いけず

馳月基矢

軍鶏鍋

 はなは唇を噛んだ。


 今し方、下げてきたばかりのゆうの膳を前に、炊事場の隅で立ち尽くす。粥も汁もさいも漬物も、ほとんど箸が付けられていない。


「どないな御料理なら食べてくれはるの?」


 花乃は小間物問屋の一人娘である。家と店は前年、元治元年(一八六四年)七月のどんどん焼けで燃えた。


 二日間に及ぶ大火だった。火を放ったのは新撰組と会津藩である。入朝を巡る押し問答の末、御所に向かって発砲した長州藩を洛中からせんめつするための作戦だった。


 身一つで焼け出された花乃は、当時は壬生みぶにあった新撰組のとんしょに怒鳴り込んだ。明日からどないして生きていけばええのやと、十五の小娘になじり倒された新撰組局長、近藤勇は太い眉を曇らせ、下働きでよければ屯所に勤めるかと申し出た。


 男所帯に娘が一人。身に危険が及ばぬはずもない。そこは副長の伊達男、土方歳三が気を回した。天才の剣の使い手と名高い沖田総司の世話を、花乃に言い付けたのだ。局内で一目置かれ、あるいは恐れられる沖田のそばならば、誰もおいそれと手出しできない。


 花乃は当初、うちは誰のめかけにもなりまへんと、土方の配慮をね付けた。土方は、沖田は女にひどく淡白だから問題ないと、花乃をなだめた。


 いや、沖田は淡白というより剣術馬鹿なのだと、花乃はすぐに知った。学問や詩歌や色恋に興味を示さぬことはよい。しかし、食べることにまで無関心とあっては、さすがに危うい。


 沖田は食が細すぎる。無理に食べさせようにも、剣士の鋭敏な感覚が邪魔をする。匂いのするものを極端に嫌うのだ。


 毎日、沖田に食事を運ぶたびに途方に暮れる。当人の前では、好き嫌いせんと食べよし、と眉を逆立てて叱責してみせる花乃だが、怒ったふりは不安の裏返しだ。沖田はどんどん痩せてあごが尖り、高熱に潤む目ばかりが大きくなっていく。


 沖田様は、生きたいと思うてはらへんのやろか。


 四箇月前、沖田は、幼い頃から慕っていた山南敬助の切腹に当たり、かいしゃくを務めた。武家ではない花乃は、切腹の作法など詳しくない。介錯とは何をしはったのかと問えば、短刀で見事に割腹した山南が苦しまぬよう、一刀の下に首を落としたのだという。


 あれ以来、春を過ぎ夏を迎えても、沖田は寝付いたままだ。かねてから胸に巣食うろうがいが沖田の傷心に付け込んで隆盛したかに見える。


 花乃は、沖田が刀を振るう姿をあまり知らない。寝顔をよく知っている。死んだように静かな寝顔にも、水鳥の悪声にも似た音で喉を鳴らして苦しむ寝顔にも、不安が募る。


 笑顔も知っている。冬の底冷えがする中、薄着のまま近所の子供らと駆け回って遊び、笑っていた。あの姿こそが、花乃にとっての沖田総司だ。人斬りでも重病人でもない。


 ふと気配を感じ、花乃は振り返った。三十路半ばの禿頭の男が微笑んで立っている。幕府てんの松本良順である。洋の東西を問わず医術全般に通じた男だ。


 松本は、本願寺に居を借りた新撰組の屯所へ回診に訪れたのだ。半年程前、近藤が江戸に下った際、松本と出会い、友となった。先日、将軍のそばきとして上洛した松本は早速、怪我人も病人も出すくせに医術に無頓着な新撰組の為にあれこれと世話を焼いている。


「こんにちは、花乃さん。体の具合におかしなところはないかね?」

「へえ、御座いまへん」

「その割には顔色が冴えない。沖田さんが、花乃さんに怒られたと笑っていたが、喧嘩でもしたのかね?」


「喧嘩と違います。沖田さまの言わはるとおり、うちが怒っただけどすわ。せやけど、怒りとうもなります。沖田様が御食事を召し上がってくれはらへんさかい」

「おや、沖田さんも困った人だ。花乃さんのように綺麗な娘に甲斐甲斐しく世話を焼かれれば、男として嬉しくないはずもなかろうに」


 頬が火照るのを感じながら、花乃はことさら、眉間に皺を寄せてみせた。


「けったいな言い方、せんといてください。沖田様はほんまに我儘わがままどす。あんなん、子供や」

「そう赫々かっかするものではないよ。沖田さんの発熱が続いて、不安になるのもわかるが」


「へえ。すんまへん。気が立ってしもうて。せやけど、良順先生、病は寒い季節にこそひどうなるもんと違います? 夏になったら、獣も草も花もよう育つのに、沖田様は逆や。暖こうなるにつれて長う寝込むようにならはりました」

「労咳という病の源を辿たどれば、春から夏にかけて症状が進むことは道理なのだ。労咳を含むがいそうの病は、体内が極度に熱せられて津液が涸れることにより、発症する」


「暑いんが悪いんどすか?」

「そうだ。しかし、長らく労咳を病めば、体はどんどん弱っていく。寒くなればなったで、弱った体にふうじゃや寒邪を呼び込み、また別の病を併発することになる」


 花乃は拳を握った。指先のささくれが擦れ合って痛痒い。どんどん焼けに遭うまでは御嬢さん育ちだった。一通りの家事は習ったが、女中奉公に上がる同年輩の娘に比べれば、料理も掃除もつたない。悔しくてならない。


「良順先生、沖田様はもうあかんのどすか?」

「滅多な言い方をしなさんな。今の沖田さんに必要なのは休養と食療だ」


 松本は己の左のてのひらを帳面、右の人差し指を筆にして、「食療」と書いてみせた。


「食べることで、病気が治療できるのどすか?」

「ああ。労咳は陰虚の病だ。陰虚とは、陰が虚ろとなって陽が盛んになり、陽の性を持つ熱邪が津液を奪い続ける状態を指す。ゆえに熱邪を払い、同時に陰の気を補えば、体内の陰陽はおのずと均衡する。わかるね?」


「へえ、わかります」

「暑熱の季節には、労咳の患者に熱性の食べ物はよくない。例えば、唐辛子や山椒、大蒜にんにくは駄目だ。血を補うものや陰を補うものを食べさせなさい。獣の肉や鳥の肉、旬の魚で滋養を付けるとよい」


 花乃は溜息をついた。


「あきまへんわ。沖田様はたまに甘いものをほしがるくらいで、ほかは何も食べようとしはらへんのどす」


「屯所で豚を飼い始めただろう。豚の肉は脂が乗って、煮るのも焼くのも、若い者には評判がいいのだよ」

「その脂があかんと、沖田様は言わはりました。土方様が買うてきはった牛や馬の肉も、どうもあかんと」


「山の獣や鳥の肉はどうだ?」

「もっとあきまへんわ。匂いがきつすぎて、まるで……」


 まるで死体のようだ、人を斬ったときの匂いに似ている、こんな肉は食べられない。苦しげな呼吸の下でそう呟いて、熱に浮かされた沖田は、せっかく胃に入れたかゆを全て吐き戻した。そんなことがあって以来、花乃までも、いのししや鹿やきじを食べられない。


 松本は、毛を剃った頭をつるりと撫でた。


「卵の料理なら幾らか食べると、前に言っていたな?」

「へえ。せやけど、生の卵は嫌わはります。焼いたんも、残さはります。召し上がらはるんは、ふわふわの卵だけどす。泡の立つまで掻き混ぜた卵を、と醤油と御塩を合わせて沸騰させたところに入れて、百数えるまで火を通す。そんなんを、一匙か二匙ばかり」


「鶏肉はどうだ?」

「叩いて団子にした鶏は、御汁に入れると食べてくれはります。そういえば、沖田様は、鶏肉には臭いとは言わへんわ。焼いたんは水気が抜けて舌触りが悪い、とは言わはるけれども」


 妙案が閃いた。花乃は意気込んで、食療を説く幕府御典医、松本良順に詰め寄った。



***



 沖田は横になっていなかった。刀の手入れの最中だ。油を染み込ませた襤褸ぼろで刀身を磨いている。沖田の膝の上に横たわる刀はひどく華奢で、しおらしげだ。沖田のいたわり愛おしむような手付きに、花乃は見惚れた。


 つと、沖田が顔を上げる。花乃は我に返った。


ひるを御持ちしました」

「毎日、寝てばかりなんだ。腹なんて減らないよ」


「いいえ、減ってはるはずどす。昨日も一昨日も、一口二口、御粥と卵を召し上がっただけやないどすか。今に刀より細うなってしまいますえ」

「そんなおおな」


 沖田は、くしゃりと笑った。花乃より六つも年上で、何度も人を斬っているくせに、沖田の笑顔には汚れたところがない。


 透き通って消えてしまいそうや。


 花乃は沖田から目を逸らした。狭い部屋の隅に飾ったきょうしおれている。花乃は沖田の部屋に季節の花を欠かさない。皆から独り離れた沖田を慰めるためのせめてもの心遣いだが、剣術馬鹿の目に花など映っているのかどうか。


 たまには本でも読みたいと沖田が言い出したことがあった。花乃は洛中を駆け回り、児雷也や水滸伝、ほかに浄瑠璃本などを見繕って沖田に届けたが、それきりだ。沖田が読書に勤しむ様子はなく、本はただ枕元に積まれている。


 沖田が刀を鞘に仕舞った。


「手入れはしまいだ。俺が刀にばかり構うと、花乃さんが焼餅を妬くから」

「妬きまへん。沖田様が御食事も召し上がらんと刀を磨いてはるから、うちは怒るんどす」

「はいはい。そう睨まないでおくれよ」


 この柔和なくぼくせものなのだ。笑って騙して我を通すのが、沖田のやり口である。


「とにかく、御料理が温かいうちに箸を付けよし」


 花乃は昼餉の膳を沖田の前に据えた。御菜の碗の蓋を取る。手が震えた。碗の中、具材の隙間に覗く割り下は色が濃い。湯気と共に立ち上った香りに、沖田が小さく声を上げた。


「これは、日野で食べた軍鶏しゃもなべ……!」

「へえ、軍鶏鍋どす。良順先生の御知恵を借りました。鶏の肉と肝と卵、牛蒡ごぼうねぎ木耳きくらげの入った軍鶏鍋は、滋養があって血と陰を補うさかい、沖田様の体にええのどす。せやけど、うちが作っても、京都の御味にしかならへん。京都の御味は好きと違いますやろ?」


「ああ。汁も煮物も漬物も、味が薄くて甘すぎる。風流だなんて言われても、俺にはわからなくてね」

「江戸には、武士や火消や大工や職人、汗を流して働かはる人がぎょうさんいてはります。汗で体の塩気が流れ出るから、塩気の強いもんを好んで食べはるよって、江戸の御料理は塩辛いのどす。沖田様の御口に京都の御料理が合わへんのも道理やわ」


 沖田が目を丸くして花乃を見つめている。花乃は挑み掛かるように言った。


「せやから、江戸の御料理を作りました。御醤油も沢庵も江戸の方から仕入れてはる御店を探して買うてきました。軍鶏鍋の作り方は土方様と井上様に教わって、御味見もしていただきました。日野の軍鶏鍋の御味になっとるはずどす」


 日野は、新撰組古参の土方歳三と井上源三郎の故郷である。近藤が営み、沖田が起居していた江戸の剣術道場、試衛館から九里半程の距離にある宿場だ。沖田は兄貴分の山南敬助らと共に日野へ出稽古に赴き、月の半分ほどをそちらで過ごしたという。


 沖田たちの投宿先は、本陣と呼ばれる館の宿直とのいどころだった。本陣は位の高い武家が寝泊まりするための館であるから、剣の腕の立つ沖田らは警備を兼ねてここに仮住まいしたのだ。


 本陣の奉公人に、江戸の料理屋で修業した者がいた。その男が作る軍鶏鍋を、日頃は料理の味にこだわらぬ沖田がひどく気に入ったと、土方も井上も証言した。


「早採りの夏牛蒡ごぼうは水にさらさんと土の風味の付いたまま、炭火で焼いたねぎ、湯通しした木耳きくらげと一緒に、濃いめの割り下でよう煮ます。鶏の肝は一旦湯がいて、肉は炒めてから、卵は黄身だけ、鍋に入れます。具の切り方も何もかんも、土方様と井上様にこまこう思い出してもろうて、本物とおんなしように作りました。召し上がってください」


 何かを言い掛けて唇を開いた沖田は、結局何も言わずに箸と碗を手に取った。煮込まれて濃く色付いた鶏肉を箸で摘み、ふうふうと息を吹き掛けて口に運ぶ。


「美味い」


 微笑んで呟いた。一口、また一口と、沖田は軍鶏鍋を食べる。花乃は給仕も忘れて、沖田の食べっぷりを見つめた。


 碗に盛った軍鶏鍋は、あっという間になくなった。少し汗ばんだ沖田は、箸を持った手で、頬のくぼのあたりを掻いた。


「御代わり」


 花乃は思わず胸に手を当てた。てのひらで押さえなければ、急に高鳴った心の臓の音が沖田の耳に届いてしまう気がした。


「へえ、すぐ御持ちします。試衛館の皆様にも食べていただきとうて、ぎょうさん作りましたさかい」


 花乃は碗を受け取り、立とうとした。できなかった。沖田が花乃の袖を引いたせいだ。


「頑張ってくれた花乃さんにほうがある」

「御褒美どすか?」


 沖田は花乃の袖を離し、箸を置いて、積み上げた本の一番下から三国志を取り出して開いた。中に挟まれた懐紙を差し出す。


「壬生の光縁寺の桜。山南さんの墓参りに行ったときの」


 懐紙を開くと、押し花である。色はとっくにくすんでいる。愛らしい形だけは、咲いた姿のままだ。


 山南の初七日が過ぎた頃である。鳥に悪戯いたずらでもされたのか、満開の花を付けた半尺程の桜の枝がぽつりと、光縁寺の庭に落ちていた。天気は下り坂だった。花が雨に打たれるのは忍びない。花乃は枝を持ち帰り、沖田の部屋の隅に活けた。


 己の手で山南の命を絶ち、消沈して寝込んだ沖田が桜の花になど目を掛けているとは、花乃は思っていなかった。


「いけず」


 意地悪いけず、と花乃は呟いた。鼻の奥がつんとする。沖田が花乃の顔を覗き込む。


「そこは、おおきに、と御礼してくれるところだろう?」

「自分で言うとったら世話ないわ」

「素直じゃないなあ」


 沖田が声を立てて笑うと、発作の咳と似た匂いがする。血の匂いだ。花乃の胸が痛む。沖田の病が進むことが怖い。その一方で、治ってほしくないとも思う。人殺しの返り血よりも、肺から匂う病の血がましだ。


 花乃は押し花の懐紙をそっとたもとに差し入れて、空の碗を手に、今度こそ立ち上がった。


「御代わりを御持ちします。早う行かんと、皆様に全部食べられてしまいますわ」


 せみの音の降る廊下を歩き出すと、沖田の声が追いすがってきた。


「花乃さん、いつもおおきに。花乃さんの作る飯、美味いよ」


 不意を打たれて、花乃は立ち尽くした。みるみるうちに涙が湧いて、目の前が熱くかすむ。


 泣いたらあかん。


 花乃は唇を噛んだ。荒れた皮膚がとうとう破れて、舌先に血の味が滲んだ。



【了】

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いけず 馳月基矢 @icycrescent

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