第5話

 あの桔梗が散ってからどれだけの時が経ったのか、武后が皇族や臣下を粛清するたび、常に一人の宮女の影がちらついていた。


 その女性は、ある時は肩で風を切って宮中を歩き回り、ある時は臣僚の邸宅に密使として乗り込み、またある時は下らぬ理由で宮女をきつく折檻した。彼女にはより上級である尚宮しょうきゅう(注1)の位も用意されたが、本人は全く関心を示さなかった。ただの宮女のほうが、身軽に動けるのである。


 宮中の誰もが彼女を畏怖、あるいは嫌悪の眼で眺めたが、ただ一人、弐娘だけは悲しげな視線を送っていた。仙月はそんな弐娘を無視していたが、実際、陰謀と闘争に明け暮れ、仕合う闘犬のように相手にかみつく日々を送っていた彼女にとって、冴えない一人の宮女のことなどどうでも良かったのである。

 武后は、そんな仙月に褒美として少しずつ権限を与えていったが、それこそが狗に対する骨であり、また肉でもあった。


 今も仙月は太掖池を望む回廊を足早に行き、宮女や宦官に囲まれながら次々と指示を出しているところだった。

「あら?…」

 仙月は足を止めた。あの時と同じ嬌声、同じ光景を眼にしたのである。ただ、少しばかり絵面が違う。黄色の龍袍の男性は前の通り、しかし女性はむろん賀蘭氏ではない。水色の裳、藤色の上着、遠目にも領巾ひれがひらり、ひらりと翻るのが見えた。――女性は後宮のいずれの御殿の女性なのか――よくよく目を凝らした仙月は声をあげた。

「仙花……」

 自分と同じ白い肌、自分とよく似た大きな瞳、そして自分とは違う、花を置いたかのような頬。以前の賀蘭氏の場所に座っているのが、よりによって自分の姉だとは! 


 むろん仙花と仙月は宮中で何度も顔を合わせる機会はあったが、かたや才人かたや宮女の身分であり、特に仙花は仙月をことさらに無視した。しかしいま、彼女は目隠しをした聖上と手を打って互いに笑いながら、こちらに近づいてくる。

 そして、陛下を引き離した仙花は妹に気が付くと、身にまとっていた領巾を池の水面に放り投げた。ふんわりと飛んだ布が岸辺の水面に落ち、蓮の葉にひっかかっている。

 自分にまつわりついていた周囲の者を先に行かせ、嫌々ながらも拝礼した仙月に対し、仙花は蔑むような眼を向けた。


「――かたじけなくも陛下から賜った、西域からの羅が落ちてしまったわ。お前、拾ってくれないこと?」


 仙月は眼を伏せたまま「はい」と答え、くつを脱いで池に脹脛ふくらはぎまで浸かり、羅の領巾を拾い上げ、跪いて渡そうとした。だが、姉はそこでふん、と鼻を鳴らした。

「汚れてしまったのね、もういらないわ」

 そしてくるりと背を向けると、まだ自分を探している陛下のところに戻っていった。仙月は領巾を握りしめた。ぼたぼたと滴った水が、せんの床にいくつも染みを作る。

 

 そもそも、皇后の威勢をかりて裏から後宮を操る身となっても、宮中のほとんどの者が自分に賄賂を贈りへつらってくるのに、仙花は無礼なことに、金一銖きんいっしゅ(注2)、翡翠の指輪ひとつ寄越すでもない。


 聖上が崔氏の位を上げ、貴妃となさるおつもりらしい――。


 そんな噂を数日前に聞き、まさかあのお気弱な聖上が、皇后様の怒りを招くような大胆なことを……と打ち消しそうになった仙月は、あることを思い出して愕然とした。

 ――かつて聖上は、女道士として修行していた父帝の後宮の女性を、還俗させてご自分の後宮におれになったではないか。その御方こそ、我が主人、我が皇后様なのだから。もし聖上がこの度も大胆な一面をお出しになり、本当に仙花を貴妃となされば、当然のことながら皇后様のお怒りは天を衝くほどになり、私にも矛先が向けられるやもしれぬ。

 

 賀蘭氏の哀れな末路――口と鼻から血を吹き出し、白目を剥いて悶絶したであろうかつての寵姫を想像すると、仙月はいてもたってもいられなくなり、脇の宮女からひったくるように菓子の盛られた銀の鉢を取り上げ、作り笑いをしながら武后の居室の敷居をまたいだ。

「皇后様、おひとつ甘いもので政務のお疲れをお癒しなさいませ」

 武后は、ゆっくりと書机から顔をあげた。まなじりの切れ上がった両眼には、険しさが宿っている。

「そうじゃ。何しろ聖上から日々政務のご相談に預かって忙しく、池の様子を見る暇もろくになかったが――。そうそう、近頃、蝶はまとわりつく花を変えたようであるな」

 女主人は、宮女のぴくつく肩先を見て表情を和らげた。

「いつぞや――狐と言われるのは心外だ、私のためであれば泥水を這い回る狗にもなってみせる、そなたは豪語したな?その言葉は偽りか?」

 仙月は慌てて跪いた。

「いえ!偽りではありません。私はこの身が奈落の底に落ちようと、千本の槍で串刺しになろうと、皇后様の狗となって敵の肉を食いちぎり、骨をしゃぶり尽くしてご覧にいれましょう」

「そなたの望みを私が知らぬとでも思うか――私は初めて会うたとき、言ったはずだ」

「皇后様の知らぬことは、この宮城にはございませぬ」

 武后は一笑して立ち上がり、若い宮女を見下ろした。

「私から聖上にお願いをして、そなたも妃に封じてとらそうか」

 さすがの仙月もその言葉に全身が強張った。

「正直なことよの。だが、貴妃の座は、今のところは姉のもの。いくら私とてむやみに妃は増やせぬ。姉が生きているかぎり、そなたは永久に妃とはなれぬ。この道理は、わかるな……」

 仙月ははじかれたように主人を見上げ、そしてゆっくりと口の端を釣り上げた。


「お心、つつしんで承りました――」


***


注1「尚宮」…後宮の女官の一。

注2「銖」…質量の単位。

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