第2話

 甘やかされた深閨しんけいの令嬢である仙月にとって、むろん宮女の生活は楽ではなかった。重い羽扇うせんや香炉を持って長い時間貴人の背後に立たねばならず、夜は足の浮腫むくみがひどく眠れぬほどであった。


 また、後宮では軽率な言動一つで自分の身が危なくなるため、同輩であっても気を許すことはできなかった。だが、彼女は薄氷の上を歩くかのような緊張に耐えた。耐えて時機を掴むまでの辛抱と思えば――。

 

 仙月の同輩といえば、その一人に薛弐娘せつじじょうという、胡人のように虹彩の薄い瞳と、広い額を持つ宮女がいた。

 彼女はとした表情をしているのが常で、しかも人より動作が一拍遅れ、そして一緒に務めを行ったり宿直をしたりすることの多い仙月にとって、苛立ちの原因ともなっている。弐娘は他の女性よりも身長は一つ抜きんでているだけに、余計に粗相も目立つのだ。

 たった今も――よりによって武后の眼前で夜光杯を割ってしまい、周囲を慌てさせたところである。

「とんだ不調法を…どうも…申し訳ありませぬ…」

 口のなかでと詫びを唱え、床に散らばった破片をのろい動きで拾い集める弐娘を目で追いながら、さすがに仙月も色を失った。

 初夏の風爽やかな夜、殿の女主人がほろ酔い気分となっていただけに反動の怒りが恐ろしく、弐娘は冷宮れいぐう(注1)送りとなって幽閉となるか、悪くすれば死か――。

 

 しかし武后は特に関心を払った様子もなく、代わりの杯を持って来させただけであり、仙月も拍子抜けした。武后は個々の宮女について普段は目に入らぬかのように振る舞い、したがって好悪の情も見せたことがないが、仙月の眼には、武后は弐娘に対していささか甘いように映った。

「…不満かや?」

 仙月の思いを見抜いたかのように、武后がと笑った。

「いえ!滅相もございませぬ」

 仙月は慌てて打消して眼を逸らし、飾り棚に置かれている紫檀したん阮咸げんかん(注2)を眺めた。武后の御物のなかでも仙月が特に気に入っているもので、こちらを向いている弦の面はいささか地味だが、裏には飾り紐をくわえて飛ぶ二羽の瑞鳥が螺鈿らでん細工で描かれ、仙月は清掃のときはいつも、棚を拭くふりをしてそっと阮咸を裏返し、虹色の小宇宙を飽かず楽しむのであった。そして、時おり武后が気まぐれにつま弾く、さやけき音色を心待ちにするのだった。

 

 いつか私もこの鳥達のように、天上の世界に遊ぶかのごとく、天下を飛び回ってみせる――。


「不満がないなどと、仙月は嘘をつくのが下手じゃな。気をつけるがよい。もしこの先、私を裏切るようなことがあれば、私に気取られぬようにせよ。のう、蓬莱宮の狐どの」

 仙月は武后の言葉に驚き、床に膝をつき何度も頭を打ち付けた。

「恐れながら、狐と言われるのは心外にござります!私は、皇后様のご命令であれば泥水を這い回るいぬにでもなりまする!」

「狐は嫌か、狗ならば良し――か」

 狗の主人は、今度は呵々大笑かかたいしょうして新しい杯に手を伸ばした。



***

注1「冷宮」…罪を犯した宮女が幽閉される殿舎。

注2「阮咸」…「竹林の七賢」の阮咸が伝えたとされる弦楽器。


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