付記 日岸町奇報より 『隣の部屋』-1

 今も昔も、引っ越しには少なからずリスクはつきものだ。その場所で寝起きをしてみて初めて、どうにも気になってしかたがないことが必ずひとつやふたつ出てくる。



  四畳半一間、風呂なしトイレは共同。Aさんが東北地方の高校を卒業し、職を求めて上京した三十年以上昔は、金のない若者が一人暮らしをする部屋としては十分だった。

 だから、たとえば雨漏りの染みだらけの天井が気味が悪いとか、立て付けが悪くすきま風の吹き込む窓をどうにかしてほしいとか、そうした不満はあっても、まあ、この程度の家賃なのだからしかたがないとあきらめることができた。

 しかし、引っ越して一ヵ月。まず最初に気にかかったのは、一個のコップであった。

 Aさんが住んでいたのは外観が一戸建て風の二階屋で、共同玄関をあがると各階の廊下の両側に四部屋ずつ並んだ造りになっている。突き当たりにはトイレと、ちょっとした洗いものができる水場があった。

 Aさんの部屋は二階。廊下の右側、奥から数えて二番目の三号室。隣の、一番トイレに近い四号室は空き部屋だったが、扉の脇にはいつもコップがひとつ置いてあった。覗いてみると、なかには八分目ほど水が入っている。

 小さな商事会社に入り、経理のイロハを覚えるのに一生懸命だった半年間は、出がけに時たま横目で眺めるだけだった。しかし、ひと通り仕事を覚え、安月給なりに生活に余裕が出てくると、やはりどうしてそれがそこにあるのか、理由を知りたくなってくる。

 水の量がほとんど変わらないところを見ると、定期的に誰かが新しいものに替えているのだろう。だとすれば、大家以外にいない。大家一家は、同じ敷地にアパートと隣り合って建てた一軒家に住んでいた。

 ある朝のこと。出勤しようと部屋を出たAさんが扉を開けた瞬間、覚えのある匂いが鼻先を掠めた。彼は初めて、コップの中身が水ではなく酒だと知った。

 ──あれかな。何かいわく付きの部屋なんだろうか?

 酒は穢れを清めるためのもの。

 いつまでたっても借り手がつかないことと考え合わせると、どうしても不吉な想像に頭がいってしまう。

 同じ二階の住人は働く独身男ばかりで、顔を合わせる機会もめったになかった。それでも空き部屋とは反対隣、二号室に住む青年とだけは、出勤時間が重なるため、時候の挨拶を交わす程度の仲にはなっていた。そこでAさんは嫌な想像が膨らみきらないうちにと、ある時、思い切って彼に尋ねてみた。コップについて何か知らないかと。

 コップの酒を替えているのは、やはり大家の男性だった。二階の人間が仕事で出払っている時間帯を見計らい、三日に一度やってくるのだという。

 実は隣の青年も、入居してすぐAさんと同じひっかかりを覚えて、大家に直接聞いてみたのだと言った。

「なんだかね。あの人にもよくわからないみたいですよ」

 酒を入れたコップを扉の脇に置く理由もわからないなら、四号室になぜ借り手が居つかないのかもわからない。

「入居しても、半年もしないで皆出て行っちゃうそうなんです。会社の都合とか学校の関係とか、それぞれ引っ越しの事情はあるらしいけれど」

 もう六十を越えている大家は、今は亡き両親からこのアパートを引き継いだ時、何の説明もないまま、コップの習慣を守るようきつく言い渡されたという。度の強い黒縁眼鏡をかけた、いかにも生真面目で融通がきかなそうな家主は、それを家訓のようにただ守っているだけなのだった。

「すっかり習慣になってしまって、今となってはたいして気にもしていないようでした。でも、もしかしたらその方がいいのかもしれませんね。うまく言えないど……、あまり考えない方がいいのかもしれない」

 青年につられて、Aさんもコップを見た。どちらともなく黙り込んでしまい、Aさんは急に脇腹のあたりがぞくぞくとしてきた。

 わけがわからないけれどなんだか気味が悪いというのが、一番始末におえない。

──そう言えば、俺はどうして四号室を選ばなかったんだろう?

 不動産屋に紹介された時、このアパートに空き部屋は二つあった。Aさんが今住む三号室と、問題の四号室だ。

 間取りはほとんど変わらない。日当たりはむしろ四号室の方がいいくらいで、トイレに近く利用しやすい点もAさんにとってはメリットだった。それなのに、迷うことなくAさんは三号室を選んだのだ。

 今更ながらに首を捻ったAさんの脳裏に、突如、蘇ってきた記憶があった。

「ほら、あの端の二部屋がそうですよ」

 アパートまでAさんを案内した不動産屋が門の前で足を止め、二つ並んだ二階の窓を指差した時、彼は一瞬、奇妙なものを見たのだ。四号室の下の窓枠に近い場所を右から左へ、何かが這っていったのだ。

 青白い、大きな蜘蛛を思わせるもの。Aさんの目には、人の手首から上だけが勝手に動き回っているように映った。

 しかし、部屋を決める時にはすでにそんなものを見たことなど、きれいさっぱり忘れていたように思う。その後も今この瞬間まで、白い蜘蛛の記憶は見事に頭から抜け落ちていた。

 おかしい。あり得ないことだ。Aさんはいよいよ背筋を寒くした。うっかりあれを見てしまったばっかりに、あの日、あの瞬間、自分は隣室に隠された何かとかかわりを持ってしまったように感じたからだ。

 Aさんは、気にしないようにすればするほど意識してしまった。真夜中、人の気配も車の音も絶え、あたりがすっかりが静まりかえった時刻に目でも覚まそうものなら、次第に息苦しくなる。全身の神経が一本残らず逆立ち、敏感になっているのがわかる。薄い壁一枚挟んだ向こうに、冷たく巨大な墓石でも横たわっているような気分になる。

 だからこそ上京して迎えた最初の正月、隣の部屋に荷物が運び入れられるのを見た時は、驚くより何よりほっとした。



 四号室の住人──Bさんは、謎のコップのことなどまるで気にかけていないように見えた。

 律儀に入居の挨拶にきた彼は、Aさんと年が近いうえ同じ地方からの上京組とわかって、すぐに言葉を交わすようになった。やがて、休みの日には互いの部屋に呼んだり呼ばれたり、おしゃべりする仲になった。

 いずれは得意なギター一本で生きていきたいと、今は飲み屋で働いているBさんは、にぎやかで人懐っこい性格の青年だった。肩まで無造作に伸ばした髪に派手な色のTシャツ、くたびれたジーンズと、いかにも型にはハマらない自由人といった風貌の。

 そういう人間が部屋の主になったからこそ、Aさんは余計に安心していた。Bさんに招かれ初めて足を踏み入れた時、何やら薄暗く空気が淀んで感じた四号室も、彼の人柄に照らされすっかり明るくなったようだった。隣室に隠されたいわくなど実はなにもないのだと、Bさんが証明してくれたような気持ちになっていた。

 ところがである。

 ふた月も経っただろうか。アパート近くの公園の桜に、ひとつ、ふたつと薄いピンクの花が綻び始めた頃。寒さもすっかり緩んだ季節だというのに、Aさんは真夜中、震えながら目を覚ました。頬に触れる空気はピリピリと凍えて、まるで真冬に外で眠ってでもいるようだった。


 ゴツン


 音がした。


 ゴツン


 聞こえる。

 それも、とても近くからだ。

 固い物同士がぶつかるような音だった。

 布団のなかでじっと息を殺すAさんの視線は、反射的に右側を向いた。そこにはあちこち細かいヒビの入った薄汚れた壁があって、音は確かにその向こうの四号室から聞こえてくる。


 ゴツン ゴツン ゴツン


 ゆっくりと規則的に、重く空気を震わせ、音はいつまでも続いた。

 この真夜中に、彼は何をしているのだろう? そもそもこれは、本当にBさんがたてている音なのか?

 Aさんがそこまで考えた時だ。急に音の間隔が短くなった。


 ゴッ ゴッ ゴッ


 驚いて飛び起きたとたん、ピタリと止まった。ツンと耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。

 音はその後も二日続けてAさんを悩ませたかと思えば、四日も五日も何もなく、ほっとした頃にまた始まる──というふうだった。まるで見えないところで誰かの意志が働いて、Aさんを嬲って遊んででもいるようだった。

 AさんはBさんに事情を話し、どうなっているのか尋ねようと考えたが、いざとなるとためらってしまう。幽霊話が好きな人間でも、霊的なものと進んでかかわり合いたいと思う者は、たぶんそうはいない。Aさんもその一人だった。

 幻聴ではないか? 怖い怖いと思うから、繰り返し夢でも見ているのではないか?

 Aさんはどこかで自分を疑い、そう言い聞かせようとしていた。コップのことばかり考えているうち、自分で感じる以上に神経がまいってしまっているせいだろうと。

 しかし、日に日に元気を無くしていくBさんを見ていると、やはり何かあるとしか思えなくなってくる。いつの間にかトレードマークの笑顔もどこかへいってしまい、Bさんは暗い横顔を見せため息ばかりつくようになった。もともと痩せていたのがさらに細くなり、立っているのも辛そうだった。仕事も休みがちになった。

 AさんはBさんを、コップの存在など気にも留めていない、幽霊のたぐいに興味のまるでない人種だとばかり決めつけてきたが、

 ──実は反対なんだろうか? 見えないものが見えてしまう人なのかも……。

 金壺眼というのがある。

 額からグッと落ち窪んだ場所にある丸い眼のことを呼ぶのだが、そういう目をした者は幽霊を見ることができるのだと、Aさんの知人に話してくれた人があった。なんでもその人がかつて会った霊能者が二人とも、そうした一種異様な迫力を感じさせる眼の持ち主だったのだそうだ。

 Bさんもまさにそれだった。

 AさんはとうとうBさんに、深夜の怪音について思い切って打ち明けた。わざわざ駅前の喫茶店に呼び出すと、何か不可思議なものを見たり聞いたりしているのではないかと正直に尋ねてみた。

「自分が見てる人間のなかに死んでるやつが混じってるんだって知ったのは、小学校に上がってからだったよ」

 やはりそうだった。

「人は死ぬんだってことを、自分の頭で理解できる年になってからだ」

 Bさんは見える人だったのだ。

 しかし、Bさんの瞳に映る彼らは輪郭がぼんやりとして、顔かたちなどはっきりしないことも多い。何をしかけてくるでもなく、ただぼーっと立っているだけ。いつもそんな状態だったから、Bさんの方にも次第次第に慣れが出て、長じるに従い怖いと感じる気持ちも薄らいでいった。

「あの部屋にも何かいるの?」

 実は四号室に入った時からわかっていたんじゃないかとAさんがさらに突っ込んで聞いてみると、Bさんはためらいつつも頷いた。

「たぶん、男だ。俺たちと同じぐらいの年の若いやつだよ。うつむいてるから顔はよくわからないけど、片方の耳が潰れてる」

 Aさんはそう聞いただけで、ぞうっと鳥肌がたった。想像のなかにだけいた『何か』が、ついに実体を持ってしまった。

 Bさんの話では、四六時中見えているわけではないという。

 たとえば、何かを拾おうと腰を屈めた時、視界の端っこに足が映る。すぐそこに立ってBさんを見下ろしている男の足だけが見える。たとえば、帰宅して電気を点けた時、古い電灯がチカチカと瞬くその数秒の間だけ、部屋の片隅に立ってこちらに背を向けている男の姿が浮かびあがることもある。

 Bさんは我慢できる範囲だというが、Aさんにしてみれば聞けば聞くほどそんな相手とよく同居できるなと、驚きを通り越し、感心してしまった。ただ、このアパートより安いところはそう簡単には見つからない。呑気に部屋を探しを続けるだけの時間も金もないからしかたがないという切羽詰まった彼の事情は、同じ境遇のAさんにも十分理解できた。

 Bさんは、音の正体については何も知らなかった。朝になるまで一度も目を覚ますこともなく眠っているからだ。

 ただ、このところいくら寝ても頭がすっきりしない。身体が休まるどころか逆に疲れが溜まっていくみたいだという。寝ている間に自分の身に障りのある何かが起こっているのではないかと、その自覚はあるらしい。

 引っ越しするにも、まとまった金がいる。今しばらくこの部屋で暮らさなければならないなら、何が起こっているのか調べたい。どうにかできるものならどうにかしたい、協力してほしいとBさんに頭を下げられ、Aさんは困った。

「ひと晩でいいんだ。俺のところに泊まって、俺が眠っている間に何が起こっているのか見てくれないか?」

「俺が?」

 冗談ではなかった。真っ暗な部屋のなか、手も足も心臓までも冷たく縮こまらせ、じっと息を殺している自分の姿がありありと浮かんできた。

 Aさんは迷った末に断った。君には力になってくれる友達がたくさんいるだろう、ほかをあたってほしいと言って。だが、Bさんはどうしてもあきらめてくれない。

「あんたじゃないと、何が起こっているのかわからないかもしれない」

 Aさんが耳にしている音は、きっと誰にでも聞けるものではない。あんたが四号室に憑いた何かとすでにかかわってしまっている証だ。あんたじゃないと俺は救えないと、BさんはAさんに縋った。

『これ以上、余計なことを考えない方がいいですよ』

 二号室の青年のアドバイスを聞いておけばよかったと、Aさんはつくづく後悔した。

 Bさんに押し切られ、結局、Aさんは引き受けることになった。そして、二度と思い出したくない体験をすることになる──。

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