第7話

 その夜、仙月は歩廊ほろうを逍遥しながら天空の半月を愛でていた。


 連れ去られる姉の凄まじい絶叫が、まだ残滓ざんしとなって鼓膜にこびりついている。あのときは「してやったり」という高揚感しかなかったが、全てが終わった今となっては、何となくすっきりしない。元からさして仲が良くなかったとはいえ、とうとう血を分けた姉まで破滅の淵に追いやった後味の悪さは、どうにも拭えないのだ。


 ――しっかりしなさい。皇后様は、かつてご自分の幼い公主を手にかけ、その罪を王皇后になすりつけて追い落としたではないか。自分が姉一人で弱気になってどうするの。……そうだ、皇后様は今頃とうに、湯浴みもお食事も済まされているはず。すっかり遅くなったが、姉のことをご報告せねば、それもこれも、あんなことでくよくよと考えていたせいだ。


 仙月は腹立たしくなり、足早に皇后の居殿に向かった。すると、廊の曲がり角で若い宦官に通行を止められてしまった。聞けば、武后が一刻前から厳重に人払いをしているという。

 私を誰だと思っているの、緊急のご報告があるのよ――宦官を一蹴して通り抜けたものの、それでも気になった仙月は忍び足を使い、皇后の居室の前に来た。

 室外から自分が来たことを知らせようとする直前になって、仙月は息を止めた。部屋のなかから声がする。武后のものだった。


 ――お願いします、私をお見捨てにならないでください。


 仙月は耳を疑った。一体皇后様はどなたとお話しなさっているのだろう。この丁寧な口調からすると、相手は聖上?しかし、それにしては様子が変だ。

 また声が聞こえる。


 ――菩薩様、慈悲深い弥勒菩薩みろくぼさつ様。私は罪を犯しました。自分の娘を殺して王皇后を誣告し、処刑させてしまいました。蕭淑妃しょうしゅくひも私が惨いやり方で殺しました。長孫無忌、上官儀、武惟良……数多の人々を一族もろとも滅ぼしてしまいました。ああ、私は地獄に落ちるでしょうか。これからも、数多の人々を手にかけるのでしょうか…。


 仙月はわずかに開いていた戸口の隙間から、そっと中を窺った。香でも焚いているのか、一瞬、鼻腔を刺激の強い匂いが満たし、しかしそれはすぐに夜風に流れて消えた。

 むろん室内は薄暗いが、それでも皇后の居室は燭台がどの殿よりも多く据え付けられ、中で起こっていることは仙月の眼にもよく見えた。


 武后は素服そふくを身にまとい、誰かの前に平伏していた。

 その「誰か」も白い衣を身につけ、その布の襞が美しく裾まで流れている。髪を結い宝冠をかむり、肩からは瓔珞ようらくがなまめかしく下がる。

 武后は相手の衣の裾に縋り付き、しとどに泣きぬれ、しゃくりあげながら詫び言を延々と述べていた。

 「誰か」を見定めようと、眼を細めた仙月は次の瞬間、声をあげそうになった。


 ――弐娘!


 弥勒菩薩に扮しているのは、まぎれもなく仙月の同輩である。すらりと背が高く、右手に鞭を持ち、半眼で武后を見下ろしている。口はわずかに開き、恍惚の表情とも、哀れみを湛えた表情とも、跪く武后を嘲る表情とも取れた。


 ――ああ、弐娘。あの娘、私の娘がもし生きていれば、そなたときっと瓜二つであったろう。広い額、薄茶色の瞳、愛らしいその唇…。


 じっと彫像のように動かなかった弐娘が、その時初めて動いた。右手の鞭をゆっくりと振り上げ、武后の肩口をぴしりと打ったのである。打たれた皇后は、耐えられずに泣き崩れた。


 ――私は自分の娘を愛していた!それに、姉を愛していた!だから、姉の娘も愛したかったのに!ああ、姉上、お許しください。私はあなたの娘までも…。


 恐ろしいものを見てしまったように、仙月はそっと足音を忍ばせて戸口を離れた。音を立てずに一歩、また一歩…。心臓が早鐘を打ち、頭が混乱して何から考えたら良いのかもわからない。


 ――私の見たものは事実?それとも夢?


 仙月はやっとのことで自室に辿り着くと、明かりもつけずに座り込み、闇のなかでいま見たものを反芻はんすうした。この天の下、何事も意のままに動かしてきたはずの皇后が、あれほど惨めに震え、少女のように縮こまって泣いているとは。


 確かに武后は、「牝鶏ひんけいしん」とあるがごとく女子じょしの政治関与を戒める孔孟こうもうの教え(注1)よりも、御仏みほとけのみ教えに心を砕き、寺院や御仏をまつるための儀礼に費えを惜しまなかった。

 その御仏への傾倒を政治的な意図ととらえ、密かに眉をしかめる者もいたが、仙月は武后の傍らに侍してつぶさに見聞し、彼女の御仏への傾倒はただに我欲のみならず、真情から出づるものでもあることを知っていた。


 だがそれにしても、先ほど見たあの光景は異常の一言に尽きた。

 ――そして、あれが事実なら、皇后様に対して私の「切り札」となるのだろうか?

 しかし、仙月は一瞬わきあがった、その魅惑的だが恐ろしく、禍々しい考えを抑えつけた。万一、髪一筋ほどにもあの武后に対し脅迫めいたことを発すれば、一体どうなるか――。


「…まあ、いいわ」

 自分を優しく包む暗闇に身を委ね、仙月はひとりごちた。

 いずれにせよ、この度自分が立てた手柄は大きい。これで、宮外の反皇后派の勢力も打撃を受けるからだ。遠からず姉は死ぬであろうが、大義のためなら親子きょうだいの情も捨てる――「大義滅親たいぎめつしん」とはまさにこのことではないか?


――そう、主人を守ることこそが私の大義なのだから。皇后様も、姉に噛みつき致命傷を与えたこの小さな狗に、ささやかな褒美を下さるだろう。


***

注1「孔孟の教え」…孔子と孟子の教え、すなわち儒教。

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