付記 日岸町奇報より 『隣の部屋』-2

 忘れもしない。カレンダーがもうすぐ五月に変わるという、雨の土曜日だった。狭い四畳半に自分の部屋から運び入れた布団を敷き、Aさんは肩がくっつく近さでBさんと並んで横になっていた。

 眠れない。

 瞬きさえも忘れたようにAさんの両目はぱっちり開いたまま、暗い天井を見上げていた。

 部屋は常夜灯の放つ淡いオレンジ色の光に照らされている。視線を少し横にずらせば、Bさんの様子を確かめられる。でも、怖くてできない。

 雨が庭木の梢を叩く音や、庇から落ちた雫が地面で飛び散る音。それらに混じって聞こえるBさんの寝息が、すでにおかしかった。ものすごく深く、へんに間延びしている。息を吸い込むたび、喉がヒィィと鳴る。まるで首を締められた者が苦しくてあげる悲鳴のようだ。

 突然、彼の寝息がピタリと止まった。

 十分、十五分……。Aさんはずいぶん長い時間が経ぎたと感じたが、実際にはほんの一、二分しか経っていなかったかもしれない。膨れあがる恐怖に追い立てられるように、ついにそろりとBさんの方を見てしまった。

「──?!」

 Aさんは、声にならない声を上げていた。Bさんがバネ仕掛けの人形のように、いきなり半身を起こしたからだ。それも、手もつかずに上半身がだけが勢いよく持ち上がった。

 Bさんは両腕をだらりと垂らし、頭は背中の方へと傾いでいた。天井を仰いだ顔は、この異様な事態とは裏腹に穏やかだ。幸せな夢でも見ているかのように、薄く微笑んでさえいる。Aさんはほんの少しだが救われた気持ちになって、思い切って声をかけようとした。

 ガクリ。

 またもや、いきなりだった。今度は頭が前に落ち、Bさんは深くうつむく形になった。

 Aさんは、自分でも知らないうちにカエルのように布団から這い出ていた。できるだけBさんから距離を取ろうと、傍らの本棚にへばりつくようにして彼を見ていた。

 Bさんがゆらゆら頭だけ動かしながら、立ち上がった。何かに操られている足取りで、壁のすぐ前まで移動する。Aさんの部屋との境にある壁だ。Bさんは、その場にすとんとしゃがみ込んだ。うなだれたままピクリとも動かない後ろ姿が恐ろしかった。やがて、彼の身体が前後にゆっくり揺れ始めた。


 ゴツン


 真夜中、Aさんを寝かせなかったあの音が部屋いっぱいに響きわたった。

 音の正体は、Bさんが壁に頭を打ちつける音だったのだ。Bさんの動きは妙に機械的で、一定のリズムを刻んで前後する。まるで壊れた玩具の人形だった。


 ゴッ ゴッ ゴッ


 石像さながらに身を固くして縮こまり、瞬きも忘れて見つめるAさんの前で、頭の揺れは次第次第に激しくなっていく。Aさんはどんどん追いつめられていく。

 こういう時は、金縛りにあうんじゃないのか?

 いっそそうだったらどれだけよかっただろうと、Aさんは恨めしかった。助けてほしいとBさんに頼まれたのだ。動けるし意識もはっきりしている今の状態では、彼を放って逃げるわけにもいかない。

 何とか立ち上がろうとするが、膝に力が入らなかった。本棚の棚板につかまり何とか踏ん張って身体を引き上げると、へっぴり腰でBさんに近づいた。

「おい……」

 呼びかける言葉が喉にへばりつき、掠れている。今やBさんは長い髪をザンバラに乱し、とても人間とは思えない異様な速さで、頭を千切れそうに振っている。

「だ、だ……大丈夫?」

 Aさんは、震えながらまぬけな声をかけていた。すると、壁の音がピタッと止んだ。

 Bさんが急に動きだしたり突然動かなくなったりするたびに、Aさんの心臓は口から飛び出そうになる。

 油っ気のない髪が、Bさんの横顔に蜘蛛の巣のように張りついている。わずかに覗いた唇が、もぞもぞと動いていた。

「……ね。お前……が……ね」

 何か呟いているが、よく聞き取れない。

 もうこれ以上、堪えられなかった。Aさんは電気を点けようとした。手を伸ばし、電灯からぶら下がった紐を掴もうとした、その時だった。うつむいていたBさんが、ぐるんと首を動かし、こちらを向いた。Bさんの顔を見たAさんは、恐ろしさのあまり尻餅をついた。

 その瞬間まで、Aさんはどこかでまだ疑っていたのだ。今見ているのは心霊現象なんかじゃない、夢遊病か何か、彼は心の病気なのかもしれないと自分自身に言い聞かせていた。しかし、そんな考えも一瞬で吹き飛んだ。

 Bさんは白目を剥いていた。なのに笑っていたのだ。顔中、老人のように皺だらけにして。太い血管のごとく浮き上がった表情筋がうねり、ぐにゃぐにゃとネジ曲がり、顔面を這い回っている。

 ふっとAさんの全身から力が抜けた。視界がぼやける。彼は気を失っていた。




 翌朝、目が覚めたAさんは、迷うことなくBさんから逃げ出した。何も覚えていない彼に自分が見た一部始終を話した後、とりあえず必要なものだけまとめて部屋を出、友達の家に転がり込んだ。

 昨夜のあの恐ろしい笑顔がちらついて、当分、Bさんの顔をまともに見られそうになかった。とてもこの世のものとは思えない出来事が毎晩繰り返されている部屋の隣で、何も知らないふりをして寝起きする勇気もなかった。

 半月も経っただろうか。ようやく少し気持ちの落ち着いたAさんが恐る恐る部屋に戻ってみると、四号室の扉にBさんの名前はなかった。二号室の青年が、一週間ほど前に越して行ったと教えてくれた。

「どうも自殺騒ぎかなにか起こしたみたいです。二階の住人がみんな出払ってる間のことなので、詳しいことはわかりません」

 外聞を気にかけ大家は教えてくれないが、実は追い出されたんじゃないかと青年は言った。

「あなたの方は? 何かありましたか?」

 長く姿を消していたAさんに、青年は探るような眼差しを向けた。余計なものに係わらない方が吉と一度は捨てた興味を、彼は再び呼び覚まされたようだった。

 Aさんは半月ぶりに自分の部屋で過ごしたが、その夜、音は聞こえなかった。翌日もその翌日もずっと……。

 喉元過ぎればなんとやらだ。何が何でも引っ越しするつもりでいたのに、二週間も経つ頃にはもう大丈夫かなという気持ちが芽生えた。Bさんがいなくなり、四号室の見えない主もおとなしくなったのではと、都合よく解釈するようになった。

 とはいえ、怖いことに変わりはない。来月には一階の一室が空くと聞いたAさんは、そちらに部屋を替えてもらおうと考えた。大家に頼むと、やはりBさんに関しては後ろめたいことでもあるのか、露骨に不満そうな表情を浮かべつつもあっさり許してくれた。

 一階に移る日が数日後に迫った。ようやく穏やかな日常が戻りつつあったが、Aさんには気になることがあった。

 神経過敏になっているだけかもしれないが、二号室の青年の態度がどことなくおかしいのだ。顔を合わせると何か言いたげなそぶりを見せるのに、それとなく水を向けても何も言わない。Aさんを避けているふうでもある。もちろん、心当たりはなかった。

 そんなある朝のこと。目が覚めたAさんは、起き上がろうとして再び布団に沈み込んだ。

 気分がよくなかった。思えばここしばらく調子の悪い日が続いていた。脳味噌の代わりに鉛の玉でも入っているのかというぐらい、肩から上が重かった。まるで眠っている間に激しく頭を動かしでもしたかのように、痛みで首の方まで引き攣れている。

 ──眠っている間に……頭を……?

 Aさんはハッとした。彼の脳裏に恐ろしい光景が広がった。

 真夜中、常夜灯の薄明かりのなか、異様な速さで壁に頭を打ちつける自分の姿だ。

 ──まさか……?

 隣室の青年は、かつてAさんがそうだったように、正体不明の怪音に悩まされているのではないだろうか?

 Aさんは引っ越しの金を必死に工面して回ると、日を置かず部屋を引き払った。あのアパートから出られれば、行き先はどこでもよかった。

「幸い、その後は何もありませんでした。頭の痛みも引きました」

  四号室には、確かに『何か』が棲んでいるのだろう。知りたくもないので調べもしなかったから、どんないわくがあるのか今も謎のままだ。Aさんが見た這い回る手首と関係はあるのか? Bさんの話していた片耳の潰れた男の霊が災いの元凶だったのか? それとも別の何かがとり憑いていたのか。

 だが、その正体の知れない何かはおそらくは恐ろしいほどの悪意と敵意のかたまりだったと、Aさんは思う。Bさんの口を借り呟いていたのは、呪詛の言葉。人を恨み呪う言葉だった、

 Bさんが自殺騒ぎを起こしたと聞いた時、霊にとり憑かれた恐怖から逃げようと思い余って──最初はそう考えた。だが、もしかしたら、彼は何かにそう仕向けられたのかもしれなかった。あと少し気づくのが遅かったら、あのアパートに居続けていたなら、Aさんも今頃は鴨居で首を吊っていたかもしれないのだ。

「気になるのは、二号室の彼です」

 彼も自分同様、音を聞いてしまったのだとしたら、奇怪な笑みを浮かべて呪詛の言葉を吐き捨てる何かにすでに取り込まれていたことになる。その後、彼の身にも災いが降りかかったのか。今も無事で元気でいるのか、それとも……? 長い時が過ぎた今となっては、確かめる術はない。

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隣の部屋 美鶏あお @jiguzagu

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