉しそうな顔をたくさん見たいからやるようになって……。そのせいか血の味で弦の健康状態まで分かるようになったのよね。)

 思わず吹き出してしまう。その手を勤勉に動かしながら頭の中はとりとめもないことを考えていた。

(そういえば今晩はどうしようかしら。冷蔵庫には…。)

 いつの間にか機嫌の良くなった少女の後ろ。

 集められ固められたゴミの塊が動いている。そして床の上に敷き巡らされた髪で作られたトランポリンから跳ね飛ばされ、ゴミ箱へと送り込まれるのであった。


 掃除が終わり、干した布団をひっくり返し、洗い終わった服を干す。時刻は昼を少し回った辺り。吸血鬼にとって最も過ごし辛い時間だ。

 ナハトは厚手のカーテンで保護された室内で、ソファに座って映画を見ていた。テレビ局の流す午後の映画を眺めながら、共用のパソコンを操作している。これまでの献立と栄養などを書き込んだファイルを見て、今夜の献立を決め。家計簿ソフトで今月の予算をチェック。買い揃えて置くものを考えて暇を潰す。

 画面では娘を誘拐された元特殊部隊のコックが、誘拐犯のテロリストを追い込んでいる。山中にあるテロリストのねぐらはもはや壊滅寸前だ。

(私なら、こう……髪を巡らせて……纏めて引っ張って……。)

 突然のコマーシャルで思考が打ち切られる。なんとなく気恥ずかしくなった少女はパソコンを閉じることにした。

 背筋を伸ばしながらカーテン越しに陽射しを見る。吸血鬼の鋭敏な視覚が太陽の姿を確認した。干した洗濯物はまだ回収できないようだ。

「ちょっと早いけど……下拵えしちゃお。

うん、そうしましょう。」


 太陽が地平線に近付き、建物に覆い隠された頃。仕込みも終わって手持ち無沙汰なナハトは近所の図書館から借りてきた本を読んでいた。体躯は朝と同じ小学生高学年くらいに戻っている。彼女にとって最も落ち着く姿だ。

 ソファに寝そべり立てた足を揺らしながら、床に置いた本のページを捲る。とある中国の女王が、政治的に対立した自分の愛する息子を毒殺したシーンだ。少女は脳裏にその情景を浮かばせながら次のページに手をかけた時。テーブルの上に置かれた小型端末からオルゴールの音色が鳴った。

 即座にこちらに戻ってきた少女が、その身を起こし嬉しそうな顔で端末を手に取る。恐らく、尻尾があれば千切れんばかりに振られていただろう。着信主は画面を見なくても分かる。

「弦、どうかしたの?」

 落ち着いた声とは裏腹に、その顔には笑顔が咲いていた。

「うん。

………え、飲み会?ふーん……うん、そう……うん。うん。分かったわ。鍵ちゃんと持ってる?そう。

えぇ。はい。酔っ払っておかしなことしないでね。……ふふ、えぇ、じゃあね。」

 萎れた顔の少女は端末をテーブルの上に戻すと、キッチンへと顔を向けた。不満気なため息をついて、少女は読み途中の本にしおりを挟む。ベッドルームを占拠するベッドの上。干したてでまだ暖かい布団に飛び込んだ。

(今日はまだしばらく独り、ね。)

 より深くへとタオルケットの中へ潜り込もうとする少女。その強固な繭が不意に天井近くまで跳ね上がった。

「………そうだ!

酔い覚まし用に濃い味噌汁作っておきましょ!」

 軽い足取りでベッドから降り立ち、キッチンへと向かう。


 ナハトは知っている。疲れている人間に優しくすれば、相手はその行いの何倍も感謝し。疲れている人間に辛く当たれば、相手はその行いの何十倍も憎むことを。それでなくとも、ナハトは弦を夢中にし続けなければならないのだ。

 なにせ、彼女は男に夢中なのだから。一瞬だって他の相手に目移りする暇を与える気はない。

(………これならアレを持っておけば……ううん、やっぱり本人にして貰いましょ。)

 太陽は沈み、月がその輝きを現す。こうしてまた時間は過ぎていくのであった。

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吸血鬼がいる日常 ノーマッド @No_mad

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