いけず
馳月基矢
軍鶏鍋
今し方、下げてきたばかりの
「どないな御料理なら食べてくれはるの?」
花乃は小間物問屋の一人娘である。家と店は前年、元治元年(一八六四年)七月のどんどん焼けで燃えた。
二日間に及ぶ大火だった。火を放ったのは新撰組と会津藩である。入朝を巡る押し問答の末、御所に向かって発砲した長州藩を洛中から
身一つで焼け出された花乃は、当時は
男所帯に娘が一人。身に危険が及ばぬはずもない。そこは副長の伊達男、土方歳三が気を回した。天才の剣の使い手と名高い沖田総司の世話を、花乃に言い付けたのだ。局内で一目置かれ、あるいは恐れられる沖田のそばならば、誰もおいそれと手出しできない。
花乃は当初、うちは誰の
いや、沖田は淡白というより剣術馬鹿なのだと、花乃はすぐに知った。学問や詩歌や色恋に興味を示さぬことはよい。しかし、食べることにまで無関心とあっては、さすがに危うい。
沖田は食が細すぎる。無理に食べさせようにも、剣士の鋭敏な感覚が邪魔をする。匂いのするものを極端に嫌うのだ。
毎日、沖田に食事を運ぶたびに途方に暮れる。当人の前では、好き嫌いせんと食べよし、と眉を逆立てて叱責してみせる花乃だが、怒ったふりは不安の裏返しだ。沖田はどんどん痩せて
沖田様は、生きたいと思うてはらへんのやろか。
四箇月前、沖田は、幼い頃から慕っていた山南敬助の切腹に当たり、
あれ以来、春を過ぎ夏を迎えても、沖田は寝付いたままだ。
花乃は、沖田が刀を振るう姿をあまり知らない。寝顔をよく知っている。死んだように静かな寝顔にも、水鳥の悪声にも似た音で喉を鳴らして苦しむ寝顔にも、不安が募る。
笑顔も知っている。冬の底冷えがする中、薄着のまま近所の子供らと駆け回って遊び、笑っていた。あの姿こそが、花乃にとっての沖田総司だ。人斬りでも重病人でもない。
ふと気配を感じ、花乃は振り返った。三十路半ばの禿頭の男が微笑んで立っている。幕府
松本は、本願寺に居を借りた新撰組の屯所へ回診に訪れたのだ。半年程前、近藤が江戸に下った際、松本と出会い、友となった。先日、将軍の
「こんにちは、花乃さん。体の具合におかしなところはないかね?」
「へえ、御座いまへん」
「その割には顔色が冴えない。沖田さんが、花乃さんに怒られたと笑っていたが、喧嘩でもしたのかね?」
「喧嘩と違います。沖田さまの言わはるとおり、うちが怒っただけどすわ。せやけど、怒りとうもなります。沖田様が御食事を召し上がってくれはらへんさかい」
「おや、沖田さんも困った人だ。花乃さんのように綺麗な娘に甲斐甲斐しく世話を焼かれれば、男として嬉しくないはずもなかろうに」
頬が火照るのを感じながら、花乃は
「けったいな言い方、せんといてください。沖田様はほんまに
「そう
「へえ。すんまへん。気が立ってしもうて。せやけど、良順先生、病は寒い季節にこそ
「労咳という病の源を
「暑いんが悪いんどすか?」
「そうだ。しかし、長らく労咳を病めば、体はどんどん弱っていく。寒くなればなったで、弱った体に
花乃は拳を握った。指先のささくれが擦れ合って痛痒い。どんどん焼けに遭うまでは御嬢さん育ちだった。一通りの家事は習ったが、女中奉公に上がる同年輩の娘に比べれば、料理も掃除も
「良順先生、沖田様はもうあかんのどすか?」
「滅多な言い方をしなさんな。今の沖田さんに必要なのは休養と食療だ」
松本は己の左の
「食べることで、病気が治療できるのどすか?」
「ああ。労咳は陰虚の病だ。陰虚とは、陰が虚ろとなって陽が盛んになり、陽の性を持つ熱邪が津液を奪い続ける状態を指す。ゆえに熱邪を払い、同時に陰の気を補えば、体内の陰陽はおのずと均衡する。わかるね?」
「へえ、わかります」
「暑熱の季節には、労咳の患者に熱性の食べ物はよくない。例えば、唐辛子や山椒、
花乃は溜息をついた。
「あきまへんわ。沖田様はたまに甘いものをほしがるくらいで、ほかは何も食べようとしはらへんのどす」
「屯所で豚を飼い始めただろう。豚の肉は脂が乗って、煮るのも焼くのも、若い者には評判がいいのだよ」
「その脂があかんと、沖田様は言わはりました。土方様が買うてきはった牛や馬の肉も、どうもあかんと」
「山の獣や鳥の肉はどうだ?」
「もっとあきまへんわ。匂いがきつすぎて、まるで……」
まるで死体のようだ、人を斬ったときの匂いに似ている、こんな肉は食べられない。苦しげな呼吸の下でそう呟いて、熱に浮かされた沖田は、せっかく胃に入れた
松本は、毛を剃った頭をつるりと撫でた。
「卵の料理なら幾らか食べると、前に言っていたな?」
「へえ。せやけど、生の卵は嫌わはります。焼いたんも、残さはります。召し上がらはるんは、ふわふわの卵だけどす。泡の立つまで掻き混ぜた卵を、
「鶏肉はどうだ?」
「叩いて団子にした鶏は、御汁に入れると食べてくれはります。そういえば、沖田様は、鶏肉には臭いとは言わへんわ。焼いたんは水気が抜けて舌触りが悪い、とは言わはるけれども」
妙案が閃いた。花乃は意気込んで、食療を説く幕府御典医、松本良順に詰め寄った。
***
沖田は横になっていなかった。刀の手入れの最中だ。油を染み込ませた
つと、沖田が顔を上げる。花乃は我に返った。
「
「毎日、寝てばかりなんだ。腹なんて減らないよ」
「いいえ、減ってはるはずどす。昨日も一昨日も、一口二口、御粥と卵を召し上がっただけやないどすか。今に刀より細うなってしまいますえ」
「そんな
沖田は、くしゃりと笑った。花乃より六つも年上で、何度も人を斬っているくせに、沖田の笑顔には汚れたところがない。
透き通って消えてしまいそうや。
花乃は沖田から目を逸らした。狭い部屋の隅に飾った
たまには本でも読みたいと沖田が言い出したことがあった。花乃は洛中を駆け回り、児雷也や水滸伝、ほかに浄瑠璃本などを見繕って沖田に届けたが、それきりだ。沖田が読書に勤しむ様子はなく、本はただ枕元に積まれている。
沖田が刀を鞘に仕舞った。
「手入れは
「妬きまへん。沖田様が御食事も召し上がらんと刀を磨いてはるから、うちは怒るんどす」
「はいはい。そう睨まないでおくれよ」
この柔和な
「とにかく、御料理が温かいうちに箸を付けよし」
花乃は昼餉の膳を沖田の前に据えた。御菜の碗の蓋を取る。手が震えた。碗の中、具材の隙間に覗く割り下は色が濃い。湯気と共に立ち上った香りに、沖田が小さく声を上げた。
「これは、日野で食べた
「へえ、軍鶏鍋どす。良順先生の御知恵を借りました。鶏の肉と肝と卵、
「ああ。汁も煮物も漬物も、味が薄くて甘すぎる。風流だなんて言われても、俺にはわからなくてね」
「江戸には、武士や火消や大工や職人、汗を流して働かはる人が
沖田が目を丸くして花乃を見つめている。花乃は挑み掛かるように言った。
「せやから、江戸の御料理を作りました。御醤油も沢庵も江戸の方から仕入れてはる御店を探して買うてきました。軍鶏鍋の作り方は土方様と井上様に教わって、御味見もしていただきました。日野の軍鶏鍋の御味になっとるはずどす」
日野は、新撰組古参の土方歳三と井上源三郎の故郷である。近藤が営み、沖田が起居していた江戸の剣術道場、試衛館から九里半程の距離にある宿場だ。沖田は兄貴分の山南敬助らと共に日野へ出稽古に赴き、月の半分ほどをそちらで過ごしたという。
沖田たちの投宿先は、本陣と呼ばれる館の
本陣の奉公人に、江戸の料理屋で修業した者がいた。その男が作る軍鶏鍋を、日頃は料理の味にこだわらぬ沖田がひどく気に入ったと、土方も井上も証言した。
「早採りの夏
何かを言い掛けて唇を開いた沖田は、結局何も言わずに箸と碗を手に取った。煮込まれて濃く色付いた鶏肉を箸で摘み、ふうふうと息を吹き掛けて口に運ぶ。
「美味い」
微笑んで呟いた。一口、また一口と、沖田は軍鶏鍋を食べる。花乃は給仕も忘れて、沖田の食べっぷりを見つめた。
碗に盛った軍鶏鍋は、あっという間になくなった。少し汗ばんだ沖田は、箸を持った手で、頬の
「御代わり」
花乃は思わず胸に手を当てた。
「へえ、すぐ御持ちします。試衛館の皆様にも食べていただきとうて、
花乃は碗を受け取り、立とうとした。できなかった。沖田が花乃の袖を引いたせいだ。
「頑張ってくれた花乃さんに
「御褒美どすか?」
沖田は花乃の袖を離し、箸を置いて、積み上げた本の一番下から三国志を取り出して開いた。中に挟まれた懐紙を差し出す。
「壬生の光縁寺の桜。山南さんの墓参りに行ったときの」
懐紙を開くと、押し花である。色はとっくにくすんでいる。愛らしい形だけは、咲いた姿のままだ。
山南の初七日が過ぎた頃である。鳥に
己の手で山南の命を絶ち、消沈して寝込んだ沖田が桜の花になど目を掛けているとは、花乃は思っていなかった。
「いけず」
「そこは、おおきに、と御礼してくれるところだろう?」
「自分で言うとったら世話ないわ」
「素直じゃないなあ」
沖田が声を立てて笑うと、発作の咳と似た匂いがする。血の匂いだ。花乃の胸が痛む。沖田の病が進むことが怖い。その一方で、治ってほしくないとも思う。人殺しの返り血よりも、肺から匂う病の血がましだ。
花乃は押し花の懐紙をそっと
「御代わりを御持ちします。早う行かんと、皆様に全部食べられてしまいますわ」
「花乃さん、いつもおおきに。花乃さんの作る飯、美味いよ」
不意を打たれて、花乃は立ち尽くした。みるみるうちに涙が湧いて、目の前が熱く
泣いたらあかん。
花乃は唇を噛んだ。荒れた皮膚がとうとう破れて、舌先に血の味が滲んだ。
【了】
いけず 馳月基矢 @icycrescent
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