第7話
その夜、仙月は
連れ去られる姉の凄まじい絶叫が、まだ
――しっかりしなさい。皇后様は、かつてご自分の幼い公主を手にかけ、その罪を王皇后になすりつけて追い落としたではないか。自分が姉一人で弱気になってどうするの。……そうだ、皇后様は今頃とうに、湯浴みもお食事も済まされているはず。すっかり遅くなったが、姉のことをご報告せねば、それもこれも、あんなことでくよくよと考えていたせいだ。
仙月は腹立たしくなり、足早に皇后の居殿に向かった。すると、廊の曲がり角で若い宦官に通行を止められてしまった。聞けば、武后が一刻前から厳重に人払いをしているという。
私を誰だと思っているの、緊急のご報告があるのよ――宦官を一蹴して通り抜けたものの、それでも気になった仙月は忍び足を使い、皇后の居室の前に来た。
室外から自分が来たことを知らせようとする直前になって、仙月は息を止めた。部屋のなかから声がする。武后のものだった。
――お願いします、私をお見捨てにならないでください。
仙月は耳を疑った。一体皇后様はどなたとお話しなさっているのだろう。この丁寧な口調からすると、相手は聖上?しかし、それにしては様子が変だ。
また声が聞こえる。
――菩薩様、慈悲深い
仙月はわずかに開いていた戸口の隙間から、そっと中を窺った。香でも焚いているのか、一瞬、鼻腔を刺激の強い匂いが満たし、しかしそれはすぐに夜風に流れて消えた。
むろん室内は薄暗いが、それでも皇后の居室は燭台がどの殿よりも多く据え付けられ、中で起こっていることは仙月の眼にもよく見えた。
武后は
その「誰か」も白い衣を身につけ、その布の襞が美しく裾まで流れている。髪を結い宝冠を
武后は相手の衣の裾に縋り付き、しとどに泣きぬれ、しゃくりあげながら詫び言を延々と述べていた。
「誰か」を見定めようと、眼を細めた仙月は次の瞬間、声をあげそうになった。
――弐娘!
弥勒菩薩に扮しているのは、まぎれもなく仙月の同輩である。すらりと背が高く、右手に鞭を持ち、半眼で武后を見下ろしている。口はわずかに開き、恍惚の表情とも、哀れみを湛えた表情とも、跪く武后を嘲る表情とも取れた。
――ああ、弐娘。あの娘、私の娘がもし生きていれば、そなたときっと瓜二つであったろう。広い額、薄茶色の瞳、愛らしいその唇…。
じっと彫像のように動かなかった弐娘が、その時初めて動いた。右手の鞭をゆっくりと振り上げ、武后の肩口をぴしりと打ったのである。打たれた皇后は、耐えられずに泣き崩れた。
――私は自分の娘を愛していた!それに、姉を愛していた!だから、姉の娘も愛したかったのに!ああ、姉上、お許しください。私はあなたの娘までも…。
恐ろしいものを見てしまったように、仙月はそっと足音を忍ばせて戸口を離れた。音を立てずに一歩、また一歩…。心臓が早鐘を打ち、頭が混乱して何から考えたら良いのかもわからない。
――私の見たものは事実?それとも夢?
仙月はやっとのことで自室に辿り着くと、明かりもつけずに座り込み、闇のなかでいま見たものを
確かに武后は、「
その御仏への傾倒を政治的な意図ととらえ、密かに眉をしかめる者もいたが、仙月は武后の傍らに侍してつぶさに見聞し、彼女の御仏への傾倒はただに我欲のみならず、真情から出づるものでもあることを知っていた。
だがそれにしても、先ほど見たあの光景は異常の一言に尽きた。
――そして、あれが事実なら、皇后様に対して私の「切り札」となるのだろうか?
しかし、仙月は一瞬わきあがった、その魅惑的だが恐ろしく、禍々しい考えを抑えつけた。万一、髪一筋ほどにもあの武后に対し脅迫めいたことを発すれば、一体どうなるか――。
「…まあ、いいわ」
自分を優しく包む暗闇に身を委ね、仙月はひとりごちた。
いずれにせよ、この度自分が立てた手柄は大きい。これで、宮外の反皇后派の勢力も打撃を受けるからだ。遠からず姉は死ぬであろうが、大義のためなら親子きょうだいの情も捨てる――「
――そう、主人を守ることこそが私の大義なのだから。皇后様も、姉に噛みつき致命傷を与えたこの小さな狗に、ささやかな褒美を下さるだろう。
***
注1「孔孟の教え」…孔子と孟子の教え、すなわち儒教。
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