小鳥は怪物に見つからない
陽澄すずめ
小鳥は怪物に見つからない
このエレベーターが、前から苦手だった。
ゴウン、ゴウンと低い唸りを上げながら、とてつもなく遅い速度でこの箱は昇っていく。
幅広の扉はいかにも重く、ひとたび閉まったら二度と開くことはないかのように錯覚する。
古いけれど汚れのひとつもない白の壁に囲まれていると、自分が不純物のように思えてくる。
チン、と音が鳴り、はっと我に返る。
大きな扉が軋みながら開いて、僕は息をつく。
一歩を踏み出し、そこで足を止める。ふと振り返ると、エレベーター背面の鏡に映った自分と目が合った。
なんだか場違いな、スーツ姿の猫背の男。驚くほど顔色が悪く、手にした花束の色もくすんでいる。
ほどなくして扉が閉まり、その冴えない男の姿は見えなくなった。
ナースステーションの中にいた顔見知りの看護師に軽く頭を下げ、僕は冷たい廊下をひたひたと進んでいく。
辺りはぴんと糸が張ったように静まり返っている。少しでも足音を立てたら、見えない怪物に食われてしまいそうだ。だからいつもは足早に行き急ぐのだけれど、今日ばかりは歩みが重い。
できることなら、引き返したい。
その気持ちを胸の中に押し込めて、僕は目的の病室へと向かった。
見慣れたその部屋の扉は、いつもと同じように、わずかの隙間もなく閉ざされていた。
僕は姿勢を正し、扉をノックする。軽く叩いたつもりなのに、コンコンという音はやけに響いた。怪物が僕を飲み込んでくれることを一瞬だけ期待したけれど、もちろんそんなものはいない。
あるのは、静寂の返答だけ。
僕はノブに手を掛け、扉を押し開けた。
あのエレベーターと同じ、汚れひとつない白い病室。
入って左手側に置かれたパイプベッドには、やはり真っ白なシーツが掛かっている。シーツの合間からは痩せた白い腕が覗く。その腕の持ち主は、酸素マスクに顔の半分を覆われた状態で、ゆっくりと、本当にゆっくりと呼吸をしていた。
僕はできるだけ静かに扉を閉め、口元に小さく笑みを作る。
「由衣子、僕だよ」
生命維持装置が、ピッ、ピッとごく控えめな音で命を刻んでいる。僕は口角を上げたまま、ベッドの横のパイプ椅子に腰を下ろし、横たわる彼女の顔を見つめた。
白い頬には血の気がなく、長い睫毛は伏せられたまま、わずかに動くこともない。癖のないまっすぐな黒髪が、眉の上でぴんと切り揃えられていた。最近誰かに切ってもらったのだろう。その髪型は幼いころと同じで、僕はようやく少しだけ頬を緩めることができた。
「由衣子」
もう一度、彼女の名を呼ぶ。だけどその後が続かない。無機質な機械の音が間を埋めていく。
僕は視線を落とす。手にした花束が膝の上に載っていた。
花を活ける場所を探して首を動かす。すると、窓際の小机に置いてある白い鳥籠が目に入る。アンティーク調の、ドーム型の鳥籠。他でもない、僕が由衣子に買ってやったものだ。
僕は立ち上がって窓辺に寄り、鳥籠に触れる。細い針金の上には、うっすらと埃が積もっている。
その鳥籠は、もう十年も前から空っぽだった。
由衣子が眠ってしまう、少し前からずっと。
□
由衣子は、三歳下の従妹だ。
幼いころから身体が弱く、何度も入退院を繰り返していた。
僕は一人っ子だったから、兄のように慕ってくれる由衣子がかわいくて、たびたび家や病院に会いにいっていたのだ。
「お外にはこわい怪物がいるんだよ」
それが由衣子の口癖だった。だから、息をひそめて家の中に隠れているんだ、と。
なかなか外に出られない彼女は、しょっちゅう窓の外を眺めて過ごしていた。そして、四角く切り取られた空を横切っていく小鳥を見ては、こんなことを言った。
「小鳥はね、絶対に怪物に見つからないの」
どういう道理なのかは、僕にはわからなかった。だけど小鳥の話をする由衣子は、いつもとても嬉しそうだった。
由衣子の十三歳の誕生日に、僕は自分の小遣いで小鳥を買ってやった。
それは世話のしやすい白文鳥だった。いかにも女の子が好きそうな、洒落たデザインの鳥籠に入れてプレゼントしたのだ。
由衣子はさぞかし喜んでくれるだろう。僕はそう期待していた。
でも、彼女は小鳥を見た瞬間、驚いたように目をまるくして、そのまましばらく表情を凍り付かせたのだった。
僕はまずその反応に少し傷付き、次にそれが意味するところに思い当たって、おそるおそる尋ねた。
「生き物、迷惑だった?」
考えてみたら、由衣子はいつ入院するかもわからないのだ。僕は自分の選択の軽率さを恥じた。
だけど彼女はぱっと笑顔になって、首を横に振った。
「ううん、違うの。まさか隆にいちゃんがこんな豪華なプレゼントをくれるなんて思ってなかったから、びっくりしただけ」
僕はその言葉に内心ほっとしながら、何だよ、と口を尖らせるふりをした。
由衣子のためだったら、僕だってこのくらいのものは買ってやれるんだ。
それからというもの、由衣子は窓の外ではなく、小鳥を眺めて過ごすことが多くなった。ときどき部屋に放して遊ばせているようだったけれど、基本的には籠の中で囀ったり餌を食べたりしているのを、じいっと見つめていた。
そんな由衣子の様子に、僕は嬉しくなった。小鳥が好きだと知ってはいたけれど、こんなにも気に入ってくれるなんて思わなかったのだ。
「小鳥、もっと早くあげれば良かったね」
僕がそう言うと、由衣子はそっと微笑んだ。
だけどそんな日々は、長くは続かなかった。
十三歳の誕生日から半年ほど経ったある日、由衣子の家に遊びに行くと、鳥籠が空になっていたのだ。部屋の窓は開いており、その傍にはうずくまるようにして泣きじゃくる彼女の姿があった。
「ごめんなさい、隆にいちゃん、ごめんなさい」
由衣子は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、僕に謝り続けた。
水を替えるついでに小鳥を籠から出したら、うっかり窓を閉め忘れていて、家の外へ逃げてしまったのだと言う。
鳥がいなくなったことよりも、むしろ由衣子の様子に驚いて、僕は必死に彼女を慰めた。
「そんなに泣かないでよ。小鳥くらい、また買ってやるからさ」
僕の言葉に、由衣子は首を横に振った。
「いいの、どのみち、しばらくお世話できないかもしれないから……私、来月大きな手術を受けることになったの」
彼女は涙を拭いながら、泣き笑いの顔で言った。
「この鳥籠、お守りにするね」
□
僕は鳥籠の扉を開け、ばらした花を一輪ずつ入れていった。こんなことをしたらすぐに萎れてしまうだろう。だけどこの病室には花瓶のひとつもないのだ。
由衣子は、十年前の手術の日から、ずっと眠り続けている。手術そのものは成功だったらしいのだけれど、なぜか意識が戻らないのだ。
由衣子が眠ってしまってからも、僕はたびたび見舞いに訪れた。
最初のうち、僕は学校で起こったことなんかをぽつぽつと話したり、本を読んで聞かせたりしていた。「いつ目覚めてもおかしくない」と言われていたから、それを信じて、眠っている由衣子に声を掛け続けた。
だけど二年、三年と経つうちに、僕は疑問を抱くようになった。
由衣子はいつになったら目を覚ますのだろうか、と。
由衣子は、本当に、目を覚ますのだろうか、と。
病院に通う回数は、だんだんと減っていった。受験だから、バイトの予定が詰まっているから、仕事が繁忙期だから。そんなふうに自分に言い訳して、見舞いに行かないことを正当化していた。
そうでもしないと、認めてしまいそうだったのだ。
認めてしまう自分が、嫌だったのだ。
――どれほど由衣子に語り掛けても、きっともう無駄なのだ、ということを。
すべての花を鳥籠に入れ終えて、扉を閉める。真っ白な部屋の中でそこだけ不自然に色彩が灯っている。僕はそれから目を逸らし、由衣子に向き直った。
彼女は、相変わらず眠り続けている。
僕はまたパイプ椅子に腰を下ろして、その痩せた手を取った。
「由衣子」
小さく口を開く。笑顔を作ることはできない。
「言わなきゃいけないことがあるんだ」
由衣子は何も答えない。機械の音が規則正しく鳴り続けているだけだ。
少しだけ視線を落とし、短く息を吐いて、もう一度彼女を見る。
「由衣子、僕はもうここへは来られない」
ピッ、ピッ、ピッ。
「今度、結婚するんだ。だから」
あの約束は――
その言葉を飲み込んで、僕は口を閉じた。
変わらない、十年前から変わらない、少女のままの由衣子。
どうして僕は、同じでいられなかったのだろう。
由衣子のことを、誰よりも大切に想っていたはずだったのに。
だけど。
そもそも僕にとって、由衣子とは何だったのか。
大切だと言いつつ、心のどこかで自分より下の存在として見ていたのではないか。
施しを与えて、優越感に浸って、ちっぽけな自尊心を満たしたかっただけではないか。
結局、もう僕には由衣子に「してあげられる」ことがなくなってしまったから、彼女は「用済み」になってしまったのだ。
僕は最低だ。最低の、薄情者だ。
由衣子はきっと、僕を許してはくれないだろう。
それでも構わないと思った。あの日交わした約束を、果たすことができないのだから。
僕は由衣子の腕をそっとシーツの上に置き、ゆっくりと席を立つ。
もう一度その寝顔をじっと見つめてから、ぽつりと呟く。
「さよなら、由衣子」
僕は由衣子に別れを告げ、振り返ることもせずに部屋を後にした。
通い慣れた病室の扉は、がちゃり、と驚くほど大きな音を立てて閉まった。
それはまるで、古い鳥籠に鍵を掛けるような音だった。
怪物はやってこない。
ただ一人汚れた僕は、その白い空間からそっと立ち去ることしかできなかった。
□
手術の前日、僕は由衣子にねだられて、展望公園に来ていた。大きな手術の前だからと、特別に許可が下りたのだ。
穏やかな日差しの中、しっとりした芝生を踏み締めながら歩いた。
太陽の下で見る由衣子は、どこも悪いところなんてない、普通の女の子のようだった。心なしか顔色も良く、まっすぐの黒髪が身動きのたびにさらさらと揺れていた。
「隆にいちゃんと一緒なら、怪物もこわくないね」
そう言って笑った由衣子の横顔はどこか大人びていて、僕は少しどぎまぎした。
展望台まで辿り着くころには、彼女の息は切れ始めていた。僕たちは木のベンチに座って、景色を眺めながら休憩することにした。
「私、隆にいちゃんに謝らなきゃいけないことがあるの」
突然そう切り出されて、僕は由衣子の顔を見た。彼女は空に浮かぶ雲をぼんやりと目で追っているようだった。
「あの小鳥ね、本当は、わざと逃がしたの」
にわかに強い風が吹き、ざぁっと草を煽っていく。
僕は驚かなかった。由衣子の告白を、すとんと受け入れていた。
あの時の光景を思い出す。開け放たれた窓、空っぽの鳥籠、そして泣きじゃくる由衣子。
――あの部屋から出られない彼女が、籠に閉じ込められた小鳥に重ねたものは何だっただろう。
「そっか」
「うん」
由衣子は、今度は謝らなかった。
僕とて怒るわけでも、自分の無神経さを悔やむわけでもなかった。
ただ二人で寄り添うように、肩を並べて座っていた。
僕はそっと由衣子の手を握った。ひんやりした手だった。
「隆にいちゃん」
由衣子が控えめに僕の顔を覗き込んだ。
「お願いがあるの」
僕は無言で、その続きを待った。
由衣子はわずかに目を伏せた。白い頬に落ちる長い睫毛の影が、小さく震えていた。
「あのね」
再び、視線が合う。
「手術が終わって目が覚める時、いちばん近くにいてね」
由衣子の瞳の中に、僕がいた。
逆もきっと、そうだっただろう。
僕はつないだ手に力を込め、しっかりと頷いた。
「もちろん」
由衣子は照れたように少し笑って、ありがとう、と言った。今にも消え入りそうな、儚い微笑みだった。
空は青く澄み渡り、やわらかいそよ風が草のにおいを運んでくる。明るい日の光が、世界をきらきらと輝かせる。
つながった手のひらで、僕たち二人の体温は融け合っていた。
このまま時が止まればいいのに。僕はこっそりそう思った。
どこかから鳥のさえずりが聞こえた。
由衣子が逃がした、あの小鳥の声かもしれなかった。
―了―
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