6
今夜の出来事は夢ではない。現実に首を絞められたのだということ。しかも犯人は恋人だったということ。その事実を知ってもなお、警察に連れて行かれるタカくんにすがりついて泣いていたサオリちゃんの愛が、彼には重すぎたのだ。
彼は何度も別れたいと言ったが、彼女はまったく聞き入れようとしなかった。それどころか次に会った時には、まるで何もなかったみたいな顔をしている。怒鳴っても殴りつけても、すぐにニコニコ笑ってくっついてくる。
『俺はだんだん怖くなってきた。俺の知らない人間がサオリの皮を被っているんじゃないかって気がしてきた。殺らないと殺られると思ったんだ』
後々彼女が警察から聞かされた話によると、凶行に及んだ理由はそういうことだったらしい。でも、もし彼がごく普通の男であったなら、二人が別れるまで相当時間はかかるだろうが、延々もめ続けるだけで事件になどならなかっただろう。
初対面で彼に恐怖を覚えた僕は、正しかったのだ。
サオリちゃんの愛するタカくんは、かなり凶暴な男だったようだ。いきなり空き缶に当たって蹴飛ばしたように、平気で犬や猫を足蹴にできる、笑いながら人間にも拳をふるえる男。
警察で取り調べを受けているうち、この近所で最近起こった小学生殴打事件の犯人だとわかったと聞いて、僕は心の底からぞっとした。
──駐輪場で幽霊と間違えたあの日は、もしかしたらサオリちゃんを殺すつもりで部屋を訪ねようとしていたのかも……?
追い詰められ膨れあがった彼の殺意が暗く凍えたオーラとなって、彼を人ならざるものに見せたのかもしれなかった。
彼女が襲われてから半月が経ったが、僕はあれから有り余る時間を使ってずっと考え続けていた。
──やっぱりあれか? 彼女が毎晩見ていたのは、予知夢だったのかな?
夢はサオリちゃんが自分のベッドで恋人に首を絞められ殺される未来を、夢とは思えないリアルな感覚に訴え、繰り返し教えてくれていた?
玄関の扉を乱暴に叩く音がした。
チャイムに続いて、またガンガン叩かれる。
「イシイ! いるんでしょ!」
サオリちゃんの声だ。意外に元気そうでほっとする。
あれから彼女とは事件について、一、二度立ち話をしただけだ。二人の間にとりたてて何か変化があったわけでもなかった。今まで通りの、進んで顔を合わせることのない隣人同士の関係に戻っていた。
『そんなに嫌われてたなんて、私、知らなかった。信じられないよ……。信じたくないよ!』
僕の前でもかまわずに涙をポロポロ零していたサオリちゃんは、恋人に殺されそうになったことより、それほどまでに嫌われていた事実の方によほど大きなショックを受けていた。もうどんなに好きでいても駄目なんだと、ついに彼から離れる決心をつけたほどに。
この半月、彼女はほとんど部屋に引きこもっていたんじゃないだろうか。対して僕の方は、前よりも頻繁に外に出るようになっていた。
扉を開けると、見慣れたサオリちゃんの不機嫌そうな顔が覗いた。
「もう! いるんならさっさと出てきなさいよ!」
文句をぶつけてくる口調も相変わらずだが、僕を見る目は以前ほどは冷たくはない、ような気がする。
「私、実家に帰ることにしたの」
「え? 引っ越すの?」
「そっ」
「ひょっとして今日?」
道理で朝から壁の向こうがうるさいわけだ。てっきり気分転換に部屋の模様替えでもしているのかと思っていた。
「荷物は今さっき出発して、私はこれから出てくとこ」
「そうなんだ? そっか……。そうだよね。その方がいいと思うよ」
「でしょ?」
サオリちゃんはまだ何か言いたそうだった。でも、視線をそらしたまま、いくら待っても口は開かない。
──ん?
髪を搔きあげる彼女の指が目に留まった。
「その指輪……?」
心臓にすうっと冷たいものが差し込んだ。思わず廊下に出て、後ろ手に扉を閉めていた。
僕は直感した。夢と現の境で自分においでおいでをしていた手が嵌めていた、あの指輪だと。
「これ?」
彼女は「しぶいけど可愛いでしょ」と、開いた指に目を落とした。くすみがかった銀色に輝くリングだ。
「おばあちゃんにもらったんだ。おばあちゃんのお母さんの形見なんだって」
「形見……」
彼女の予知夢に出てきた手首がタカくんのものだったとしたら、じゃあ僕が見た手首の持ち主であるあの老婆は誰だったのか? いくら考えても答えが見つかるわけもなかった疑問が解けた瞬間だった。
──あれは、サオリちゃんのひいおばあちゃんだったんだ? でも、なんで? なんで彼女じゃなくて僕のところに?
まさか、可愛い孫を恋人の殺意から守ってほしくて出てきたのか?
──たまたま隣に住んでいるからってだけの理由で? そんなの、わかるわけないだろ!
幽霊や妖怪と仲良くなって力を合わせて事件を解決するという展開はラノベではよく見るけれど、現実には無理そうだ。僕にはひたすら怖いだけだった。
「あの指輪、ずいぶん前に失くしちゃって、ずっとどこにあるのかわからなかったんだよね。それが引っ越しの片づけをしてたら見つかったんだ」
指輪を嵌めた右手を開いたり閉じたりしているサオリちゃんは、いつも使っている引き出しなのにどうして今まで気がつかなかったのかなあと、不思議そうに首を傾げている。
──予知夢を見せていたのも、ひいおばあちゃんだったりして?
いや、間違いなくそうだろう。それ以外、ありえない。
「なあに? この指輪がどうかした?」
「あ……いや……」
僕はとっさになんでもないと首を横に振っていた。
彼女には教えなくてもいいかなという気がしていた。事件後、彼女が手首の話を口にしたことはなかったし、
──彼のことも何もかも、全部忘れたくて引っ越すんだろうから。
カラ元気かもしれないが、事件後、別人みたいに沈んでいた表情に大分明るさが戻ってきたみたいだし。今更蒸し返して、また悲しい気持ちを思い出させるのはかわいそうだった。
あのタカくんに怖いと言わせてしまうサオリちゃんの愛情は、確かに恐ろしく強力なのだろうが、それだけ一途なのだとも思う。だから、もし彼女の気持ちをまるごと受けとめ応えてくれる相手と巡り合えたら、とんでもなく幸せになれるんじゃないだろうか。想像すると、僕には少し羨ましかった。
「なによ?」
「なんでも……」
僕はそっとため息をついた。彼女を励ましたくても、どう伝えればいいのか。ふさわしい言葉が探せなかった。女の子を前にするとちっとも動いてくれない口も変わらない。勇気を振り絞って彼女を助けに飛び込んだことで自分が少しだけ変われたような気でいたけれど、そうでもなかったかな。
サオリちゃんは僕に背を向け行きかけたと思ったら、なぜかまた戻ってきた。
「ありがと」
「え……」
「助けてくれてありがとう。すぐに言わなくてごめんね」
「え……え?」
瞬きを忘れた僕の瞳に、笑顔のサオリちゃんが映っている。喫茶店の沙織ちゃんに似て垂れ気味の目元が和らぎ、彼女は確かに微笑っていた。
「イシイ、あの時、ちょっとだけかっこ良かったよ」
「あの時?」
「ほら、私が警察に連れて行かれる彼を追いかけようとした時」
僕は彼女に抱きついて叫んだらしい。
『もういいだろ! 十分だろ! 目いっぱい好きでいられたんだから! 告白もできなかった僕より偉いよ! 後悔しなくてもいいから、忘れちゃえよ!』
彼女を必死に引き留めたのは覚えているが、あの時はとんでもない昂奮状態で、自分が何を口走ったのか。思い出そうとしてもほとんど思い出せなかった。
「後悔しなくていいって台詞がよかった。タカくんに嫌われたのは悲しいけど、出会えてよかったって、好きになってよかったって今でも思ってるもん」
初めて話をした時と違って、今は薄手のコートを羽織っているサオリちゃんは、一歩下がってじゃあねと手を振った。
「ま、キミもいろいろあったみたいだけど、頑張って」
彼女が階段を降りて行く足音を耳に、僕はしばらくぼうっとその場に突っ立っていた。
と……胸の奥から熱いものが込み上げてきて、僕は一瞬、息をつめた。それからゆっくりゆっくりと呼吸をする。肩の力が嘘のように抜けていった。
「久しぶりに求人サイトでも覗いてみるかな」
玄関に入ろうとして僕は、今はもう新しい住人を待っている隣の部屋に目をやった。
──そう言えば、彼女が捨てたあの御札、おばあちゃんの霊も祓っちゃってたんだな。……ん? だけど、どうしてこの部屋に貼ってあったんだろう?
なぜ? いつ誰が? なんのために?
それは今回の出来事とはまた別の物語なのだろう、きっと。
背中がぞくぞくしてきた。
急にあたりの空気が冷たくなったようだった。
僕はもう何も考えないことに決めて、勢いよく扉を閉めた。
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